大極殿炎上

 うえが夜の御殿おとどに入ると、二間ふたま(隣の部屋)で護持僧ごじそうきょうを読み始める。


 帝は、二間の戸を開けた。

「兄君」

「すぐに気付かれてしまったか」

 はなだ(青緑)のきらきらしい袈裟けさを掛けた惟喬これたかは、帝――弟に向かって、なつかしく(ひとなつこく)笑む。


 帝は、惟喬に向かい合って、座った。

 惟喬が護持僧ごじそういつわり(護持僧のふりをして)、二間ふたま(隣の部屋)にはべり(やって来て)、帝と物語ものがたりする(語り合う)ことは、よくあることだった。


春宮はるのみや(皇太子)様に、紀氏が寿ことほぐ歌を」

「知っていらっしゃるのですね」

 惟喬が言いかけると、弟は問い返した。


 惟喬の笑みが消えた。

「すまない。私のとが(責任)だ」

 面伏おもてぶせする(顔を伏せる)。

渚院なぎさのいんで、むことがあって、今日まで、宮中うちに参ることができなかった」


 死穢しえに触れると、一月ひとつき宮中うち参内さんだいすることはできない。

 紀有朋きのありともは死んだ。

 紀望行きのもちゆきの言の葉に、黄泉よみがえりさせられても、目を開けることはなかった。俺のことに切られて、流れ出た血が多すぎたのだ。



「もう遅いのです」

 帝が言うと、惟喬は顔を上げ、両の手を伸ばし、弟の手をくくむ。

「遅いことなどない。鬼は、紀氏が静める。安心しなさい」



 うえは、惟喬を真直まなお見守まもる(じっと見つめる)。


 一重ひとえの眼が似ているかと思えるほどで、うえまろらかに(丸く)広がった鼻も、あつらかな口縁くちびるも、惟喬とは似ていない。

 俺とは、何も似ていない。


春宮とうぐう(皇太子)を鬼と呼び、紀氏をつかわせて、呪詛じゅそするなど、私が許さない」

惟仁これひと、」

 惟喬は、弟の手を握り、名を呼ぶ。


 帝の冷たい手は、惟喬はたなうら(手のひらの中)から引き抜かれて、二間ふたまの戸を閉めた。

「兄君…私が、我が子を守る方法ずちは、これしかなかったのです……」


 惟喬は、閉められた戸に向かい、経を読み始めた。

 経を読む声にまぎれて、帝が立ち上がり、夜の御殿おとど御簾みすすだれ)を掴み上げて、出て行ったことに気付かなかった。



 その夜、大極殿だいごくでんが炎上した。

 父が、篝火かがりび(鉄のかごに火をいて灯りにした)のたきぎを投げ入れたのだ。隠してくれた俺の下がり(食べ残し)のししくたれたものも、燃え果てた。



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