薄幸のヒロイン
「で、どこまでの記憶がないの?」
三人でこたつへ入り、ようやく話ができる状況を整えた。僕はコーヒー。
「どこまでというか、何も覚えていないんです。コートのポケットにこれが入っていたから、たぶん私の名前だと思うんですけど……」
自信のない、か細い声と共にテーブルへ置かれたのは、プラスチック製の名札だ。
「
隣へ座る花蓮が、名札を覗いて声を上げた。
「たぶん」
「学校の名札っぽくないし、私服コートのポケットに入ってるってどういうこと?」
「私にもわかりません」
悲痛な顔で首を振る少女を気遣いながら、花蓮は柔らかな笑みを浮かべた。
「ともかく、名前は遙佳ちゃんね。親しみを込めて、ハルちゃんって呼んでもいい?」
「ハルちゃん。なんだかくすぐったいですね」
ようやく笑顔を見せてくれたけれど、このままでは進展が見込めない。僕は質問を変えてみることにした。
「ところで、どうやってここまで来たの?」
テーブルを挟んで正座する彼女は、途端に考え込んでしまった。一切の記憶を失い、見知らぬ場所にひとり。その心細さが手に取るように伝わってくるから、余計に辛い。
「気付いたら、このアパートの前にいたんです。モリトキ、カケルって名前が浮かんできて、その人に会えば何かわかるかも、って」
「僕にも訳がわからないよ」
途方に暮れ、マグカップの中のコーヒーをすすった。芳ばしい香りが鼻孔を伝い、ほろ苦い液体が舌の上を流れる。体は温まるけれど、思考はコーヒーのように先を見通せない。
救いを求めて花蓮を見ると、ハルへ寄り添い、か弱そうな背中を優しく撫でている。
「ハルちゃん、大変だったね。今は混乱してるだろうけど、ゆっくり眠ったら思い出せるかもしれないよ。まずは落ち着こう。ね?」
力ない笑顔を確認した花蓮は、子犬のような眼差しで僕を見つめてきた。
「この子を泊めてあげて。いいでしょう?」
話の流れから、そんな展開は予感していた。けれど、帰り道から頭の中は、金曜の夜をふたりで楽しむことで一杯だった。想定外の問題を処理するだけの余力など残っていない。
「ね? いいわよね?」
これはもう、お願いというより圧力だ。
「はい」
それ以外にどんな選択があっただろう。しかし、彼女の意見を受け入れた矢先、ごく当たり前の疑問が浮かび上がってきた。
「ちょっと待って……彼女、未成年だよね。勝手に泊めたりしたら、犯罪になると思うんだけど。駅前の交番に連れて行った方がいいよ」
すると花蓮の顔つきが途端に険しくなり、不機嫌さを滲ませた。
「それは私も考えたわよ。でもね、ハルちゃんは記憶がないのよ。唯一覚えていた駆の名前を頼りにして、すがる思いで来たっていうのに、突き放して放り出すの? そんな冷たい人だなんて思わなかった。ひょっとしたら駆が覚えていないだけで、遠い親戚なのかもしれないじゃない」
「それは……どうなんだろう」
うつむき加減で押し黙るハルへ目を向けた。彼女のような親戚がいたかどうか、僕にもはっきりとした覚えがない。
僕が口を閉じたタイミングを狙って、スマートフォンを触っていた花蓮はすかさず口を開いた。
「なにも、一ヶ月泊めてなんて言ってるわけじゃないんだから。捜索願いが出ているならともかく、検索しても引っ掛からないわ。一晩泊めるくらい何の問題もないわよ。ハルちゃんも、それでいいわよね?」
「おふたりにご迷惑が掛かるようなら、警察に相談してみます」
「だから、それは大丈夫だって言ってるでしょ」
結局、寝室にしている六畳の部屋をふたりへ貸し、僕はリビングのソファで眠ることにした。
花蓮とハルは、コンビニへ下着や洗面用具の買い出し。僕はその間、浴槽を掃除してお湯を張るという作業を始めた。幸い、花蓮が置いていた予備のパジャマがあったので、着る物だけは賄えた。
「こんな時、
浴槽をスポンジで丁寧に擦る。ゆっくりと流れ落ちる洗剤の泡を見ながら、口からはそんなつぶやきが零れ落ちていた。
そして掃除を終えてリビングへ戻ると、ちょうど玄関ドアが開いた。部屋に入ってきた花蓮はコートをハンガーへ掛けながら、困ったような目を向けてきた。
「花蓮、どうかした?」
「あのね……ジェネレーションギャップって言うの? コンビニで財布を出したら、ハルちゃんに驚かれちゃって」
「その話は、もういいじゃありませんか」
ハルは困ったように微笑みながら、花蓮の腕を引く。
「どういうこと?」
「ハルちゃんね、お金を見たことがないって言うの。完全キャッシュレスの生活なのよ、きっと……私から見れば新人類だわ」
「花蓮さん、コンビニを出てからずっと、こんな調子なんです」
衝撃を受けた花蓮の姿に、笑いがこみ上げてしまう。
「僕たちも、いつまでも若いままじゃいられないってことさ。新人類に負けないよう頑張るしかないね。今、お風呂を沸かしてるから、湯船に浸かってリフレッシュしなよ」
なぜか、花蓮から険しい視線を向けられていたけれど、お風呂と聞いた途端、彼女は慌てた様子で口を開いた。
「お風呂か。順番が大事ね。ハルちゃん、私、駆の順でどう?」
「とんでもない。私は最後でいいですから」
「お客様が遠慮してどうするのよ。それにほら。駆が最後に入れば、お風呂の掃除もしてもらえて一石二鳥だから」
花蓮にそう言われて、複雑な心境になってしまった。
「なんだか都合よく使われてる気もするけど、花蓮の言うことも間違っていないだけになんとも言えないな」
「そうでしょ? それに、ハルちゃんが入った後のバスルームに駆を入れたら、興奮しておかしくなっちゃうかもしれないし」
「あのな。僕は至って正常な思考だけど」
「それはわからないわよ。正常の基準ってなに?」
明確に言い返すことのできなかった僕は、花蓮の決めた順番におとなしく従う他になかった。
☆☆☆
「トウキョウ・ミックス?」
ハルは、朝食であるハムエッグのサンドイッチを持ったまま、驚いた顔で固まっている。
トウキョウ・ミックスという、都内に完成したばかりのショッピング・モール。そこへ買い物に行く約束をしていたけれど、中止を検討し始めた矢先、彼女が反応を示した。
「どうしたの? 何か思い出せそう?」
「すみません。やっぱりダメみたいです」
ハルは、隣に座る花蓮を見つめて首を横へ振る。けれど、その目は光を失っていない。
「でも、凄く気になります。行ってみたい」
急に落ち着きを無くした彼女を見て、なんだかこちらが不安になってしまう。
「警察や病院へ行く方が先じゃないの? きっと、君の家族も心配してると思うんだ」
心なしか顔色が悪い。花蓮の肌も白いけれど彼女はそれ以上に白く、薄幸のヒロインのような雰囲気すら漂っている。
「いいじゃない。ショック療法ってわけじゃないけど、まずは行ってみましょうよ。警察はその後でもいいんだし。ね?」
結局、花蓮に押し切られる形でショッピング・モールへ出掛けることになった。三人で駅へ向かい、何も持たない彼女のために切符を買って手渡した。
衣類は身に付けているものの、鞄も財布もない手ぶらの状態。本当に、彼女はどうやってここへ辿り着いたのだろう。
「まいったな」
改札を抜け、ふたりの後ろ姿に弱音が漏れた。
あいにく、僕は警察でも探偵でもない。謎ばかりだが、無事に解決できるだろうか。
不意に、花蓮と挑んだ謎解き型の脱出ゲームを思い出した。都内のテーマパークで催されたイベントだったけれど、結局、制限時間内に全ての謎を解くことができず、ゲーム・オーバーになってしまったのだ。
〝う〜ん。もう少しだったのに〟
花蓮はとても悔しがっていたけれど、言葉とは裏腹に解答用紙は三分の二しか埋まらなかった。これを少しと言うかは疑問だし、それを言うと不機嫌になるのは目に見えていたので、敢えて言及しなかった。結果、お互いにクイズや謎解きは得意ではないという事実を再確認させられただけだった。
「僕たちじゃ無理だな」
苦笑を漏らして、ふたりの姿を眺めた。
花蓮とハルは気が合うらしく、仲良く談笑を続けている。僕は、待ちに待った花蓮との休日を邪魔されたばかりか、彼女を取られたような気持ちになっていることに気付かされてしまった。同時に、ハルに嫉妬している自分をとても恥ずかしく思った。
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