鬼と姫

 紀貫之きのつらゆきは桜の間に入って行く。

「あっ」

 思わず声を上げる。


 かすみから突き出た桜の枝に烏帽子えぼしが掛かり、慌てて両手で押える。掛かった枝が散らす花片はなびらが目の前に舞う。

 掛緒かけおおとがいに結んでいても、斜めに落ちかけた烏帽子を整えると、両手で押えたまま、歩いて行く。


 霞の向こうに、枝の揺れる音を聞いて、貫之は見上げる。


 枝の折れる音、落ちる音がした。


 音がしたほうへ貫之は、桜の木と木の間を、枝に烏帽子が掛からないように身を低く低くして、すり抜ける。


 雪のように散り積もった花片はなびらの上、紅のあこめ(下着)に、紅のうちき表着うわぎ)を一重ひとえかさねただけの姫が、背を向けて座り込んでいた。


「鬼に追われていらっしゃったのですか」

 貫之が声を上げて問うと、姫はかしらだけでなく、小さやかな身まで大きく横に振って、いなぶ。


「そうですか…」

 貫之は、父に言われた通り、咲きいづる花と、鬼の気配をまがったのだ(まちがったのだ)と、思ったようだ。


「花をんでいらっしゃったのですか――あ。『摘む』ではなく、『手折たおる』か」

 姫の側に落ちている桜の一枝ひとえだに、貫之は気付いて、聞く。


 姫は小さやかな身を震わせる。

 紅のうちきの背にかかる黒髪は、伸び足らず、髪上げ(女性の成人式)をしたばかりに見える。


 姫の姿を見つめてしまっていることに貫之は、ようやく気付いて、自分の目の前に袖をかざした。


ともかたと、はぐれてしまったのですか」

 答える声はない。


 当たり前だ。女は、人に声を聞かせても、姿を見せてもならないのだ。


 かざした袖のはづれから、貫之が垣間かいまると、姫は、彼方あちへと袖を上げて、指していた。


 貫之はかざした袖の内に、目を戻す。

「供の方は、いらっしゃるのですね。よかった。――供の方がいらっしゃる所まで、おともいたしましょうか」

 答える声はない。


 かざした袖のはづれから、貫之が垣間かいまると、姫は、いない。

 桜の一枝ひとえだばかりが残されていた。


 貫之は、姫が指した方へ向かって、大きく声を上げる。

「姫君っ、置き忘れていますよ、桜っ」

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