花と姫

「何か、叫んでいないか」

 読んでいた経を止め、遍昭へんじょうは、紀望行きのもちゆきに向かって聞いた。

まことに(本当に)鬼じゃないのか。助けに行かなくていいのか」


 望行は、霞の向こうを睨み、ひとつ。

「鬼だったのか――鬼じゃないよな――鬼じゃない鬼じゃない鬼じゃない」

 自分で自分に言い聞かせているような望行を見て、遍昭は、貫之が鬼を静める助けになろうと、一際ひときわ、声を上げて経を読む。



 霞の向こうでは、置き忘れられた桜の一枝ひとえだを返そうと、紀貫之きのつらゆきが桜の木の間を、姫が指した方へ歩いていた。

 片手に桜の一枝を持ち、もう一方の手で烏帽子えぼしを押さえて、霞から不意に突き出す桜の枝を、避けて行く。

 けれど、姫も、ともも、見付からない。戻ろうとして向き直り、左右そうを見る。



 迷ったのだ。



 霞にふたがれて、左右そうどころか、さきあとも、見渡せない。

 けれど、惑いも怯えもなく紀貫之は、霞の向こうへ桜の木の間を、歩いて行く。



 間もなく、紀貫之きのつらゆきは、みちに出た。ずっと烏帽子を押さえていた片手を下ろし、父と遍昭へんじょうと、馬の母子を見て、息をいた。


「無事だったか」

 遍昭は長息ながいき(溜息)をく。貫之は答える。

「遍昭様、読経どきょうをありがとうございました。きょうをお読みになるお声で、戻る方が分かりました」

「少しは、鬼を静める助けになればと思って、読経どきょうしていたのだよ。そうか。よかった。――鬼はいたのか」


 遍昭に聞かれて、貫之は小さく頭を振った。

「いいえ。鬼はいませんでした」


 貫之は、父・望行の方を見た。

「父君のおっしゃる通り、鬼はいませんでした。咲きいづる花と、鬼の気配をまがった(まちがった)だけでした」

「そうかそうか。あやまちから学べば、よいのだ」

 遍昭が貫之に言い、望行は笑いをこらえる。


 紀貫之きのつらゆきは、手に持つ桜の一枝を見下ろした。

「姫君がいらっしゃいました」

「姫君ぇっ」

 望行が驚いて声を上げる。

まことに、姫君だったのか」


 貫之は慌てて、桜の一枝から顔を上げ、父に言う。

「お顔は見てはいません。ただ後ろ姿を見ただけです。一人ではなく、ともかたといらっしゃっていました」

 また桜の一枝を見下ろす。

「花を手折たおっていらっしゃったのですが、私が驚かせてしまったせいか、置き忘れて行かれて…追ったのですが、見付けられませんでした」


 手に持つ桜の一枝を見下ろし、うなだれているような子を、父はあやしむ目で見ていた。

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