断片的な手掛かり
休日の電車内。都内へ向かう路線だけに、お洒落をした十代の若者が多い。他にも、家族連れやサラリーマンの姿もある。
満席だったため、僕らは自然と窓際へ移動した。そうして、車窓の外を流れ過ぎてゆく街並みをぼんやりと眺める。目まぐるしく移り変わる景色は、あくせく働いてゆとりのない自分を見せられているようだ。
ふと車内を見渡せば、周りではしゃぐ若者たちの姿に、あの頃の自分が重なった。
学生の頃は気楽で良かった。責任なんてものもなく、仲間と馬鹿なことで騒ぎ、今が楽しければそれでいい。そんな毎日だった。
過ぎ去り、想い出に変わってしまった過去が懐かしい。ハルや若者を目にしたことで、当時の気持ちが顔を覗かせたのだろう。
「そう言えば……」
隣で同じように景色を眺めていたハルが、不意につぶやきを漏らした。目を向けると、妙に大人びた顔をして車窓へ手を添えている。
過去を振り返っていた僕と、未来を見据えている彼女。現実逃避していた自分が、なんだか恥ずかしく思えてくる。
「私、窓ガラス越しに、いつも空を見上げていた記憶があります」
「窓ガラス越しに、空?」
問い返した僕の言葉に、彼女は景色から目を逸らさず頷いた。
「理由はわからないけど、空に憧れていたんです。あの雲みたいに、自由になりたいって」
「どういうこと?」
僕たちの間に立っていた
でも、僕には何となくわかる。彼女は何かしらの事情で、不自由を強いられる生活をしていた可能性がある。自由になりたいというのは、現状を脱したいという暗示だろう。
「なんだか君が、複雑な事情を抱えていそうだってことはわかったよ」
深く考えることを放棄して、コートのポケットから三重奏の箱を取り出した。
電車内での飲食を良しとしない風潮はあるけれど、チョコレートくらいならと開き直って蓋をスライドさせた。
「食べる?」
「頂きます。それ、私も好きなんです」
まるで僕の言葉を待っていたかのようだ。弾けるようなハルの笑顔を目にして、花蓮が思い出したように口を開いた。
「そういえばハルちゃん、昨日の夜にコンビニへ行った時も、そのチョコを見てなかった? 言ってくれれば買ってあげたのに」
「いえ。洗面用具や朝食まで買って頂いたので」
箱を差し出すと、ハルはひとつ摘まんで口の中へ放り込んだ。両頬に手を添え、満面の笑みを浮かべて何度も頷いている。
花蓮にも見られないオーバーリアクションを目にして、改めてこの子が持つ若さとエネルギーを思い知らされてしまった。
「美味しい。この苦みと甘みが抜群ですよね」
「ハルちゃんの方が、味覚が大人だなんて」
ひとりでショックを受けている花蓮に吹き出すと、恨めしそうな目を向けられた。その直後、さりげなく脇をつつかれる。
「うぷっ」
くすぐったさに悶えながらも、チョコが零れないよう必死に体勢を保った。花蓮の右手を封じながらハルを伺うと、明らかに食べ足りないという顔をしている。
「朝のコーヒーもそうだけど、食に関しての記憶は凄いんだね」
数時間前の出来事を思い出し、途端に可笑しくなってしまった。
「それとも、記憶はなくなっても、食べることには本能が働くってことなのかな?」
朝食の飲み物にと、花蓮がお気に入りのミルクティをふたり分作っていた時だった。僕が淹れていたコーヒーの香りに誘われたのか、ハルが不意に口を開いた。
『いい香りですね。昨日から思っていましたけど、
彼女の言う通り、この豆は近所のカフェで購入しているオリジナル・ブレンドだ。深煎りでコクがあり、酸味の少ない味わい。それが僕の好みと見事に調和したのだ。
『確か、いつも飲んでいました。ふたり分のコーヒーを用意するのが私の役目で、ひとつはブラック。私は苦いのが嫌いだから、ミルクを沢山入れて飲んでいたんです』
自分へ言い聞かせるように、思い出すように話していた姿までもが思い起こされ、眼前の彼女を不憫に思ってしまった。
ふたり分という言葉に引っ掛かりを覚えたけれど、鳥やコーヒーなど断片的な情報は集まり始めている。このまま食に関することを掘り下げれば、更に記憶を引き出せるかも知れない。
「自分でも不思議なんですよね。そんなに食い意地が張っていたのかな? でも、ミルクを沢山入れたコーヒーを飲みながらこのチョコを食べると、凄く合うんですよ」
屈託のない微笑みとその一言に、全身へ衝撃が走った。今すぐ、この子を抱きしめたい。
「そうなんだよ。わかってるね。コーヒーを飲みながら三重奏。最高の組み合わせだよね」
「やっぱり、守時さんもそう思います?」
「もちろんだよ。じゃあ、三重奏のファン同士ということで、お近付きの印にあげるよ」
彼女とは食の好みが合うかもしれない。そう思いながら、右手へ握った箱を差し出した。
「いいんですか?」
「食べかけでごめんね。どうせ後で買い直すから、気にしなくていいよ」
「だったら新品をあげればいいのに」
隣からの一言で、僕の好意は台無しだ。
「
「ごめん。全然わからない」
花蓮の即答に、ハルが吹き出した。
「
「花蓮さん、守時さんのことをよく見てるんですね。凄いです」
ハルが驚くのは当然だけれど、それは僕も同じだった。自分の彼女ながら、その洞察力に言葉を失っていると、花蓮は勝ち誇った笑みを見せてきた。
「でもね、ハルちゃんもなかなかのものよ。サンドイッチコーナーで、駆の好きな商品を当ててみてって言ったら、一発で正解したんだから」
「あれは偶然ですよ。一番無難なものを選んだだけです」
「だけど、コーヒーに三重奏。駆と食べ物の好みが近いじゃない? このまま記憶が戻らなかったら、駆に使用人として雇ってもらえば?」
「その冗談は笑えないよ」
僕の引きつった笑みに気付いた花蓮は、途端にすまなそうな顔をして、ハルに頭を下げた。
僕がハルに嫉妬していたように、花蓮もハルに嫉妬して攻撃的な言葉を投げてしまったのかもしれない。そう思うと、花蓮に対して愛おしいという感情が湧き上がってくるのを感じていた。
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