父と子

全子またいこか。何があったのだ」

 袖の内に俺をとらえたまま、紀有朋きのありともが問う。


 その声を聞き、紀全子きのまたいこは上げた袖で隠し、うつむいていた顔を上げた。

有朋ありとも様…」

 かそけき声で(かすかな声で)、有朋の名を呼ぶ。白粉はうに(おしろい)も付けていないのに、真白だった顔が赤らんでゆく。


 全子は、支えられた山賤やまがつの男(山にむ男)の腕から落ちて、簀の子すのこ(外廊下)に座り込み、前に両袖を重ね合わせて、手をつき、顔を伏す。

「どうか鬼を、お静め下さい」


まことに(本当に)春宮はるのみや様(皇太子)が、鬼に成ったというのか…」

 惟喬これたかは、あきれる(呆然ぼうぜんとする)。



 全子またいこは、紀氏の生まれではない。家人いえびと(家族)を鬼に喰い尽くされ、逃れて、紀全吉きのまたよしに助けられ、養女むすめとなった。

 鬼を知っているから、鬼を見分けられるだけで、鬼を静めるざえ(異能)を持たない。



親王みこ様、血が出てるじゃないか」

 山賤の男は慌てて、惟喬に寄り、腕に巻いた墨染めの袖をほどく。


「鬼に襲われたのですか」

 全子が赤む顔を隠すことも忘れて、惟喬を見上げる。


蒼鷹あおたかを、こんな薄衣うすぎぬ、腕に巻いただけで、止まらせたからだよ」

 山賤の男は答えて、慌てて左右そう後先あとさきを見回す。

「鬼に襲われたって、何処いづこに。」


 惟喬は、山賤の男に言う。

ひがしたい(東館)にいる者たちは、母屋もや(本館)には来ないようにしておくれ」

「鬼は、何処。」

 聞かれても、惟喬は答えず、言った。

「お前も東の対へ行きなさい」


 東の対にいた下男しもおとこ下女しもおんな(召使いたち)は、山賤やまがつ(山に棲む民)だったのか。――四人いる女房にょうぼう(侍女)だけが、在原業平ありわらのなりひらの家の者だ。


「そんなこと言われたって…」

 山賤の男は言いながら、惟喬の墨染めの袖を引き上げ、腕の傷を見る。鷹の爪が喰い込んだ傷から甘い血が、けざやかにみ出している。


「浅いけど、獣に付けられた傷だから、洗わないと、腐る。水を持って来るよ」

喬男たかを、お前も東の対へ行って、戻って来るな」

「鬼がいたって、傷を放っておけないだろ」

 山賤の男――喬男は言い返して、向き返った。


「あんたは、まことに(本当に)傷は負ってないのだな」

 山賤の男は、座り込んでいる全子を見下ろして聞く。目を合わせて全子は、恥じて、顔を伏す。

「負っておりません」

「それならいい」

 山賤の男は、簀の子すのこ(外廊下)を走って行く、ひがしたい(東館)へ。



 喬男たかお。十四歳。

 山賤やまがつの女(山に棲む女)と、惟喬が交わって、産ませた子なのか。

 年齢としに付き無く(見合わない)、そびやかな背が父に似ているばかりで、鋭い目見まみ(目つき)、丸い鼻、ふくらかな口縁くちびるに、似たところはない。

 山賤の身で、惟喬を「父」とも呼べず、「親王みこ様」と呼んでいる。



有朋ありとも望行もちゆき春宮はるのみや様を、西にしたい(西館)に、お連れしなさい」

 惟喬は言って、俺を袖の内に捕えている紀有朋きのありともと見合う。けれど、何も言わず、鶯歌を抱き上げている紀望行きのもちゆきを見やる。

「兄に何もさせないように。」

「ぅぶっ――かしこまりました」

 思わず笑ってしまって弟・望行は応えた。兄・有朋は、顔に寄す皺を深くして、袖の内からくくんでいた俺を抱え上げた。


 やっと袖の内から出られて、俺は言ってやった。

真雅しんがのように、俺が惟喬を喰うとでも思っているのか」



 皆が、おそれる顔様かおざま(表情)で、俺を見上げた。



 今のうえ立太子りったいし(皇太子に決められた)の祝いの、競馬きそいうま相撲すもうで、藤原氏が勝つように祈祷きとうしていた僧の真雅しんがが、紀氏ばかり勝ったために、藤原良房ふじわらのよしふさに責められて、鬼と成り、惟喬を喰い殺そうとした。


「幼いのに、昔のことをよく知っているね」

 畏れる顔様を惟喬は、笑み顔に作って(作り笑いで)、わざわざしく(わざとらしく)、おおどかに(のんびりと)言う。


 有朋の桜襲さくらがさね(表・白、裏・赤)の袖が俺の口を塞いだ。

「むぐっ」

「これほど、よだり(よだれ)を垂らしていては、そう思う」

 袖で、俺の口をのごう。


全子またいこ、何があったのだ」

「何も…何も…何も…」

 紀有朋きのありともに問われて、紀全子きのまたいこは顔を伏せたまま、繰り返し、かしらを振る。


望行もちゆき。春宮様を西にしたい(西館)に、お連れしなさい」

「えっ」

 惟喬に言われて、望行は驚く。

「有朋は、私の言うことを聞かないから」

 惟喬は、はちぶく(文句を言う)。


「かしこまりました」

 望行は笑いをこらえて受ける。


貫之つらゆき

「はい」

 父・紀望行きのもちゆきに呼ばれて、紀貫之きのつらゆきこたえる。

鶯歌おうかを頼む」

「はい」


 望行が下ろした鶯歌の前に、貫之はかがんだ。

「えーぼーしー」

「やめっ、鶯歌っ」

 鶯歌は両手で、貫之の烏帽子を掴み、取り上げようとする。貫之は、ひたぶるに(必死に)両手で、烏帽子を押さえる。

「ぅぶぶ頼んだよ」

 笑いをこらえきれず紀望行きのもちゆきは、困っている子・紀貫之を放って(放置して)、奥にいる兄・紀有朋の方へ行く。


 望行が、俺を有朋の腕から抱き取る。

 兄弟はかたみに(お互い)、何も言わない。


「西の対へ行きましょう」

 言って、紀望行が歩き出しても、俺はあらがいもしない(抵抗しない)。

 何処いづこめられても(閉じ込められても)、俺にはすべてが



 在原業平ありわらのなりひらが、俺の顔を見ている。

 俺の顔様かおざまを、おぼえている藤原高子ふじわらのたかいこの顔と重ねて見ている。


 鶯歌おうかは、紀貫之の烏帽子えぼしを奪おうと騒ぐばかりで、俺が連れて行かれるのにも気付かない。



御前おんまえまかります(御前ごぜんから失礼いたします)」

 望行は内から出て、簀の子すのこ(外廊下)に立っている惟喬に言う。

「許す」

 いかめしく(おおげさに)惟喬は言うと、しどけない(くだけた)声様こわざま(口調)になった。

「頼んだよ、望行」

つとめます(努力します)」


 喬男たかをが水をんだおけを持って、肩にきぬかづき(掛け)、簀の子すのこ(外廊下)を来た。

親王みこ様、鬼はどうなった」

「父を『父』と呼べないのか」

 俺は言っていた。


 喬男は、望行に抱き上げられている俺を、真直まなお(真っすぐ)に見る。

なり(見た目)がちがってたって、俺たちだって、同じ言葉を話すよ。北や南に棲む奴らの方が、ちがう言葉を話す」


 愚かな山賤やまがつだ。俺が、山賤は父を『父』とは、ちがう言葉で呼ぶのかと聞いたと、思い違いをしている。

「俺が言っているのは、」

西にしたい(西館)からは、北や南へ行く船が見えるのですよ」

 言いかけた俺を、紀望行はさえぎり、簀の子すのこ(外廊下)を歩き出す。


 思い違いを正さなかったら、愚かな山賤に、俺は物を知らないわらわ(子ども)と思われたままじゃないか。

 俺は腹立ち、紀望行きのもちゆきの腕の内、むつかる(暴れる)。


 女房にょうぼう(侍女)ならば、俺がむつかれば、言うことを聞くのに、望行は心にもかけず(気にもせず)、西にしたい(西館)への打橋うちはし(渡り廊下)を歩いて行く。


大人おとな大人おとなしくいてくださいね(おとなしくしていてくださいね)」

 望行に言われるなり、俺は体が動かなくなった。

「っひ」

 思わず吸い込んだ息が、喉の奥、浅ましい声(みっともない声)を上げる。


 息を吐き、口は動くことに俺は気付いた。言ってやる。

「いいのか。惟喬これたかさからって。」


「あなたの年齢としの頃には、親王みこ様(惟喬これたか様)は、誰にでも、礼礼うやうやしく(礼儀正しく)話すものですから、重々おもおもしきさまで(えらそうに)話すように、皆で直したものですが」

 ひとつように、俺をとがめて、望行は西にしたい(西館)の簀の子すのこ(外廊下)を歩いて行く。

親王みこ様は、『歌を詠むな』と、おっしゃられただけですから」



 紀望行きのもちゆきは、ざえ(異能)が強すぎるのだ。桜の歌を詠めば、きわなく(果てしなく)花が咲き続け、散り続けてしまうほどに。だから、


「鬼に歌を詠むことができないのだな。歌を詠めば、鬼を殺してしまうから」

「そうなんですよねえ。この年齢としになっても、どうにもざえの加減が分からなくて…」

 ふくらかな顔は、思い悩むさまで言った。

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