初恋は桜の頃

山鹿るり

霞む花

 紀望行きのもちゆきは馬の上から、振り返り振り返り、かすみにかき消されそうな、馬に乗る紀貫之きのつらゆきを見ている。



 紀望行きのもちゆきは、六十歳。烏帽子えぼしの下に見える髪は白く、祖父おおじとしか見えないが、紀貫之きのつらゆきの父だ。

 烏帽子えぼしこうぶり、檜皮ひわだ(赤茶色)の狩衣かりぎぬ指貫さしぬきはかま)、鹿革しかがわ行縢むかばき(乗馬で、袴・足の内側がれないように着ける毛皮)をけ、かのくつを履き、かわの手袋をしている。

 顔様かおざまも、身様みざまも、ふくらかな(顔も体も、ふくよかな)、ただのおきな(老人)だ。


 紀貫之は、十二歳。初冠ういこうぶり(成人式)をしたばかりだ。

 装束しょうぞくは全て真新まあたらしく、慣れない烏帽子えぼしを落とさないように掛緒かけおおとがい(あご)の下に結んでこうぶり、檜皮ひわだ(濃い赤茶色)の狩衣かりぎぬに、指貫さしぬき鹿革しかがわ行縢むかばきを着け、かのくつを履き、革の手袋をしている。

 顔様かおざまだけを見れば、いとけない女童めのわらわ(幼い少女)だ。



 この父子が、鬼を静めるざえ(異能)を持つのか。

 紀氏が皆、才を持つのではない。持つ者、持たない者がいる。鬼を見分けることができても、怯えるばかりで、静められない者もいる。



 貫之が乗る馬は、足踏みしたり、鼻先に舞い落ちる花片はなびらに首を振ったり、全く落ち着かない。貫之は、馬に声を掛けたり、手綱たづなを引いたり、ゆるめたり、腹にあぶみを当てたりして、ようやく前に進めている。


 振り返り振り返り、子を見る望行を乗せた馬はかまわず、霞がかかる桜の木が両脇に並ぶみちを、先へ先へと進む。

「お前は、子に厳しすぎるよ…」

 望行は向き直り、うなだれて、馬に言う。



 駒牽こまひきに献上された馬を、深草帝ふかくさのみかど仁明天皇にんみょうてんのう)から紀名虎きのなとらたまわって、やしたものか。

 どちらの馬も、毛色は青黒く、たてがみも、長い尾も、かすみに濡れて、つやつやとして見える。

 望行が乗る母馬は、疾風ときかぜ。貫之が乗る子馬は、行風ゆきかぜと名付けた。



 望行が馬の上、身を伸び上がらせて見た。霞の先で、何かが鳴る音に気付いたのだ。間もなく霞の内から、墨染すみぞめのころもの背が現れ出て、立ち止まり、振り返った。


望行もちゆきか」

遍昭へんじょう様ですか」

 互いに、同時に呼び合う。


 紀望行は馬を下りると、手綱たづないて行き、遍昭の前に、ひざまずいて、顔を伏せた。

 聞こえていたのは、遍昭が持つ錫杖しゃくじょうかしらに掛かる六つの輪が触れ合って鳴る音だった。首から頭陀袋ずだぶくろを胸にげている。



 遍昭へんじょうは、六十一歳。僧となる前の名は、良岑宗貞よしみねのむねさだ柏原帝かしわばらのみかど桓武天皇かんむてんのう)の孫。つかえていた深草帝ふかくさのみかど仁明天皇にんみょうてんのう)が崩御ほうぎょして(亡くなって)、出家しゅっけした(僧になった)。

 ふくらかだった顔様かおざまも、山踏やまぶみして(山での修行で)、やつれているが、僧になっても、老いても、女犯にょぼんの噂が今も絶えない。



ひざまずいてもらうような身ではないと、いつも言っているのに…」

 遍昭は困り顔で言って、望行が来た霞の向こうを見た。


 どうにか馬を前に進めている貫之が、霞から現われ出た。遍昭に気付き、馬を下りようとする。

 馬が大きく首を下げ、貫之は手綱を引かれて、よろけた。


「よいよい。馬に乗ったままで、おいで」

 遍昭は両手を上げ、錫杖しゃくじょうの輪が鳴る。

「下りられますっ」

 貫之は言って、馬を下り、手綱をいて来る。しかし、馬は首を振ったり、足踏みしたり、なかなか進まない。


 遍昭は両手を下げ、必死に馬を烏帽子えぼし狩衣姿かりぎぬすがたの紀貫之を見つめる。

おとりするものかと思ったが…」


 わらわの時には下ろしていた髪を上げ、もとどりを結い、初冠ういこうぶりして、いとけない(幼い)愛らしさが消えることを、「おとり」と言う。


「髪を上げ、顔があらわになって、ますますなまめかしさ(みずみずしい美しさ)が増したようでは」

 馬を牽く貫之の顔をよく見ようと、身を乗り出す遍昭の持つ錫杖しゃくじょうの輪が鳴った。

 遍昭は、はっとして身を退き、口ごもった。

いなごころ(いやらしい気持ち)で、言ったのではなく、見たままを言っただけだぞ」

 錫杖の輪が鳴って、仏に好き心をとがめられた心地にでもなったか。



 紀貫之は馬を牽き、ようやく辿り着く。父と並び、遍昭の前にひざまずいて、顔を伏せた。

初冠ういこうぶりのお祝いに、書物ふみを、ありがとうございました」

「『貫之つらゆき』という名になりました」

 父が言う。


 遍昭は、自分の前に並ぶ烏帽子を見下ろす。

「礼も、あいさつも、これくらいにして。――渚院なぎさのいんに行くのだろう」

「はい。どうぞ、こちらの馬にお乗り下さい、遍昭様」

 望行は顔を伏せたまま、言う。遍昭は、かしらを振る。

「歩くのは、修行でね。――小野宮おののみや様が、待ちかねていることだろう。先にお行き。」


「修行のおともをしても、よろしいでしょうか」

 顔を伏せたまま、望行が言って、遍昭は苦笑いして、子の名を呼んだ。

「貫之」

「はい。私も、お伴いたします」

 貫之の答えに、遍昭は長息ながいきく。


「『こういう真面目まめな父に、似てはいけないよ』と言おうと思ったのに、すっかり手遅れだね…」

 錫杖しゃくじょうの輪を鳴らして、遍昭は向き直った。

「では、修行のともをしてもらおうか」

 歩き出す遍昭の後を、紀望行と紀貫之は立ち上がり、手綱で馬を牽き、ともする。



「君たちも、小野宮おののみや様から、歌をいただいたのかい」

 遍昭に聞かれて、背後で望行は子を見下ろし、貫之は父を見上げて、顔を見合わせた。



  小野宮おののみや――惟喬これたか

  田邑帝たむらのみかど文徳天皇もんとくてんのう)の子。母は、紀静子きのしずこ



 遍昭は、背後で望行と貫之が顔を見合わせたことに気付かず、霞のかかる桜の花の散るさまを見上げて、歌をんだ。


桜花さくらばな

 散らば散らなむちらなん散らずとて

 ふるさとびとの来ても見なくに」


 桜の花よ

 散るならば散ってしまえ 散らずにいても

 なつかしいあの人が来ても 見ることはないのだから



ふみには、歌のみで、名もなければ、何日いつとも、何処どことも、書かれてはいない」


 遍昭の詠んだ惟喬これたかの歌を聞いて、貫之は闇のように黒いまなこを輝かせる。

みやびですね」


 貫之を返り見て、遍昭は眉根を寄せた。

「君たちにも、歌が送られて来たんじゃないのか」

小野宮おののみや様は、私たちには、普通のふみ

「貫之」

「でした。この烏帽子えぼしも、狩衣かりぎぬも、指貫さしぬきも、行縢むかばきも、かのくつまで、送って下さいました。――はい、父君。」

 望行は止めたが、真面目まめな貫之は全てを言ってしまってから、返事をした。


 遍昭は向き直り、うなだれて歩く。

「あの子は、また私をからかって……」

遍昭へんじょう様だからこそ、小野宮様の御心みこころが、歌のみで伝わったのではないのですか」

渚院なぎさのいんに、やって来た私を見て、あの子が笑み笑みする(にやにやする)顔しか思い浮かばない…」

「小野宮様は、喜んでいらっしゃるのですよ」

否否いないな嘲笑あざわらっているのだ~」



 遍昭とが子(我が子)の物語(会話)を笑み顔で聞きながら、望行は気付く。

 あれほど進まなかった子馬が、貫之に手綱をかれて、今は、母馬ははうま足並あしなみを揃えている。



――かすみで、先を行く母馬がよく見えず、子馬は心細かったのだ。



 紀望行きのもちゆきは、霞のかかる桜の花の散るさまを見上げる。


こまめて いざ見に行かむいかん

 ふるさとは 雪とのみこそ 花は散るらめ」


 望行が歌を詠んだ瞬間、何も見えなくなった。



 馬を並べて さあ、見に行こうよ

 なつかしい場所は

 まるで雪の降るように花は散っていることだろう



こまめて いざ見に行かむいかん

 ふるさとは つねとのみこそ 花は散るらめ」

 慌てて望行は詠み直した。



 馬を並べて さあ、見に行こうよ

 なつかしい場所は

 まるでいつものように花は散っていることだろう



 目をふたぐ雪のように降りしきっていた花片はなびらは消えた。

――いな。消えていない。


 足元には、雪のように花片が散り積もっている。これほど積もれば、花は全て散り果てたかと思うのに、霞のかかる桜木さくらぎに花は、咲いている。



「父君、どうしてですか。さきの歌の方がいいです」

 紀貫之きのつらゆきは、花のことは目にも入らず、父を見上げる。

「…………」

「――あの歌のままでは、ふるさとが花に埋もれてしまうよ」

 口を閉ざす|父・望行に代わって、遍昭が言った。


 望行は口を開いた。

「私が歌を詠んだことは、誰にも言わないでおくれ」

「そうそう。私の送った書物ふみは、読んでもらえたかな」

 話を変えようと、遍昭は言い出して、積もる花片はなびらから藁沓わろうず草鞋わらじ)の足を引き抜き、踏み締めて、歩き出す。


 貫之は、遍昭に答えないわけにはいかない。

「ありがとうございました。いろいろな漢文からふみ漢詩からうたが、とてもわかりやすく説明されていて、本当に勉強になりました」

 行風ゆきかぜ手綱たづなき、歩き出す。

 紀望行も、疾風ときかぜの手綱を牽き、歩き出す。うつむいて、足元を埋める花片を見ながら。


「あの書物ふみは、漢文からふみ漢詩からうたが苦手な私のために、父がまとめてくれたものなんだよ」

安世やすよ様が、お書きになったものなのですか」

 遍昭が言うと、望行は驚いて顔を上げた。



 良岑安世よしみねのやすよ遍昭へんじょうの父。柏原帝かしわばらのみかど桓武天皇かんむてんのう)の子。漢文からぶみ漢詩からうただけでなく、まいがく(演奏)にもひいでて、弓の上手じょうずでもあった。


 遍昭が全てにすぐれた父を誇るという顔様かおざま(表情)ではないことは、背後を歩く望行には、見えていない。

「そうだよ。――漢文からぶみ漢詩からうたをよく知る者たちが、えらそうに引用して、言いそうなことを、まとめてあるから、憶えておけば、宮中うちで、何とかなるよ」

「それほど大切な物を、いただくことはできません」

 望行が言う。

 貫之は、良岑安世よしみねのやすよを知らず、父が慌てる理由よしが分からない。


書物ふみは読まれてこそ、価値あたいのあるものだよ。今の私が持っていたって、何の役にも立ちやしない」

 遍昭は言うが、望行は貫之に向かって言った。

書物ふみは写して、お返ししなさい、貫之」

「はい」

「父君は真面目まめすぎる」

 遍昭は、あきれる。



「姫君に送った作り物語も、喜んでいただけたようだね」

「それは…」

 口ごもる望行を、遍昭は慌てて返り見る。



 姫君――紀貫之の妹。異腹ことばら(異母妹)で、妹と言っても、貫之と同じ日、時を少しおくれて、産まれただけだ。

 妹は、むか(正妻)の子。貫之は、内教坊ないきょうぼう妓女ぎじょ(宮中で舞や演奏をする女たち)の子だ。



「姫君が、お礼のふみでは、あんなに褒めてくれたのに、実は、『竹から姫が生まれるなんて、ないわ~。ないない。』なんて言ってるとか、わざわざ聞かせてくれなくてもいいからねっ」

「そういうことではありません」

 望行はいなぶ。


「友達に文を送っては、いただいた作り物語のことを、少しずつ、少しずつ、語っているようでして」

「私の名は出していないだろうね」

 遍昭は聞き、墨染すみぞめのころもの袖で口覆いした。

「仏の教えでは、空言そらごと(うそ)は、罪なのだよ」

 向き直り、歩いて行く。


「娘に言い置きます」

 望行は、遍昭の背に言った。

「そうしておくれ」



 心配しなくても、「僧が書いた作り物語」などと言ったら、誰も読みたがらないと思って、娘は友達に送る文には書いていない。



「なのに、どうして作り物語をお書きになったのですか」

 遍昭の背に、貫之は聞いた。

 遍昭は、霞む空を見上げる。

「あの作り物語は、寺に来る人々に、文字や、官位つかさくらいを教えるために、作った物語なのだよ。文字を読めないばかりに、損をすることのないように。官位つかさくらいがあるからって、えらいわけじゃないことを教えるためにね」

「竹から姫が生まれるなんて、どうやって、思いつくのですか」

「あはははは。あれは、私が思いついたことではない」

「では、どなたが」

讃岐国さぬきのくにへ、真済しんぜいに連れられて、空海くうかい上人しょうにんあとを、山踏やまぶみ(山で修業)している時にね、聞いた言い伝えなのだよ」

「そうなのですか…」


 遍昭は慌てて、貫之を返り見て言った。

「その他はね、私が考えたのだよ」

 貫之は立ち止まり、左の方の霞のかかる桜の方を見ていた。望行も、同じ方を見上げている。

 遍昭も、同じ方を見る。


「鬼がいます」

 貫之が聞こえるか聞こえないかの、微かな声で言った。

「父君、行風ゆきかぜをお預りいただけますか」


 子から差し出された手綱たづなを望行は受け取ったが、問い返す。

「花の咲きいづる時は、鬼のような気配がするものだよ。まことに(本当に)鬼なのか」


 父に問い返されて、貫之は明らかに惑った。けれど、言う。

「確かめて参ります」

 貫之は駆け出し、霞に溶けるように行った。


 遍昭は心配顔で見送って、望行に聞く。

「望行、いいのか。一人で行かせて。馬なら、預かるぞ」

「いいえ。鬼ではありませんから」


 望行の答えに、遍昭は眼を見開く。

「ならば、どうして行かせたのだ」

あやまちから、学ぶものですから」


 遍昭は長息ながいきくように笑んだ。

「父としては、厳しいんだな…」


 遍昭は胸の前に片手を上げ、立てて、片合掌かたがっしょうする。

「では、私は、鬼を静める助けともならないだろうけれど」

 きょうを読み始めた。

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