邂逅

 女だけではない、紀貫之きのつらゆきも、紀望行きのもちゆきも、紀有朋きのありともも、俺を見ている。


 ひがしたい(東館)の簀の子すのこ(外廊下)に、牛車ぎっしゃから俺が降りただけで。紀氏がいる母屋もや(本館)から、姿など見えないのに、鬼の気配が分かるのだ。



 牛車から降りるなり、鶯歌おうかが、かろらかな足音を響かせて走り出した。

 俺もわらわげて(子どもらしく)、鶯歌の萌黄もえぎ(黄緑)の童直衣わらわのうし(子ども用の装束しょうぞく)の背を追って、走り出す。


「待ちなさい。待って。待って……」

 紀全子きのまたいこは力なく声を上げ、かさねも選べずに、引きつくろった(とりあえず着ただけの)うちぎすそを引きずり、よろけて座り込んだ。



 母屋もや(本館)では、紀有朋が言う。

「鬼が来ます。小野宮おおのみや様、業平なりひら様、遍昭へんじょう様、西にしたい(西館)にお移り下さい。ここで私たちが、迎えます」

「分かった」

 小野宮・惟喬これたかが立ち上がる。遍昭へんじょうも慌てて懸盤かけばんを持って立ち上がり、在原業平ありわらのなりひらも立ち上がる。


「鬼に喰わせるために、わざわざ、その身を肥えさせることもないだろう」

 懸盤を持って立った遍昭を、業平は見下みさぐ(軽蔑する)。


「鬼に喰われる時、腹が減ったままでは悔いが残るじゃないか…」

貪欲とんよく(欲が深いこと)も罪、ることだよ、遍昭」

 遍昭に、惟喬は墨染めの袖で口覆いして言う。


 たわぶごと(冗談)を言えるのも、鬼を静めるざえ(異能)を持つ紀氏に護られていると心安く思って(安心して)いるからか。

 戯れ言を言っている足元で紀貫之は、惟喬と遍昭が出て行けるように、(おかず)や、桜の一枝を置いた懸盤かけばん御膳おぜん)を、次々に後ろの方へと片付けている。


「と、――女房にょうぼう(侍女)も行きなさい」

 有朋に言われて、立ち上がる女を、紀貫之きのつらゆきは見上げる。

「姫君は、ざえ(鬼を静める異能)があるのですか」


 誰よりもく(速く)女が、俺を見たことに、貫之は気付いていた。


 女は答えることはできなかった。



 鶯歌おうかと俺は、簀の子すのこ(外廊下)を駆けて、渡殿わたどのひがしたい(東館)と母屋もや(本館)をつなぐ屋根のある渡り廊下)を通り、内へと走りる。


「――あこくそ阿古久曾あこくそ阿古久曾なの。ずるーい。えぼし烏帽子、こうぶってる(かぶってる)~」

 うちに立っているおきなたち(老人たち)の間を、萌黄もえぎ童直衣わらわのうし(子ども用の装束しょうぞく)の鶯歌は走り抜け、紀貫之きのつらゆき幼名おさなな阿古久曾あこくそと呼んで、にれかかる(じゃれかかる)。


鶯歌おうかっ、どうして鬼といるんだ」

 紀貫之は、桜襲さくらがさね(表・白、裏・赤)のきぬの内に護るように鶯歌を抱える。


 内に桜の童直衣わらわのうしの走り入る俺を、在原業平ありわらのなりひらほそやかな眼を見開き、見つめている。


 青黒あおぐろすじの浮く皺寄しわよす両手が伸びて来て、紀有朋きのありともが俺をとらえ、桜襲さくらがさねの袖でくくんだ。


「有朋。そのかたは、春宮はるのみや(皇太子)様だ」

 在原業平が声を上げる。


「何だって」

 紀有朋は、うろたえるが、捕えた俺を離しはしない。


まこと(本当)なのか」

 惟喬が業平に聞く。

まことです」

 業平が答える。



 有朋の袖にくくまれているのに、俺は目の前にあるように何もかも



「歌を詠むな、有朋。春宮はるのみや様を離しなさい」

 惟喬に言われて、有朋は心惑う顔様かおざま(表情)になる。

「離しなさい」

 惟喬は繰り返す。


真雅しんがのように、俺が惟喬を喰うとでも思っているのか」

 有朋の袖の内で俺は言ってやった。有朋が袖の内の俺を見下ろす。


「ほら、苦しがって、物語してるじゃないか(もごもご、言ってるじゃないか)」

「ちがう」

 こころばむ(心配する)惟喬に、俺は言い返すが、有朋の袖にくくまれた内で、物語している(もごもご、言っている)ようにしか聞こえていない。


「奥に行け、有朋、春宮様をくくんだままで」

 うちつけに惟喬が叫んで、内から駆け出す、墨染すみぞめのきぬの袖を腕に巻き付けながら。簀の子すのこ(外廊下)にいでて、両腕を広げ、立ちふさがる。


 俺には見える。――大きな鷹が翼を広げ、俺を狙って、低くく(速く)飛んで来る。


「おいで」

 とよむ(響く)惟喬の呼ぶ声に、翼を羽ばたかせて鷹は、墨染めの袖を巻き付けた腕に、鋭い爪を喰い込ませて止まった。


 鷹は、惟喬の腕に止まりながらも、眼は真直まなおに俺を見ている。有朋の袖にくくまれて見えないのに。鳥獣とりけものも、鬼の気配が分かるのだ。


「すごーい。こんなの、みたことなーい」

 紀貫之きのつらゆきれかかっていた(じゃれかかっていた)鶯歌おうかは声を上げ、鷹に戯れかかろうと簀の子すのこ(外廊下)に出ようとして、紀望行きのもちゆきに抱え上げられる。

「をぢぎみ(小父君)、あれ、さわりたい」

 鶯歌は鷹を指差し、望行に言う。


「つつかれると、とても痛いよ」

「こわーい」

 惟喬に言われて、鶯歌は望行に抱きつく。


蒼鷹あおたかも、親王みこを護ろうとしているのですよ」

 有朋が言う。



 鷹は、その鋭い爪で俺を掴み、鋭いくちばしで引き裂くつもりだったのだ。それを惟喬が止めた。



「皆、私をで、かしづきすぎ(過保護すぎ)だよ」

 惟喬は言いながら、鷹の胸を撫でる。鷹は、眼を俺から離さない。


(ぼく)も、なでたい~」

 鶯歌が、鋭い爪とくちばしで、たやすく引き裂かれてしまう小さな手を伸ばす。


「あ、飛んで行っちゃった」

 腕から鷹が飛び立ち、惟喬は声を上げる。

「あ~っ」

 鶯歌は声を上げ、見上げる。


 鷹は母屋もや(本館)の前を、俺が見える低さで羽ばたき、まろに(円を描いて)巡っている。――鶯歌に触らせることができないから、わざと惟喬は腕から鷹を飛び立たせたのだ。


わらわ(子ども)に、さがなき事(意地悪)をしてる」

 み声をとよませて(響かせて)、山賤やまがつの男(山にむ男)が、紀全子きのまたいこを支えて、簀の子すのこ(外廊下)を歩いて来る。


 山賤の男にも、惟喬がわざと腕から鷹を飛び立たせたことが分かったのだ。


「男」と言っても、背は、そびやかだが(すらりと高いが)、まだ十四歳。

 かしらさらして(こうぶりこうぶらず)、髪を首の後ろで、ひとつに束ねて垂らし、青い麻衣あさぎぬ(麻で織った衣)を着ている。



 甘い香りがした。



全子またいこ、どこか鬼に傷付けられたのか」

 惟喬は走り寄り、山賤やまがつの男に支えられた全子に問う。


 全子の名を聞き、女が内から走り出て、足を止める。



 誰のこうだ(こういて、きぬに移した香りなのか)。



「えっ。傷を負っているのか。どこだ。」

 山賤の男は、全子の顔を覗き込む。全子は上げた袖で覆った顔を、そむける。

否否いないな(いいえ、いいえ)……」

 全子は、かそけき声(消えそうな声)で言う。



 甘い香りに、き出すつばきが、いつの間にか開いていた俺の口から、ぬるく垂れた。



 惟喬の手の甲に、血が伝っている。鷹の鋭い爪が、腕に巻き付けた墨染めの袖をつらぬき、ししに喰い込んで、血が出ているのだ。


 これほど甘い香りを放っているなら、どれほど甘い味がするのだろう。

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