正身

 俺は驚いた(目を覚ました)。


 夜闇よやみに、西のたい(西館)の簀の子すのこ(外廊下)に紀有朋きのありともと女が立っている。有朋は、白いあこめ(肌着)に、くれない指貫さしぬきはかま)。女は、紅の衵に袴。夜闇に色は、見えないが。


 有朋は、とざされた妻戸つまど(扉)に掛けられた巻紙まきがみを外す。


 やくもたつ いづも やへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを


 紙には、仮名かな(ひらがな)で、歌が書かれている。


 八雲やくも立つ 出雲いづも八重垣やえがき 妻籠つまごみに 八重垣つくる その八重垣を


 八色やいろの雲が立つ出雲の八重垣やえがき(幾重もの垣根かきねかこい))妻の住居すまいとする 八重垣を造る その八重垣を


 紀氏が鬼をえる時(止める時)、める(閉じ込める)時に詠む、旧歌ふるうただ。

 素戔嗚尊スサノオノミコトが、出雲に都を造った時に詠んだ歌だと言い伝えている。


 喬男たかおが持って来た硯箱すずりばこ(書道具)と巻紙まきがみ(巻いた長い紙)で、紀貫之きのつらゆきが書いた。


紀望行と同じ筆跡だねえ」

「ありがとうございます」

 遍昭へんしょうめられて、貫之は礼を返した。


 内教坊ないきょうぼう妓女ぎじょを母に持ちながら、雅楽寮うたりょうではなく、図書寮ずしょりょうつかさる(就職する)のは、舞を「母を写したよう」とばかり褒められることを嫌ったのか。

 親に似ていないとか、似ているとか、人がそればかり心にかけるのは、どうしてなのだろう。

――分からない。



 紀貫之が旧歌ふるうたを書いた巻紙まきがみを、紀有朋きのありともは左の手に持ち、膝を折り、背を低くする。右の手で、隣に立つちいさやかな女の、背の半ばほどの伸び足りない黒髪を撫でるようにして、かきやり(かきあげ)、耳につつめいた。

「いで、歌を詠みたまえ(さあ、歌を詠みなさい)」


 女は、声を出せないように、有朋にざえ(異能)で封じられていたのだ。


 とざされた妻戸つまどが内から開き、有朋も女も笑む。


 内には、狩衣かりぎぬ(上着)と指貫さしぬきはかま)のままの紀望行と紀貫之が並び立っている。

 その奥の、とばりを下ろした帳台ちょうだい(一段、高い寝台)には、俺がしている(寝ている)。



「兄君、」

「誰とも知れないむすめが、春宮はるのみやに歌をたてまつるだけだ」

 望行をさえぎり、有朋は言う。

――望行も貫之も、有朋と女を止めるために、妻戸を開けたのだ。


「女の正身しょうじみ(正体)など、知れてるぞ」

 俺は帳台ちょうだいの内で起き上がり、言ってやった。

 紀望行と紀貫之が返り見る。


「すぐに静めて、すべて忘れさせてやる」

「いとこぎみ

 その声に、貫之は向き返り、夜闇よやみに目をこらして、従兄弟いとこ紀友則きのとものりを探す。


きみ(紀友則の呼び名)まで、来ているのですか」

 紀望行は、俺の居る帳台から目を離さずに言う。


「その女が、紀友則だ」

 俺が言うと、貫之は、望行までもが向き返り、女を見る。


 俺は言いいて(説明して)やる。

初冠ういこうぶりした紀貫之に、妻合めあわせる同じとしの頃の女がいないと、惟喬これたかしんで(残念がって)、在原業平ありわらのなりひら紀有朋きのありともが、おもしろがって、装束しょうぞくさせたのだ(女装させたのだ)」


 友則は笑み声をとよませる。

まことに、何でも知れるのだな」

まことに、いとこ君なのですか…」

 貫之に問われて、友則は笑み声を止められない。

(私)だって、拒んで、逃げたのだぞ。でも、(お前)と行き合って(偶然、出会って)、吾に気付かないのが、おかしくてな」


 行き合った時、貫之に背を向け、姫が小さやかな身を震わせていたのは、怯えていたのではなく、笑いをこらえていたのだ。


 友則に笑われて、貫之は顔をあかむ――夜闇で、見分みわくことはできないが。


「浮きながら ぬる泡とも なりなな

 流れてとだに たのまれぬ身は」

 紀友則が歌を詠んだ。


 浮きながら消えてしまう泡にでも、なってしまって欲しい

 流れていても

 手飲たのまれない(その手にすくわれることのない)

 頼りにならない身は



――抱え上げられるように、俺の体が浮かび上がり…ちがう。体は、帳台ちょうだいにある。心が体かられて(け出して)ゆく…



 母屋もや(本館)では、在原業平が、惟喬が、遍昭が、鶯歌おうかが、紀全子きのまたいこが、熟睡うまいしている。

 東のたい(東館)でも、女房にょうぼうたち(侍女たち)や、山賤やまがつども(山に棲む民たち)が、熟睡うまいしている。

――皆、紀有朋の言の葉に眠らせられたのだ。



 知りたいことは知れた。静められて、ざえ(異能)を奪われても


「すぐに静めて、すべて忘れさせてやる」と、紀友則は言った。

 忘れてしまうのか、知れたことも。


 いやだ。


 とばりが下りた帳台ちょうだいの内の俺は見えていないのに、友則は笑んでいる。


「消え、ろ…」

 俺が振り絞った言の葉を、友則はあざける。

「そんな返しで、が歌(私の歌)にあらがえるものか」


 もっと強い言の葉…俺は言った。

「死ね」

 友則は声を上げて嘲笑あざわらう。

「富士のみねの」

 紀有朋までもが歌を詠み始める。


 静められる前に、忘れさせられてしまう前に、


か、える」

何処いずこへ」

 有朋に問われた


 父君の所へ。

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