暗雲立ち込める

 トウカの伸ばした手から、シンヤはするりと抜けてしまう。


 彼はいつもそうだ。いつも一人だけで無理をする。心配をするこっちの気なんて考えたこともないのだろう。


「あーもう、あのバカ!」

「シンヤなら、そう簡単にくたばらない。そのことは私たちが一番よく知ってるでしょ」


 カサネに手を引かれながら、トウカは崩れゆく家の中を走る。


 自分の生まれ育った家が腐り果てていく様は、決して愉快なものではなかった。それでも二人は悔しさを堪えて、玄関まで駆け抜ける。


 ◇◇◇


 封印の間があった空間の足元からは、ドス黒い魂が液状化し、染み出していた。黒鋼家の廃材たちを飲み込んで、液状の魂はそこに小規模な沼を形成する。


 そして、据えたような異臭を放つ沼の中には巨大な気配がジッと息を潜めていた。


「……あの奥にいる気配が、〈八災王〉なんでしょうね」


 そうぼやきながらに、カサネは手にした鎖を強く握りしめる。


 そして、もう片方の手で妹の艶やかな髪を撫でると、柔らかな笑顔を作ってみせた。


「良い、トウカちゃん? 貴方はシンヤと合流して、ここから逃げなさい」


 封印は解かれても、黒鋼家の縛りによる活動範囲の制限自体はまだ生きている。


 そして、この縛りは自分とトウカが生存している限り持続する。


 そこまでの情報を整理しながらに、カサネは思案を重ねた。


〈八災王〉が沼を形成し、その内側に潜んでいるのも、トウカたちを殺す機会をうかがってのことだろう。


 ────ならば自分はどうするべきか?


「私がめいいっぱいの時間を稼いでみせるから。二人は、私より強い〈封印師〉を呼んできなさい」 


「嫌……そんなの嫌よッ!」


 だがトウカは、当然強く否定する。


「トウカちゃん」


 カサネには、自分をキツく睨む妹にかけるべき言葉を見つけられなかった。


 代わりに、ジャージの裾を離そうとしない彼女を力任せに引き剥がす。


「お姉ちゃんの言うことを聞きなさい」


「ッ……!」 


「お願いだから……ね」


 こんな時だけ「お姉ちゃん」を理由に使うなんて、我ながら酷い姉だと自嘲してしまう。


 ただ、それでも今のカサネは自分に出来ることを全うするために走り出した。

 

 ◇◇◇


「死ぬかと思った!」


 シンヤは降り注ぐ瓦礫を蹴り飛ばし、黒鋼家から飛び出した。その背にはネノも背負われている。


 衝撃をいなすよう、両足で着地して。息も絶え絶えになりながらも、背負っていた彼女の身体を手ごろな木陰に下ろした。


「ギリギリセーフ…………でもなさそうだな」


 シンヤの方からも、〈八災王〉が作り出した沼が見えた。そこから漏れ出した負の瘴気は、周辺の木々を腐らせていく。


 もはや、自分の力でどうにか出来ると思う余地さえもなかった。


「クソッ……」


 とにかくトウカたちと合流して逃げなければ。そんな気持ちだけが先走る。


 だが、すぐにある事実に気付いてしまう。


 自分は一体、何処へ逃げればいいのか?


〈八災王〉はあくまでも、あの沼の中で一時的に停滞しているに過ぎない。あの異形の王が少しでも這い出せば、目に映る全てを飲み込んでいくのだろう。


 そうなれば、自分たち達に逃げる場などない。


「うぐッッ……!」


 絶望にシンヤが立ちすくんだ時だった。背後からの鋭い痛みが突き抜ける。


 焼けるような痛みに表情を歪めながら振り返れば、そこには血まみれのナイフを握り締める少女が立っていた。


「ふひっ」


 ネノだ。


 彼女は狂気じみた笑顔を称えている。


「このッ……野郎ッッ!」


 気絶していたフリをしていたのか。それとも、ほんの寸前に意識を取り戻したか。そのどちらかは分からない。


 それでも彼女は、自分を助けたはずのシンヤを容赦なく襲ったのだ。


「ふふ、敵を助けるなんて、バカな甘ちゃんもいたもんなのー」


 ネノは血濡れのナイフを弄びながら、再びその先端をシンヤの背へと突き立てる。


「がぁっ……⁉」


 その表情に張り付けられるのは、まるで玩具で遊ぶ子供のような笑顔だった。


「あはは! ほら、ほらぁ!」


 彼女の名は子述(ネノ)。見かけこそ子供のように幼いが、その実年齢はすでに百を超えていた。異形の魂を幼い頃から喰らい続けることで、歳を取らなくなったのだ。


 より正確にいうなら精神もろとも、肉体の成長が止まっているのだろう。


「ぐッ……やめっ……ろ!!」


 シンヤは強引に彼女を払い除ける。


 その反動で傷口が開き、血が吹き出した。内臓にも刃が達していたのだろう。意識が途切れかけ、全身には悪寒が走る。


「あははっ! フラフラなのー!」


「テメェ……ふざけんなよッ!」


 シンヤは腹の底から、めいいっぱいの力で吠えた。


 自分の背中を刺された怒りじゃない。彼女は〈八災王〉の封印を解いたのだ。自分たちを取り巻く瘴気と、腐り果てていく木々を見ていれば、それがどれだけの禁忌だったかを推し量るのは、そう難しいことでもない。


 王はそれだけの厄災を振り撒くのだ。存在するだけで他者の魂を腐敗させ、恐怖を蔓延させる。その恐怖が絶え間なく新たな異形を生み出す糧となり、大地は〈八災王〉と付き従う異形たちによって蹂躙される。


 そんな厄災の封印を解き放っていながら、ヘラヘラと笑っている彼女をシンヤは許すことが出来なかった。


「お前……自分が何したか、分かってんのかよッ!」


「ん……? 囚われの可哀想な〈八災王〉様を解き放っただけなのー」


「アレが可哀想だと? 笑わせんなよッ! お前にも見えてるだろ、後ろで広がってる悍ましい沼が! お前も感じてるだろ、あの沼の奥で野郎が放ってる嫌悪感がッ!」


「何を言ってるかよく分からないの。だって、こんなに気分が心地いいんだから。全身の毛が逆立って、ゾクゾクして! 吐いちゃいそうで、冷や汗も止まらなくて! こんなにも心地がいいのッ!」


「このガキ……後悔はねぇんだなッ! お前のせいで人は死んでも、罪悪感はねぇんだなッ!」


「あはぁ……そんなのあるわけないの。お前こそ、どうして王の威光が分からないの? どうして王の前に跪こうとしないの?」 


 彼女の目はそれだけの狂気を孕んでいた。あんな悪意を蘇らせて、尚も笑う彼女は人の皮を被った化物であった。


「そうかよ……ならテメェが一人で跪けッッ!!」


「ふふん。楽しくなってきちゃっのー!」


 ネノのナイフが再び自分の方を向く。


 シンヤも傷口を押さえながら、拳をきつく握った。


「シンヤッ!」


 向こうから、トウカの声が聞こえた。これ以上にない最高のタイミングだ。


「──来やがれ、雨斬ッ!」


 その黒い刃を強く握り、シンヤは目の前の解放者(リベレーター)・子述(ネノ)と対峙した。

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