渚院

 渚院なぎさのいん惟喬これたかの別荘)に着くと、うまや(馬小屋)に馬を預け、東のたい(東館)で旅衣たびごろも(旅をする時の衣)から着替えて、母屋もや(本館)へ、花の積もる簀の子すのこ(外廊下)を歩いて行く。


 首に掛けた頭陀袋ずだぶくろに詰めて来た、きらきらしいはなだ(薄い藍色)の僧衣そうい袈裟けさを掛けた遍昭へんじょうの後を、烏帽子に、桜萌黄さくらもえぎ(表・萌黄(黄緑)、裏・二藍ふたあい(明るい青紫))の狩衣かりぎぬ、藍の指貫さしぬきはかま)の紀望行きのもちゆきは、うれう顔(憂鬱ゆううつな顔)を伏せ、足元に積もる花を見つめて歩いている。

 その後を歩く紀貫之きのつらゆきは、烏帽子に懸緒かけお(あごひも)は掛けず、桜襲さくらがさね(表・白、裏・紅)の狩衣かりぎぬくれない指貫さしぬきで、胸の前に抱えるように桜の一枝ひとえだを持っている。


小野宮おののみや惟喬これたか)様にたてまつったら(差し上げたら)、どうかな」

 みちの先を行っても、姫とともとは出会えなかった。桜の一枝を見て、物思う顔の貫之に、遍昭が言って、持って来たのだ。



 雪のように花の降り積もる渚院の前面おもてを見て、不意に貫之が口遊くちずさんだ。

「『来ても見なくに』」


 遍昭に送られた惟喬の歌を口遊んだ貫之の声に、望行も、遍昭も、返り見る。貫之は二人に向かって、言った。

「どうして『来ても、桜を見ないのだから』と、小野宮おののみや(惟喬)様が歌を詠まれたのかと、思っていたのです」

「渚院に来るのは、初めてかい」

 遍昭は、そびゆる(背の高い)望行のそば(横)から笑み顔を出して、貫之をさえぎって聞いた。


「はい」

「歌の心(意味)は、私ではなく、親王みこ――小野宮おののみや様に申し上げるといい」

 遍昭は向き直り、歩いて行く。


 貫之は問う眼差しで、父・望行を見上げる。

「そうしなさい」

「はい」

 理由よしを聞き返しもせずに、貫之は問う眼差しのまま、応えた。父が向き直り、歩き出す後を、付いて行く。



 母屋もや(本館)の御簾みすかかげられた(すだれが上げられた)一間ひとま広間ひろま)の前、簀の子すのこ(外廊下)に、遍昭へんじょう紀望行きのもちゆき紀貫之きのつらゆき居並いならび(座って並び)、顔を伏せる。


紀貫之きのつらゆき、ここに参上いたしました」

いちもって、これく」

 紀貫之が顔を伏せたまま、名乗ると、内に居る惟喬これたか小野宮おののみや)が言った。


 『論語ろんご』だ。


 紀氏は、孔子くじ孔子こうし(中国の思想家))の『論語』から、名を取る。――惟喬が、名を決めたのだ。


き名を、ありがとうございました」

 紀望行きのもちゆきが顔を伏せたまま、礼を言う。

「名を選ぶために、毎回、『論語』を読み返さないとならなくて、とっても大変なんだよ。次の子は、思いついた名にするからね」

 惟喬が言って、皆、苦笑いする。


 内には、墨染すみぞめのころもを着た惟喬これたか左右そうに、烏帽子に、樺桜かばざくらがさね(表・蘇芳、裏・紅)の狩衣かりぎぬ、紅の指貫さしぬきはかま)の在原業平ありわらのなりひら、烏帽子に、さくらがさね(表・白、裏・紅)の狩衣、紅の指貫さしぬき紀有朋きのありともが、座ってる。

 それぞれの前には、(おかず)を並べた懸盤かけばん(脚付きのおぜん)がある。



 在原業平が、ここにいるとは。――在原業平を見て、どれほど驚いた顔をするか、楽しみだ。



土産つとを持って来てくれたのかい」

 貫之が持つ桜の一枝を見て、惟喬が聞いた。

小野宮おののみや様、紀貫之きのつらゆきが申し上げたいことがあるそうです」

 顔を伏せたまま、遍昭が言うと、惟喬は、すさまじき顔様かおざま(つまらない表情)になった。


 惟喬は、三十三歳。ったかしら墨染すみぞめのころもを着て、一重の眼、矢尻やじりのように広がった小鼻、歪めた薄い口縁くちびる

 すさまじき顔様かおざまは、三人とも顔を伏せていて、見えていないが。


「誰。」

 惟喬に問われて、遍昭は顔を上げる。

「言われると思ってましたよっ。遍昭へんじょうですっ」

 言い返して、また顔を伏せ、貫之に言う。

「貫之、申し上げなさい」


 貫之は、伏せたままの顔は惑いながらも、言った。

「ここ、渚院なぎさのいんからは、桜木さくらぎが見えないのですね」


 うちつけに(突然)、惟喬の凄まじき顔様が、笑みやかになる。三人は顔を伏せていて、見えていないが。


 貫之は続ける。

「小野宮様が遍昭様に送られた歌、『桜花さくらばな 散らば散らなむちらなん散らずとて ふるさとびとの来ても見なくに』――なぜ、『来ても、桜を見ないのだから』と、詠んでいらっしゃるのか」


 在原業平も、ほそやかな眼を、ますます細めて、まろらかな頬をゆるびて(ふっくらした頬をゆるめて)、聞いている。


「それは、ここ、渚院から、桜が見えないからです。『来ても見なくに』と、小野宮様が詠んだからこそ、遍昭様は、渚院にいらっしゃった。小野宮様にゆかりがある(関係がある)桜の咲いている所は、小野や、雲林院うりんいんや、他にもあるのに。」



 桜木(桜の木)を見なくても、舞い散る花片はなびらを見て、桜を楽しむ。

 それが『みやび』か。


 渚院は、築地ついじ(土のへい)を作らず、あたりの景色けしきを、そのまま庭としている。土をった築山つきやまではなく、丘の松の木を、水を溜めた池ではなく、流れる川に行く船を、眺める。



「世の中に 絶えて桜のなかりせば

 春の心は のどけからまし」

 在原業平が詠んだ。


 紀貫之は顔を上げる。



 世の中に

 全ての桜がなくなってしまえば

 いつ咲くか

 いつ散ってしまうかと思うこともなく

 春の心は おだやかにいられるのに



 惟喬は、笑む薄い口縁くちびるで、詠み返す。

「散ればこそ いとど桜はめでたかれ

 うきに何か ひさしかるべき」



 散るからこそ

 桜はでたいと思うものなのだ

 何もかも変わっていってしまう世の中に何か

 長くとどまっていられるものはないのだから



 歌を詠み合う二人を、貫之は感動あわれの眼差しで見つめている。


 惟喬は、業平をとがめた。

旧歌ふるうた(昔、詠んだ歌)を、今、詠んだようなわれがお(ドヤ顔)をするんじゃない」

親王みこは、かしらを下ろされる前から(僧になられる前から)、びた歌(さびしい歌)を詠んでいらっしゃいましたねえ」

旧歌ふるうたを、今、おとしめるか(ディスるか)」


 業平は、惟喬が僧になった今も、「親王みこ」と呼ぶのか。


「業平と昔語りをするために、渚院に来たんじゃないよ。お前は、そっちに行って。」

 惟喬は墨染すみぞめの袖を振り、業平は懸盤かけばん(脚付きのぜん)を持って、御簾みすの前まで退く。


「貫之は、おいで」

 惟喬は貫之を手招きする。

「望行も。」

 呼ばれて、望行も顔を上げる。遍昭も顔を上げる。


「――……誰。」

遍昭へんじょうですよっ」

 惟喬に問われて、遍昭は言い返し、立ち上がると、内に入る。望行と、桜を持って貫之は、内へと膝行いざりる(膝を進めて入って行く)。


 遍昭は、紀貫之を惟喬のそばに行かせる。紀望行が、兄・紀有朋の傍に座ったのを見て、遍昭は紀貫之の隣に座った。内を見回す。

友則とものりは、来ていないのですか」


 紀友則きのとものり紀有朋きのありともの子。


みやこでの用を言い付けていてね。後から来るよ」

 惟喬が答えた。


 兄・紀有朋の傍に座った弟・紀望行は、言う。

きぬの色が、濃すぎませんか」


 有朋は、望行の子・貫之と同じ桜襲さくらがさね(表・白、裏・紅)の狩衣かりぎぬを着ている。

 濃き色は若人わこうどの着るもので、貫之のきぬに比べれば、裏の紅は薄くはあったが、六十五歳が着るには、濃いのか。


 兄・紀有朋は口縁くちびるの端に皺を寄せて、弟・紀望行に言い返す。

桜萌黄さくらもえぎかさねを着ている者に、言われたくないな」

「小野宮様(惟喬これたか様)がご用意もうけして下さったきぬを、おとしめますか(ディスりますか)」

 望行は言い返す。


 桜萌黄さくらもえぎがさね(表・萌黄、裏・二藍ふたあい)が、五十五歳のおきな(老人)が着るようなかさねではないことを、惟喬は知らないのか。


 父も母も同じ兄弟はらからで、どちらも、そびやかだが(背が高いが)、弟・望行は、ふくらかで、兄・有朋は、やせている。


 兄の皺寄しわよ顔様かおざまいかめしく、睨む眼差しで、弟を見た。

「そんなことより、望行、お前、歌を詠んだだろう」

いな

 兄・有朋の問いに、弟・望行はいなぶ。貫之は驚いた顔様で、父・望行を見る。


「これこれ。兄弟はらから争いをしない。桜も、若木わかぎ老木おいきもあって、あわれなのだから(素晴らしいのだから)」

「……それが言いたくて、おきなどもに、桜萌黄さくらもえぎ樺桜かばざくらかさねを着せたのですか…」

 笑みやかに言う惟喬を、有朋は睨む眼差しで見る。――睨んでいるのではなく、そういう目見まみ(目つき)なのか。


「お前は、桜襲さくらがさねを、みづから(自分で)選んだじゃないか」

「それは――着たかったんですよ…」

 惟喬に言われて、有朋は目を伏せる。


「小野宮様、貫之の、その桜は、姫と出会いまして、」

「うちつけに(いきなり)何を言い出すかと思えば――お前は、まだ、そういうことをしているの…」

 言い出した遍昭へんじょうを、惟喬は見下みさぐ(軽蔑の)眼差しで見返す。

「私ではなくっ、貫之ですよっ」

「姫と出会ったのかい」

 惟喬は墨染めの袖で口覆いして、桜の一枝を手持たもつ貫之に聞く。


「渚院までのみちの、み立つ桜木さくらぎの奥で、姫は、この一枝ひとえだ手折たおっていたそうです」

 遍昭が答えると、惟喬は袖で口覆いしたまま、見下みさぐ。

「お前に聞いてないよ」

「姫は、ともかたといらっしゃっていて、私が驚かせてしまったせいで、桜を置き忘れて行ってしまったのです」

 言って貫之は、手持たもつ桜の一枝を見下ろす。


「この辺りに、姫のある家は、ありますでしょうか。旅の姫でしょうか」

「そういうことを言っているから、女犯にょぼんの噂が絶えないんだよ…」

 遍昭は身を乗り出してまでして、惟喬に聞く。墨染めの袖で口覆いした惟喬が見下ぐ。

「私ではなくっ、貫之が気になっていると思って、聞いているのですっ」


 貫之は顔を上げ、惟喬に向かって言った。

「私は、ただ、私が驚かせてしまったばかりに、姫が桜を置き忘れて行ってしまわれたことが、申し訳ないのです。できることならば、姫にお返ししたいです」

「父に似すぎて、真面目まめだねえ…」

 口覆いした袖の中で、惟喬は笑いをこらえている。


「小野宮様、御膳おものを見て参ります」

 紀有朋きのありともが言って、立ち上がる。

「わざわざ見に行かなくても、運んで来るよ」

 惟喬は口覆いしたまま、怪しむ眼差しで見上げる。

「私も参りましょうか」

 望行が、立ち上がりかける。


 有朋は、歪めた口縁くちびるはししわを深くした。

「お前は、小野宮様に、初冠ういこうぶり(成人式)の祝いのうたげのことを語って、お聞かせしなさい」

「それはっ」

「それは、」

 父と子は声を合わせて、立ち上がりかけた望行は座り込み、貫之は伯父・有朋を見上げて、顔をあかむ。


 有朋は、惟喬の怪しむ眼差しには見返しただけで、何も言わなかった。

 かかげた御簾みす(巻き上げたすだれ)に烏帽子えぼしが掛からないよう、そびやかな身(高い背)をかがめて、出て行った。



 惟喬は有朋を見送ると、袖を下ろし、かかやまなこで、望行と貫之を、かたみに(代わる代わるに)見る。

むべき身なれば、祝いに行けず、残念だったよ」


 忌むべき者として僧は、祝いの宴に出ることはできない。


「宴で、何があったの」

 浮き浮きと、惟喬が聞く。

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