今の帝

「それはできない」


 惟喬これたかの答えに、喬男たかお長息ながいき(溜息)をいた。

「皆を退かせる」

「外に散るよりは、ひがしたい(東館)にいてくれた方が守りやすい」

 紀有朋きのありともが立ち上がり、喬男に言う。そびゆる(すらりと背の高い)有朋を、喬男は見上げて、はちぶく(不満を言う)。

「鬼に東の対を襲われたら、皆殺しじゃないか」


「――貫之つらゆき

「はいっ」

 伯父・紀有朋に呼ばれて、返事かえりことしても紀貫之きのつらゆきは、鶯歌おうかに掴まれた烏帽子えぼしを奪われまいとして、話をするどころではない。


 有朋は、喬男に向かって言った。

「喬男、硯箱すずりばこ(書道の道具箱)を持って来てくれ」

御簾みすすだれ)に、望行もちゆき様の書いた歌を下げるのか」

「ああ」


 有朋の答えに、喬男は明らかに思いくずおる(がっかりする)。

望行もちゆき様の歌が、鬼をう(さまたげる)って、まことなのか~」



 紀望行きのもちゆきの歌は、鬼をうと言われて、初冠ういこうぶり(男性の成人式)や裳着もぎ(女性の成人式)やの祝い(年齢ごとの祝い)に頼まれて、屏風びょうぶに書き付けて、かづけ物(褒美ほうび)を得ている。

 紀望行は、山賤やまがつが作った高坏たかつき(食べ物を載せる一本脚の台)や、わんや、懸盤かけばん御膳おぜん)を、祝いのうたげのために準備もうけもしているのか。



「さっさと、皆、逃げた方がいいよ」

 喬男は、下ろした御簾みすすだれ)の前から離れ、簀の子すのこ(外廊下)に置いていたおけと、惟喬これたかの脱いだ血の付いた墨染すみぞめのころもを持ち上げる。

硯箱すずりばこ(書道の道具箱)は持って行くよ」

 心得こころえない(納得していない)顔様かおざまで言って、喬男は歩き出す。


「喬男。飲む水と、食べる物を持って来ておくれ」

「他に、欲しい物がある人~」

 惟喬に言われて、喬男は振り返りもせずに、言い返す。


烏帽子えぼしを、ひとつ、持って来てくれないか」

 在原業平ありわらのなりひらに言われて、喬男は振り返り、紀貫之と鶯歌の烏帽子争いを見る。


「えーぼーしー、えーぼーしー、えーぼーしー、」

 鶯歌は飽きもせず繰り返して、烏帽子を両手で掴み、貫之は両手で、ひたぶるに(一生懸命に)押さえている。


心得こころえた(わかった)。――宮人みやひと(都の人)は、そんなにかしらに載せた物が大事かなあ」

 言いながら、かしらあらわに、背で髪をひとつに結んだ喬男は、ひがしたい(東館)へ歩いて行く。



 男たちは、簀の子に座り、下ろした御簾みすすだれ)の向こうの紀全子きのまたいこと向かい合った。



 惟喬これたかは、簀の子すのこ高欄こうらんさく)に押し掛かり(寄り掛かり)、長息ながいきして(溜息をつき)、紀貫之きのつらゆきを見やる。

「すまないね、貫之。初冠ういこうぶり(成人式)を祝いたくて、遥々はるばると、渚院なぎさのいんまで来てもらったのに、こんなことになってしまって…」

「いいえ」

「えーぼーしー、えーぼーしー、えーぼーしー、」

 鶯歌と貫之の烏帽子争いを見て、惟喬は言う。

「『こんなこと』って、烏帽子を奪われそうになってることじゃないよ…」


 紀有朋は、そばに座る姫の、黒髪のうち掛かる耳に、つつめいた(ささやいた)。

(お前)は、目を覚ましていなさい」

 あやししきこと(ヘンなこと)を言われて、姫は見返す。


「御前(おんまえ)、失礼します」

 惟喬の前を、紀有朋は膝行いざり行って(膝で進んで行って)、紀貫之きのつらゆきそばに座ると、鶯歌おうかの耳元に、かそけき声(かすかな声)で、つつめいた(ささやいた)。

「眠れ」

「えーぼ」

 言いかけた口を開けたまま、鶯歌の目蓋まなぶた(まぶた)が落ち、烏帽子を掴んでいた両手も落ち、落ちる体を有朋は腕に抱えた。


伯父君おじぎみ…」

 おい心惑こころまど目見まみ(眼差し)を、伯父は冷ややかに見返して、皺寄しわよす顔を近付け、つつめいた(ささやいた)。

「もう大人になったのだから、父(紀望行きのもちゆき)の言い付けなど、守らずともよいのだぞ」


 紀貫之は、鬼を静めることの他に、ざえ(異能)を使うなと、父に言い付けられている。


 紀貫之は口を開け、閉じ合わせた。紀有朋は、青黒い筋の浮く皺寄す手を、紀貫之へと伸ばした。

 身をすくめるおいの、なのめになった烏帽子えぼしを直してやると、居直いなおり(座り直して)、鶯歌を膝に寝かせた。御簾の方へ向く。


「全子。ここに春宮はるのみや様をお連れしたことは、許しを得ているのか」

「いいえ…」

 紀有朋きのありともに問われて、御簾みすの向こう、紀全子きのまたいこいなぶ。



」許しなのか、紀氏は名を言うこともできない。

 藤原高子ふじわらのたかいこ。今のうえきさい


「春宮様が、里下さとさがりする(実家に戻る)女房にょうぼう(侍女)の牛車ぎっしゃに隠れて、付いて来ることは、よくあるのです」

 全子は言いく(説明する)。

「そのことで、とがめを受けた女房はおりません」



 咎めるわけがない。俺がいないことに、気付いてもいないのだから。そばにいても、気付かないのだから。



「何が起きたのか、分からないのです。昨夜、気が付くと、春宮様が鬼と成っていたのです」



 お前たち親子のせいだ。



望行もちゆき様に静めていただこうと思い、五条院ごじょうのいんを出て、家にうかがいましたら、渚院に行かれたと聞いて…困っておりましたら、下女しもおんな(家の召使い)が、ここまでの道を知る牛飼いわらわつかわしてくれたのです」


「めどぎが要らぬことを…」

 有朋が、下女をる。


 あの家は、つねは(いつもは)紀望行きのもちゆきが住んでいるが、紀有朋きのありともあるじ(持ち主)なのか。

 田舎いなかわたらい(地方の役人をしている)紀有朋に代わって、紀望行が家を預かっている。



 紀有朋が、惟喬の方を向き、面伏おもてぶせした(顔を伏せた)。

「鬼を渚院なぎさのいんに引き入れてしまったのは、私の家の者が、ここまで案内あないしてしまったため。私のとが(責任)です」

全子またいこは、鬼を静めてもらおうと、みやこから遥々はるばる、ここまで来たのだろう。下女しもおんなも、困っている全子を助けようとしたのだ。とがも何もないよ」

 惟喬は、わざわざしく(わざとらしく)心長閑こころのどか声様こわざま(のんびりした口調)でこたえる。


「これからみやこに戻っても、みちなかばで、日が暮れてしまうなあ」

 心長閑な声様のまま、惟喬は言い継ぐ。


 顔を上げる紀有朋きのありともに、惟喬は、わざわざしくいかめしき(威厳いげんのある)声様こわざまに変えて言った。

あしたまで待て。」


 皆が、惟喬を見た。


みやこに戻り、私がうえに許しを得る」



 西にしたい(西館)の簀の子すのこ高欄こうらんさく)の上、俺は紀望行きのもちゆきに言ってやった。

「俺を静めるのは、明日、京に戻って、惟喬これたかが」

「『小野宮おののみや』と、せめてお呼びください」

 望行に呼び名をとがめられたが、構わず俺は言い続ける。

うえに許しを得ると、言っているぞ」


春宮はるのみや様も、父を『父』とお呼びにならないのですね」

 高欄の上の俺を、背から抱えるように支えている望行は、おおどかに(のんびりと)言った。


 俺の父。今のうえ。惟喬の弟。

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