異変
「上機嫌だったよね?」
「へ? 私のこと?」
触れてはいけないことだったのか。まるでスイッチを切ったように笑みが消えた。
「あれ、すっごく恥ずかしかったんだから。どうしてもって言うから着たけど、あんな衣装を用意してるなんて……スケベ」
ふくれっ面も可愛いけれど、あれは確かにやり過ぎだったかもしれない。
「でも、セクシーで可愛かったよ。恥じらう姿も、それはそれでそそるっていうかさ」
真っ赤な顔で、スカートの裾を押さえて登場した彼女を思い出し、頬が緩んでしまう。
「それに、
性なる夜に、サンタ姿の彼女を。
「あれ、セワ君の仕業だったの? 気を遣うのは仕事だけでいいって言っておいて。まったく……来週からはセクハラ君だね」
僕たち同期の間で、世良の面倒見の良さは定評がある。あいつに世話君というアダ名を付けたのは
「そうは言っても、お酒が入ったら大胆だったじゃないか。嫌よ嫌よも好きのうち、痛っ」
胸を叩かれ、歩く足が止まってしまう。
この仕打ちの同情を得ようと辺りを見回すけれど、こんな時間だ。さすがに人影はない。
静まり返った通りは、世界に僕らだけしか存在しないような錯覚をさせる。空に浮かぶ満月だけが呑気に僕らを見下ろしているけれど、それならそれで見せ付けてやればいい。冷え切ったこの地上を存分に暖めてやろう。
「これ以上からかうなら、今日は帰るよ?」
不機嫌そうな顔だけれど本気じゃない。ちょっとからかうと拗ねるのはいつものことだ。
「電車もないのに?」
「タクシーがあるもん」
「黙って帰すと思う?」
腕を組まれた状態から彼女の腰を取り、その体を引き寄せる。瞳をじっと覗き込む。
「それに、明日は買い物に付き合う約束をしたじゃないか。開店に間に合わなくなるよ?」
「ずるい」
薄紅色の艶やかな唇を尖らせる彼女だけれど、顔を近付けるにつれ、その先を期待するように穏やかな表情へ変わってゆく。
星空の下でする口づけはなんだか秘密めいていて、とても悪いことをしている気持ちにさせられる。でも、この想いを止められない。
☆☆☆
「誰?」
異変に気付いたのは、ふたりで寄り添って歩き、木造アパートへ帰宅した時だった。
外階段を登り、六部屋並んだ中央の二〇三号室が僕の部屋。その玄関ドアへもたれるように、体育座りをした誰かがいる。
「女の人?」
花蓮は僕のコートを掴んで背中へ隠れていたけれど、怖々と顔を覗かせつぶやいた。
「そう、みたいだね」
抱えた膝へ顔を埋めているので、表情まではわからない。結い上げられた綺麗な黒髪が、通路頭上の電灯に照らされている。
品の良いピンクベージュのムートンコートを羽織り、下はブルーデニムに、白のスニーカー。意外と若いのかもしれない。
様子を伺いゆっくりと近付く。間違いなくそこは僕の部屋だけれど、あいにく彼女のような知り合いはいない。
後三歩という距離で立ち止まり、顔を覗き込むようにして恐る恐る声を絞り出す。
「あの。部屋に入りたいんですけど」
途端、女性が急に顔を上げた。いや、女性というより女の子だ。幼さの残る顔立ちは、恐らく十七、八才ほど。
「
「そうですけど」
すると勢いよく立ち上がる少女。鬼気迫る迫力に押され、思わず後ずさりしてしまった。
「私のこと、何か知りませんか?」
☆☆☆
「狭い部屋だけど、入って」
1LDKの自室へ招き、即座に暖房のスイッチを入れた。温かい飲み物を用意しようと、ケトルを火に掛ける。
「あれ? どこだったかな……」
キッチンを見回しながら、独り言が漏れた。
花蓮がこの部屋へ来るようになってから、水廻りは彼女好みに整頓されてしまい、キッチン用品の消息は把握が困難になっていた。フライパンやケトルといった主な物だけは把握しているけれど、今もこうして、どこかへ消えてしまった来客用のカップを探している。
「私は
花蓮は奥の部屋から持って来たハンガーへ、少女のコートを掛けた。その下には白のニットセーターを着ている。改めて見ても、大人と子供の狭間で揺れる、ごく普通の少女だ。
「適当な所に座って。汚い部屋でごめんね」
戸惑う少女へ肩をすくめてみせる花蓮。
場を和ませようと、すかさず乗ってみた。
「汚いって、軽く傷付いたよ。僕としては、いつも綺麗にしているつもりなんだけどね」
「はいはい。駆の場合は自分だけが綺麗だと思っているだけなの。決まった物を決まった場所に置いているだけ。それは整理整頓って言わないの。これだけ収納があるんだから、もっと見えないように工夫すればいいのに」
花蓮は、漫才のような綺麗な切り返しを口にして近付いて来た。食器棚の下部収納を覗き、奥からマグカップを取り出す。
「これでしょ?」
「え? ありがとう……」
余りにも簡単に取り出す様は、目の前で手品を見せられた気分だ。
「私と彼女は、ダーリンの愛情がたっぷり入った、いつものミルクティでお願いしま〜す。時間も遅いから、甘さは控えめでね」
「承知しました。お嬢様」
彼女には一生、勝てる気がしない。
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