花の形見

「父君も、人のいこと(お人好ひとよしだ)。あんな鬼、何処いずこにでも、彷徨さまよえばいいのです」

 紀友則きのとものりは、ざまに言う(悪口を言う)。


阿古あこ――貫之つらゆき帳台ちょうだいを見てみろ」

 阿古久曾あこくそと、貫之の童名わらわなを呼びかけて、友則は言う。


 紀貫之きのつらゆきは言われるままに、奥へ行き、とばりを下ろした帳台ちょうだい(一段、高くした寝床ねどこ)の前、ひざまずく。

かしこみます(失礼します)」

 とばりを上げても、闇に見えず、しとね寝床ねどこ)を手探りする。


 帳台に俺がいないと分かって、貫之は友則を返り見る。

「鬼が――いや春宮はるのみや(皇太子)様が、いらっしゃいません」

 帳台の内にあった鬼の気配が消えたのは、友則が静めたからだと、貫之は思っていた。


「鬼が『帰る』と言って、が父君が『何処いずこへ』と問うただろう。一時ひとときで、所を移れる(一瞬で移動できる)鬼も、すえを確かに思い定められなければ、彷徨さまようばかりだ」

 友則は、はちぶいて(ぶつぶつ言って)、鼻をすすった。

菓子かし果物くだもの)でも参らせたのか(食べたのか)。甘い匂いがする…」


まことに…私も、人のいことだ…」

 紀有朋きのありともは言うと、紀望行きのもちゆきのふくらかな体に寄り掛かった。

「兄君っ」

 兄の身を抱え、望行は座り込む。


「どうして、父君っ」

 友則は、父の側に座り込み、おめく。


 夜闇にも友則の眼には見えている、父の白いあこめを真紅に染め、広がってゆく血が。


「あんなみだりがわしい言の葉(ざつな言葉)、受けても、こんな…どうして……」


 俺のことを有朋は、その身に受けていた。

――俺の「死ね」という言の葉に返そうと、有朋は歌を詠み始めていた。

 けれど、俺に「何処いずこへ」と問うのに、歌を詠みめたために、「死ね」という言の刃を、その身に受けることになったのだ。



 他に、言うことを思いつかなかっただけなのに……



 有朋が血濡れた袖を重く上げ、泣く友則の震える口縁くちびるに、血の伝う指先で触れた。

「笑って」

 友則は父の手を取り、笑む。


 血に濡れたあこめに、桜の花片はなびらあや模様もよう)のように散りかかる。

 紀有朋は笑み返す

「さくら色に きぬは深く染めて着

 花の散りな のち形見かたみに」


 さくら色に 衣は深く染めて着よう

 花の散ってしまった後の形見となるように


 紀有朋は眼を閉じた。


「兄君、生きて下さい」

 紀望行は、腕に抱えた紀有朋に言った。

幾度いくたび(何度)、あなたは死にかければ、気が済むんですか」


 有朋は眼を開けた。

「ちがうだろ。幾度いくたび、私を黄泉よみがえりさせれば、お前は気が済むんだよ」

 笑って、眼を閉じた。



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