初恋は桜の頃
善根 紅果
霞む花
紀貫之は、十二歳。
この父子が、鬼を静める
紀氏が皆、才を持つのではない。持つ者、持たない者がいる。鬼を見分けることができても、怯えるばかりで、静められない者もいる。
貫之が乗る馬は、足踏みしたり、鼻先に舞い落ちる
振り返り振り返り、子を見る望行を乗せた馬は
「お前は、子に厳しすぎるよ…」
望行は向き直り、うなだれて、馬に言う。
どちらの馬も、毛色は青黒く、たてがみも、長い尾も、
望行が乗る母馬は、
望行が馬の上、身を伸び上がらせて見た。霞の先で、何かが鳴る音に気付いたのだ。間もなく霞の内から、
「
「
互いに、同時に呼び合う。
紀望行は馬を下りると、
聞こえていたのは、遍昭が持つ
ふくらかだった
「
遍昭は困り顔で言って、望行が来た霞の向こうを見た。
どうにか馬を前に進めている貫之が、霞から現われ出た。遍昭に気付き、馬を下りようとする。
馬が大きく首を下げ、貫之は手綱を引かれて、よろけた。
「よいよい。馬に乗ったままで、おいで」
遍昭は両手を上げ、
「下りられますっ」
貫之は言って、馬を下り、手綱を
遍昭は両手を下げ、必死に馬を
「
「髪を上げ、顔が
馬を牽く貫之の顔をよく見ようと、身を乗り出す遍昭の持つ
遍昭は、はっとして身を退き、口ごもった。
「
錫杖の輪が鳴って、仏に好き心を
紀貫之は馬を牽き、ようやく辿り着く。父と並び、遍昭の前に
「
「『
父が言う。
遍昭は、自分の前に並ぶ烏帽子を見下ろす。
「礼も、あいさつも、これくらいにして。――
「はい。どうぞ、こちらの馬にお乗り下さい、遍昭様」
望行は顔を伏せたまま、言う。遍昭は、
「歩くのは、修行でね。――
「修行のお
顔を伏せたまま、望行が言って、遍昭は苦笑いして、子の名を呼んだ。
「貫之」
「はい。私も、お伴いたします」
貫之の答えに、遍昭は
「『こういう
「では、修行の
歩き出す遍昭の後を、紀望行と紀貫之は立ち上がり、手綱で馬を牽き、
「君たちも、
遍昭に聞かれて、背後で望行は子を見下ろし、貫之は父を見上げて、顔を見合わせた。
遍昭は、背後で望行と貫之が顔を見合わせたことに気付かず、霞のかかる桜の花の散る
「
散らば
ふるさと
桜の花よ
散るならば散ってしまえ 散らずにいても
なつかしいあの人が来ても 見ることはないのだから
「
遍昭の詠んだ
「
貫之を返り見て、遍昭は眉根を寄せた。
「君たちにも、歌が送られて来たんじゃないのか」
「
「貫之」
「でした。この
望行は止めたが、
遍昭は向き直り、うなだれて歩く。
「あの子は、また私をからかって……」
「
「
「小野宮様は、喜んでいらっしゃるのですよ」
「
遍昭と
あれほど進まなかった子馬が、貫之に手綱を
――
「
ふるさとは 雪とのみこそ 花は散るらめ」
望行が歌を詠んだ瞬間、何も見えなくなった。
馬を並べて さあ、見に行こうよ
なつかしい場所は
まるで雪の降るように花は散っていることだろう
「
ふるさとは
慌てて望行は詠み直した。
馬を並べて さあ、見に行こうよ
なつかしい場所は
まるでいつものように花は散っていることだろう
目を
――
足元には、雪のように花片が散り積もっている。これほど積もれば、花は全て散り果てたかと思うのに、霞のかかる
「父君、どうしてですか。
「…………」
「――あの歌のままでは、ふるさとが花に埋もれてしまうよ」
口を閉ざす|父・望行に代わって、遍昭が言った。
望行は口を開いた。
「私が歌を詠んだことは、誰にも言わないでおくれ」
「そうそう。私の送った
話を変えようと、遍昭は言い出して、積もる
貫之は、遍昭に答えないわけにはいかない。
「ありがとうございました。いろいろな
紀望行も、
「あの
「
遍昭が言うと、望行は驚いて顔を上げた。
遍昭が全てに
「そうだよ。――
「それほど大切な物を、いただくことはできません」
望行が言う。
貫之は、
「
遍昭は言うが、望行は貫之に向かって言った。
「
「はい」
「父君は
遍昭は、あきれる。
「姫君に送った作り物語も、喜んでいただけたようだね」
「それは…」
口ごもる望行を、遍昭は慌てて返り見る。
姫君――紀貫之の妹。
妹は、
「姫君が、お礼の
「そういうことではありません」
望行は
「友達に文を送っては、いただいた作り物語のことを、少しずつ、少しずつ、語っているようでして」
「私の名は出していないだろうね」
遍昭は聞き、
「仏の教えでは、
向き直り、歩いて行く。
「娘に言い置きます」
望行は、遍昭の背に言った。
「そうしておくれ」
心配しなくても、「僧が書いた作り物語」などと言ったら、誰も読みたがらないと思って、娘は友達に送る文には書いていない。
「なのに、どうして作り物語をお書きになったのですか」
遍昭の背に、貫之は聞いた。
遍昭は、霞む空を見上げる。
「あの作り物語は、寺に来る人々に、文字や、
「竹から姫が生まれるなんて、どうやって、思いつくのですか」
「あはははは。あれは、私が思いついたことではない」
「では、
「
「そうなのですか…」
遍昭は慌てて、貫之を返り見て言った。
「その他はね、私が考えたのだよ」
貫之は立ち止まり、左の方の霞のかかる桜の方を見ていた。望行も、同じ方を見上げている。
遍昭も、同じ方を見る。
「鬼がいます」
貫之が聞こえるか聞こえないかの、微かな声で言った。
「父君、
子から差し出された
「花の咲き
父に問い返されて、貫之は明らかに惑った。けれど、言う。
「確かめて参ります」
貫之は駆け出し、霞に溶けるように行った。
遍昭は心配顔で見送って、望行に聞く。
「望行、いいのか。一人で行かせて。馬なら、預かるぞ」
「いいえ。鬼ではありませんから」
望行の答えに、遍昭は眼を見開く。
「ならば、どうして行かせたのだ」
「
遍昭は
「父としては、厳しいんだな…」
遍昭は胸の前に片手を上げ、立てて、
「では、私は、鬼を静める助けともならないだろうけれど」
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