許し

 西にしたい(西館)の簀の子すのこ(外廊下)に、紀望行きのもちゆきの腕から、俺は下ろされた。


 母屋もや(本館)に戻ろうと走り出そうとしても、俺の足は立ったままだった。


 望行は簀の子に座り、朱塗しゅぬりの高欄こうらん(外廊下の朱色しゅいろさく)の向こう、遠くを指差す。

「あの松の向こう、川があるのですよ。ほら、船が行った」


 思わず見ると、松の枝に飛んで来た鷹が止まった…



親王みこ様は、座って」

 母屋もや(本館)では、喬男たかをは、惟喬これたかに向かって言う。


「親王様」と呼ばれ、惟喬はさびしげな顔様かおざまで、簀の子すのこに座ると、言った。

「男は、内から出なさい。男ばかりで、几帳きちょう(布を垂らした木枠きわく)がない。全子またいこを内に入れて、御簾みすすだれ)を下ろして。」


 喬男たかをは肩にかずいていたきぬを、朱塗しゅぬりの高欄こうらん(外廊下の朱色しゅいろさく)に掛けると、惟喬これたかの側に座る。惟喬の墨染すみぞめのころもを肩脱ぎにした。


 惟喬の腕の、鷹の爪が喰い込んだ傷の、甘い血は乾いている。


「血は止まってるよ。っ

 惟喬が言っても、喬男は桶の水を手でむすび(すくって)、かけながら、もう一方の手で、傷を開き、洗う。

「痛い痛い痛い」

 惟喬が声を上げても、続ける。


 男たちは、惟喬を見て、痛そうな顔様かおざま(表情)で、内から簀の子すのこに出て来る。

 鶯歌おうかに両手で掴まれた烏帽子えぼしを、紀貫之きのつらゆきは、ひたぶるに(必死に)押さえて、膝立ちで、出て来る。


「見ないふりをしてあげるから、烏帽子は、あげれば。」

 見るに見かねて、在原業平ありわらのなりひらが言った。

「それはできません」

 紀貫之は、ひたぶるに烏帽子を両手で押さえ、簀の子に座り込んで、答える。

「えーぼーしー、えーぼーしー、えーぼーしー、」

 鶯歌は立ったまま、貫之の烏帽子を両手で掴んで、れている(じゃれている)。


 こうぶりを奪われて、かしらあらわにするのは、男として、いといたく(とてもひどい)はずかしめだ。


 小さやかな女房にょうぼう(侍女)も、内から簀の子すのこに出ているのを、紀貫之は見て、言う。

「姫君は、どうぞ、ひがしたい(東館)へ、お行きください」

 女房は、「姫君」と呼ばれていることにも気付かず、紀有朋きのありともそばに立って、俺の方を――西にしたい(西館)の方を見ている。



 喬男は、ふところから出した小さな麻袋から、草を干した粉を出して、惟喬の傷に塗り付ける。

「痛くなかったのに、痛くなって来たじゃないかっ」

 惟喬がおめいても、喬男は聞かず、細い帯で傷を巻いて縛る。

「体が熱くなったり、寒くなったりしたら、すぐ言ってよ」

「いやだよ。その薬草やくそうの煮え湯を飲まされるんだろ」

 喬男が言うと、惟喬は顔をそむけ、墨染めの衣を脱ぎ、高欄こうらん(外廊下の柵)に掛けられた青鈍あおにび(青みのある灰色)のころもを取って、着る。


 喬男は、からになった桶と墨染めの衣を持ち、立ち上がる。

遍昭へんじょう様のほかは、まま(食べ物)は、いいのか」

 喬男に聞かれて、皆、懸盤かけばん御膳おぜん)を持っている遍昭を見る。


御仏みほとけいましめる『貪欲とんよく』とは、つことを知らず(満足せず)、飽かず(飽きることなく)欲しがることを言うのだよ。空いた腹を満たすことは罪ではない。皆、心置こころおきなく(遠慮せず)、懸盤を持って来なさい」

 きらきらしいはなだ(薄い藍色)の僧衣を着た遍昭が我賢顔われかしこがお(えらそうな顔)でく。


 喬男は桶と墨染めの衣を置き、内に入ると、次々に懸盤を簀の子すのこ(外廊下)に出す。桜の一枝を置いた懸盤も。

 内から出ると、全子またいこを支え、内に入れて、しとね(座布団)に座らせる。


 喬男は、かかげた御簾みすすだれ)を留めた紐をほどき、もう片方かたえの留めた紐は、紀有朋きのありともが行って、ほどき、共に下ろす。

「鬼は、どうなったんだよ」

親王みこ様に『静めるな』と命じられた」

「何で~」

 返り見て聞く喬男に、惟喬は言う。

西にしたい(西館)の望行に、懸盤かけばん御膳おぜん)を持って行っておくれ」


 向き直って喬男は、有朋に、つつめく(ひそひそ、言う)。

「あの人、他人ひとの言うこと、聞かないよね…」

「ははは」


 笑う紀有朋きのありともを、御簾みすしに紀全子きのまたいこは見つめている。口端くちびるは笑み、頬は赤む。――牛車ぎっしゃに乗っている時は、鶯歌を袖の内に抱え、強張こわばる顔はしろんでいたのに。



 紀全子は、紀有朋に恋しているのだ――今も。



「鬼がいるなら、俺たち、ここから退くよ。皆を、(エサ)にするわけにはいかない」

あはれあわれ(おやまあ)、かしら(一族のおさ)らしきことを言う」

 立っている喬男を、簀の子すのこに座っている惟喬これたかは見上げる。そして、有朋を見やる。


うれう(心配する)ことはない。紀氏が護ってくれる」

 惟喬が言うと、紀有朋きのありともはひざまずいた。

「どうぞ、鬼を静める許しを下さい」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る