第一楽章 BITTER

闇夜を舞う蝶


「三重奏、だっけ? かけるって、そのチョコレートが本当に好きだよね。太っちゃうよ?」


 外灯が頼りなく照らす深夜の道で、右隣を歩く彼女が呆れたように笑っている。


 僕が手にするコンビニ袋には、ビールとワインに、いくつかのツマミ。加えて、この三重奏だけはどうしても外せなかった。


花蓮かれんもさ、騙されたと思って食べてみればいいんだよ。本当に美味しいんだって」


 開封して一粒食べた箱を差し出した途端、彼女は眉根に皺を寄せ、顔の前で右手を振る。


「無理。本気で無理だから。苦いのダメって知ってるのに、そういうこと言うんだから」


 艶やかな唇を尖らせるけれど、その困った顔が見たくて、つい意地悪をしてしまう。

 更に追い打ちを掛けようと、持っていたコンビニ袋を覗き込む。


「同期や他の社員も憧れる、見た目は抜群のマドンナ。でも、味覚はお子様だよね。ワインを飲む姿は様になっていても、常に甘口」


 酔った勢いも手伝って、調子に乗り過ぎてしまったらしい。コンビニ袋から顔を上げると、花蓮は頬を膨らませていた。アーモンド型の綺麗な目が、僕をじっと見据えている。


「またそうやってバカにして。大体、お子様はどっちですか? 初めて話した時なんて、真っ赤な顔で固まってたくせに」


「それ、今ここで言うの?」


 どこかから、犬の吠え声が聞こえて来た。彼の安眠を邪魔したことは悪いと思うけれど、今の僕にはどうでもいいことだ。


「仕方ないだろ。一目惚れだったんだから……」


 消えゆく僕の声を拾い集めようと、耳へ手を当てた花蓮が顔を寄せてくる。


「な〜に〜? 聞こえないんですけど〜」


「二度も言わせるなよ」


 その細い肩を抱き寄せた途端、手を払い、闇夜を舞う蝶のように逃げてゆく。


「そうやって、誤魔化そうとしてもダメ」


 どうやら彼女を捕まえるには、本気でかからなければならないということか。


「だから、一目惚れだったんだ。狙っている奴は多いし、こっちは必死だったんだよ。ガードが固いとも聞いてたから、オーケーしてもらえた時は本当に信じられなくてさ」


 すると花蓮は、はにかみながら俯く。その動きに合わせて、背中まで伸びるストレートの黒髪がビロードのようになびいた。


「私も、いいなって思うようになっていたから。仕事ぶりも真面目で丁寧だし、周りに気配りもできる優しい人なんだなぁって」


 思ってもみなかった高評価。訳もなく取り乱し、心の奥がざわついてしまう。


「僕だってそうだよ。身持ちが堅いだけじゃなくて、意外と家庭的だっていうのは驚いたよ。料理の腕前とか、綺麗好きな所とかさ」


「他には? 他には?」


 顔を僅かに上げ、僕を試すように上目遣いで見つめてくる。口元へ添えられた指先と相まって、その仕草だけで骨抜きにされそうだ。


「えっと。そうだな……」


 整った顔立ちや魅惑的な仕草は勿論だけれど、急に振られても外見の特徴しか思い浮かばない。見た目だけで判断していると思われたら、また機嫌を損ねられてしまう。


「はい、残念。時間切れです」


 そう言って、再び唇を尖らせた。


「駆君には罰です。来月のバレンタイン、頑張って手作りしようと思ったけど、や〜めた」


 チェック柄のマフラーから飛び出すように首を伸ばし、冷え切った夜空へ叫ぶ。


「え? 冗談、だよね?」


 続く言葉を言い淀んでいると、悪巧みを思い付いた子どものような顔で微笑んできた。


「代わりに、その三重奏って言うチョコを箱買いして届けるわ。宅急便のお兄さんが」


 いくら魅力的な笑顔でも、その提案には到底納得できない。


「初めてのバレンタインだし、料理の上手い花蓮には手作りを期待していたんだけど。しかも宅急便のお兄さんって、花蓮ですらないじゃないか」


「どうせ私はお子様ですから、甘口のチョコしか作れないもん。駆は、苦〜い大人のチョコが好きなんでしょう?」


 これはもう、全面降伏するしかない。


「いや、お子様って言ったのは味覚のことで……あぁ、本当にごめん。許してください」


 しどろもどろになっていると、花蓮はお腹へ手を当てて笑い出した。


「ダメ。困った顔がおもしろ過ぎる」


「頼むから許してくれよ」


 困り果てる僕の肩を叩き、腕を絡めてきた。不意に寄り添ってきた温もりに、胸が高鳴る。


「中途半端にからかわないで、私に夢中って素直に認めればいいのよ。クリスマス・イヴには、あんなに鼻の下を伸ばしてたくせに」


 思わぬ反撃が待っていた。長い髪を耳へ掛け、悪戯めいた視線を向けてくる。そんな顔をされては太刀打ちできない。


「確かにあれは、抜群の破壊力だった」


 脳裏へ焼き付いた魅惑的な姿が蘇る。


〝彼女ができた記念に、これやるよ。ディスカウントストアで見付けた安物だけど、盛り上がること間違いなし。違うな。燃え上がること間違いなし、だな〟


 クリスマスが間近に迫ったある夜。同僚の世良せらが薄ら笑いを浮かべながら、デスクワークにいそしむ僕の所へやってきた。


〝しっかし、おまえがあの花蓮ちゃんと付き合うなんてなぁ。女優みたいな顔で、あのスタイルだろ。羨まし過ぎるぞ、こら〟


 肘で小突かれながら渡された包み。中身は、サンタをモチーフにしたミニスカートのローブワンピース。そして、当日にそれを身に付けた花蓮は、形容しがたいほどの美しさだった。


 白くすらりと伸びた艶めかしい脚。均整の取れた肢体が描く滑らかな曲線。うなじを見せるように髪を掻き上げる妖艶な仕草。それら全てに目を奪われ、虜と化した。


 そして、最初は恥じらいを見せていた彼女の顔が、次第に小悪魔のような色を帯びて。

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