何処いずこへ」

 紀有朋きのありともに問われて、俺が帰った所は――清涼殿せいりょうでん、夜の御殿おとど


 御簾みすすだれ)の向こう、とばりを上げた(周りを囲った布を上げた)御帳台みちょうだい(一段、高くした寝台)に、文机を置いてうえが居る。俺のまことの父。


 父は、文机ふづくえの上のきょうを、二間ふたま(隣の部屋)に居る護持僧ごじそうの声に合わせて読んでいた。


 その経は、惟喬これたかが写して(写経しゃきょうして)、帝にたてまつった物だ。


 父が経を読み終わるのを待っていたが、いつまでも続いて、俺は声をかけてしまった。

父君ててぎみ


 父の経を読む声が止まった。護持僧の声は続く。

「誰だ」

 顔を上げる父と、御簾越みすごしに目が合った。父は微笑む。

何処いずこわらわ(どこの子ども)が、おびれたか(寝ぼけたのか)」


 俺は笑い出す。

 父は、俺が我が子だと、分からないのだ。

 灯台とうだい(木の細長い台の上に置いた油皿あぶらざらひたした芯に火をともした)のあかりが、暗くて見分けられないのか。


 ちがう。

 数えるほどしか、見合ったことがないのだ。

 いや真直まなおに、見合ったこともない。

 父君は、俺の顔なんて知らないのだ。


 すべてを知れる鬼の俺は、知った。

 俺のまことの父が、うえだと分かっても、何のあかし(証拠)もないことを。


 何を、父と子であるあかしとするのだ。

 紀有朋きのありとも友則とものり

 紀望行きのもちゆき貫之つらゆき

 源蔭みなもとのかげ鶯歌おうか

 前帝さきのみかど(文徳天皇)と今のうえ

 前帝さきのみかど(文徳天皇)と惟喬これたか

 惟喬と喬男たかお


 母は、子を自身みずからの腹にはらみ、産むのだから、我が子だという証はある。

 しかし、父は、何の証もなく、自身みずからが父だと、この子が我が子だと、どうして信じていられるのか。




「今日は、父君ててぎみと寝るの」

 いつもは、昼も夜も俺から離れないくせに、鶯歌おうかは、父の源蔭みなもとのかげ宿直とのいに来る(泊まりに来る)と、わざわざしく言う。

 屏風びょうぶを立てて、鶯歌は父と母の間に寝て、衣衣きぬぎぬを重ねて寝る。


 帳台ちょうだいに、俺は独りで寝る。

 俺は、母と寝たこともない。

 心付こころづいた(ものごころがついた)時には、俺は春宮はるのみや(皇太子)になっていて、乳母めのと女房にょうぼう(侍女)に、かしづかれて(世話をされて)いた。


 父はうえだ。けれど、まことの父は、在原業平ありわらのなりひらだと、皆がつつめいていた。


 俺は、母に似ているばかりで、父に何も似ていないのだそうだ。



 俺は知りたかった。真の父が帝なのか、在原業平なのか。


 強く欲すると、鬼と成り、ざえ(異能)を得る。

 鬼と成っても、何の意味もなかった。

 俺がまこと(真実)を知っても、あかし(証拠)がなければ、誰も信じてくれない。



「誰か。誰か。」

 うえの呼ばわる声に、台盤所だいばんどころ女房にょうぼうたち(侍女たち)が待機している部屋)に寝汚いぎたなしている(ごちゃごちゃ寝ている)女房たちが、寝おびれて(寝ぼけて)、つつき合う。

 ついに、端近はしぢか(一番、廊下に近い所)に女房にょうぼうが起き出して、たわ(髪の寝ぐせ)もそのままに、やって来た。


「あなや(あらまあ)、何処いずこわらわが寝おびれて(寝ぼけて)、こんな所まで。」

 女房は言いながら、御簾の前に立っている俺を、袖でくくんだ。


「誰の子だろうか」

「さて(さあ)。」

 寝おびれた(寝ぼけた)女房は、はしたなく(礼儀れいぎもなく)、帝にあくび混じりに応える。

「暗くて、探せませんから、明けたら、探しましょう。――此方こち、おいで」

「頼む」

 帝は言うと、また護持僧の声に合わせて、経を読み始めた。


 女房は、俺を袖でくくんだまま、歩き出す。俺は押されて、歩くしかない。

「お渡りもしないで(きさき殿舎でんしゃ(宮中の后の住居すまい)にも行かないで)、おつとめ(読経どきょう)なんてねえ」

 あくび混じりに女房は、ひとつ。



――父も、同じことがあったのだ。


 父であるさきうえ文徳天皇もんとくてんのう)の住まう冷然院れいぜんいんに行った時。

 父(文徳天皇)と母(紀静子きのしずこ)の前で、書物ふみを読み、褒められる惟喬これたかを、御簾越しに見ていた。


 父は、御簾の前に立っていることも気付いてもらえなかった。



 俺は、立ち止まった。

「どうした」

 女房が、俺の前、しゃがみこんだ。俺は言った。

「のどが、かわいた」


貞明さだあきら。」

 父が俺の名を呼ぶ声が、駆け寄る足音が、聞こえる。

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