第8.5話 痛恨②(前半24分)
(アンダー17ワールドカップ本大会の1年後、ブラジル国内の全国紙記事、元アンダー17ブラジル代表監督パウロ・サントロへのインタヴューより抜粋)
『アンダー17ワールドカップ・アメリカ大会。あの劇的な決勝戦の真実とは?』
--では日本戦で起こったことについて話してください。
「あのゲームは特別だった。観た人ならわかってもらえると思うけれど、前半の途中から異常な出来事が次々に起こってね……。あの試合に比べたら試合中の乱闘で退場者が続出するとか、スタジアムの照明が停電で消えたとか、その手の珍事がなんでもないことのように思えるくらいだよ。
マラカナンの悲劇(マラカナッソ)やミネイロンの惨劇(ミネイラッソ)がまだ普通の試合に思えてくるほど奇妙な試合だった。あれは……。
サッカーの試合なんて毎週何万試合もあるもんだろ? 世界中にプロリーグがあって、アマチュアや女子、練習試合を含めればもっと膨大な数になるだろう。そのすべてを覚えていられる人間はいない。仮に1つのチームに限定してもそうだ。常に次の最新の試合が待っているわけだから……観たり出場したり指揮したりしても、忘却の彼方に追いやられるもんだ。
だがあのブラジル対日本の試合に対する印象は常に新鮮なままだ。私はきっと死ぬまであのゲームで起こった出来事の数々を忘れないだろう。キックオフから終了のホイッスルが鳴るまで……。
相手が日本だからといってナメてかかるような選手はいなかったよ。決勝までの勝ち上がりは相手のほうが素晴らしかった。こっちはPK戦が2回、接戦続きだ。相手はPK戦が1回、ベスト16では信じられない大差となったゲームもあった(ベスト16の日本対オーストラリアは日本の7-1の大勝)。
互いにキープレイヤーを1人ずつ挙げるのなら、日本のそれはオトワであり、ブラジルのそれはディアスだ。
オトワはなぜ決勝戦まで1得点なのかが不思議なくらい厄介な選手だった。そのオトワを抑えるためにディアスを起用したわけだが……。
ディアスの父親のことはわかっている。あの強烈な自己の持ち主の一人息子。代表チームを捨てたDFの息子を代表チームに選んだんだ。マスコミにも大きくとりあげられたよ。
なぜあの少年を代表チームに選んだのか? それはもちろん彼の選手としての才能を認めたからだ。でも戦力としてだけではない。ディアスのパーソナリティが優れているからでもある。彼と話をしてみてわかった。あの2世選手はすごく大人なんだ。
そして頭も良い。監督と選手の間の橋渡し役として適任であると判断した。
ブラジルサッカーを動かしてきたのは才能ある選手たちだ。彼らには発言力がある。--ときには監督以上にね。
気に入らない監督を更迭させることすら可能な権力を有している。権力をあたえているのはマスコミやサポーターかな。それについて愚痴っても仕方がないがこれは事実だ。
たとえ選手たちが若かろうと傲慢になる。今回の代表チームはアタッカーたちが粒ぞろいだった。ソウザにフェレイラにアリアス。ブラジルにとっても20年に1回あるかないかの優れた世代だった。
優勝するためには彼らを選ばざるを得ない。だが彼らが私のソリッドなスタイルのサッカーを捨て勝手気ままにサッカーを始めてしまったら負けるだろう。
だからディアスが必要だった。レジェンドの息子が私にしたがってくれるなら、他の選手たちも私に従順になってくれる。実際にそうだった。
ディアスは予想以上に人間ができていた。
決して金持ちの道楽としてサッカーをとらえていなかった。心の底からこのスポーツを愛していたし、理解していた。チームのためにプレーできるところは父親とそっくりだ。
父親との違いは愛国心の有無だろう。率直にいえばそれに尽きる。
母国から裏切り者あつかいされた彼の子供が自分を殺しナショナルチームで活躍するとは……。
そもそもベスト8のアルゼンチン戦でセンターバックに退場者が出たとき、自分がそのポジションに入ると主張したのは彼自身だった。父親とは違い大柄とはいえないディアスが、よりにもよってアルゼンチン戦で、だ。
彼以外の全員が驚いていたよ。
父親が代表を辞めるきっかけになった対戦相手だ。
父親が息子にやらせるまいとしているポジションにはいった。最初はおっかなびっくりだったが彼はあっさりと適応した。それどころか、残りの2試合もセンターバックの位置でプレーしたいと申し出たんだ。チームが野戦病院で本職の選手が1人しか残っていなかったこともあり助かった。彼には感謝してもしきれないよ。
能力については申し分なかった。地上戦では勝ち続けた。だが空中戦については勝率が悪かった。その点を決勝戦で日本に突かれたわけだが……。日本はこちらの最終ラインを押しこんだうえでハイクロスを選択してきた。
つねに思っていることだが、選手にとってもっとも親密なコーチというのは自分自身なのだ。
自分を1番教育しているのはつねに自分自身だ。そうだろ? 24時間いつも自分のそばにいる。大人のコーチがあれこれ指示をだしても、それをインストールする判断を下すのは自分の頭脳だ。選手たちの優劣をつけているのは自分の脳内にいるコーチが優秀であるか、無能であるかなんだ。
極論トレーニングに励むかサボるかもそのコーチ次第だろ? まぁこれはサッカーだけではなくて勉学やゲームにも共通するテーマといえる。
優れた人間は頭の中に優れた指導者を住ませている。
つまり、優れたプレイヤーは優れた指導者にもなれるってことだ。そうだろ?
ディアスはまだ若いプレイヤーだが、優れた指導者にもなれる。
フィールドプレイヤーとして最後尾の位置に立つあいつこそがあのチームの支配者だった。試合の流れが読める。相手の配置を見て味方に適切な指示がだせる。サッカーは技術やフィジカルだけの競技ではない。頭脳戦において最善手を打てる。
ベンチにいる私に仕事がなくなってしまうくらいだ。ディアスは自己犠牲の精神が強い。なにしろウィングの選手がセンターバックまで下がってプレーしていたわけだし。
しかも億万長者の息子が、だ。プール付きの豪邸に住んでいる金持ちが……いやそれどころかプライヴェートジェットだって保有していたか。父親が1番稼いでいたときは年俸3億ドルだったっけ? ディアスがどういう環境で育ってきたかはちょっと想像ができない。
他の子供たちがどんな環境でサッカーをしてきたかは理解できる。それこそファヴェーラからサッカーだけで這い上がってきた奴もいたよ。それくらい選手達の生活の格差が散けている。そいつらが同じユニフォームを着て、同じ目標をかかげプレーすることは本来困難だ。きっと日本は事情が違ったんじゃないかな……。
ディアスは本当に尊敬されているキャプテンだった。貧乏人相手に一人のチームメイトとして接する聖人だった。
人種が異なるチームメイトを自宅に招いて夕食を摂らせるくらいのことはなんでもない。ディアスが生まれつき金持ちだから優しいのではない。ディアスが聡明で誰に対しても平等な接し方を心がけているのは、彼自身がチームの規範たり得る人物になりたいと願っていたからだ。
前半24分だった。ディアスがオトワにしたことはあまりにも彼らしかった。
--あのときは世界の時間が止まったと思ったね。
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前半24分。
俺はブラジル陣地のペナルティエリア内で身体を横たわらせていた。短く切りそろえられた芝生の感触が手足に馴染んでいた。
呼吸を整える。身体のどこかが特に痛んでいる様子はない。
主審と日本のスタッフたちが駆け寄ってくる。
なにが起こったのかまだ理解できない。誰かが蹴ったボールを追いかけ、ディアスよりも先にジャンプ、空中で接触があり、そう、重心が崩れた。ディアスの肩に俺の腰がのっかりひっくり返された。
俺は地上1メートル強の位置で一瞬宙づりになり、頭からフィールドに叩き落とされる。世界一を目指すストライカーにとっておよそ希望のある状況とはいえない。良くて半身不随。悪ければその場で死んでいただろう。
人体が備えている防衛機構--立ち直り反射は発動しない。地面までの距離が近く、そしてぶつかったディアスの身体が邪魔をする。このままでは死--
俺を救ったのはディアスの機転だった。俺の頭と地面の間に身体を滑りこませ、そして背中から強く押すことで落下する速度を殺した。
結果は……無傷。
「大丈夫かオトワ?」
「ああ大丈夫だ。俺の名前は音羽リュウジ。2足す2は4でここはアメリカ。戦っている相手はブラジル代表。あんたの名前はディアス。悪名高いセンターバックの息子だろ?」
「問題はなさそうだ」
ディアスは俺の腕をつかみ立ち上げさせた。
スタンドからとんでもない大歓声が発生した。怪我をした相手選手を気遣う。その手のありふれたシーンではない。
観たものすべてが理解しただろう。いまブラジルのDFは日本人FWの命を救った。
やりにくいってレヴェルではない。
試合は止まっている。うん、まだ事件発生から1分と経過していないようだ。
俺は近づいてきた代表のスタッフを速やかに帰らせた。身体を動かし無事であることを大会スタッフにアピールする。そう、まだ帰るわけにはいかない。
俺は目的を達成していない。自分のゴールで日本を優勝させるのだ。
……もうそんなことなんてどうでも良くないか?
たった今死にかけた俺にとって、こんなゲームを続行する意味などあるのか?
俺は命の恩人の顔を覗きこんだ。
ディアスは凜々しい顔をして俺を心配そうに見ている。
「まだ続けるつもりか?」
「当たり前だ。ナメんなよ」
「日本のベンチはそう思ってるかな?」
俺はベンチを見た。スキンヘッドの監督がコーチと忙しく話をしている。
交代させられる? まだ前半も途中。枠を1つ使いチームの選択肢を削る。それが俺のこの大会の終わり方なのか? ベンチで大人しく応援しチームメイトの活躍を期待していろと?
ありえねぇ。
俺はベンチそばで伝令役として待機していた右WGの彼を呼んだ。
「先輩! 先輩! 俺はイケるから! 今までどおり全力でプレーできる!! 畜生、俺を見ろ!!」
大会5得点の彼が俺の動作に眼を剥いた。
いや驚いているのはピッチにいる選手全員だ。
注目されていることに気づいた俺は、人差し指をある方向に指したのだ。
ブラジルのゴールに向けて。
ストライカーがこの動作をする意味を考えてもらいたい。
俺はこんなパフォーマンスをする選手を1人たりともみたことがない。
「リュウジ、本当に大丈夫なのか? 冷静になって考えろ! あんなことがあってまともにプレーが--」
「ゴール決めるから。絶対に。俺が1番確率が高いんだ! だから俺を残せ!!」
俺のすぐ前にいるディアスは呆れた顔をして言った。
「日本語でなにを言っているかはよくわからないが、そのポーズの意味はわかるよ。予告してるんだろ? オトワ、君は正気か?」
「正気だよ。ああ、さっきは命を救ってくれてありがとうな。感謝しているよ」
スペイン語で話をしているがディアスには通じているらしい。
「当たり前のことをしただけだ。君は味方だから?」
「味方?」
「同じサッカーをしている味方だろ? 対戦相手がいなければ試合にはならない。だから助けた。それだけだ。俺がしたことなんて忘れてこれからも全力でプレーしてくれるよな。そうでなければ楽しめない」
「……ついさっきまで失点しかけていたくせに良く言う」
「弱点を突くのはゲームなら当たり前だ」
大人だ。ディアスは俺なんかよりもずっと大人だ。
落ち着いている。人1人救っておいてまるでなんてことなかったかのように振る舞っている。一体どんな経験を積んだら敵とこのようなコミュニケーションがとれるようになるんだろう?
ディアスは近づいてきたチームメイト達と話をする。少しも感情的にならず、俺を見ながら冷静に事態を説明している。
主審が近づいてきた。選手達に話をする。
大会主催者側から連絡がきたようだ。もうこの騒動も終わり。まもなくブラジルボールで試合を再開すると。
日本ベンチを見た。俺は……とりあえず出場続行する。だが数人の選手がピッチの外でアップを始めた。猛烈な勢いで。ふざけるな、これは俺のゲームだ!
本当にそう思っているのか?
俺は命の恩人がいるチームを倒すことができるのか?
およそ1時間後、仮に日本が勝利したとき、敗者であるディアスにどんな言葉をかければいい?
俺は相手を恨みたかった。
俺に悪意をもって削ってくるDF、試合が止まったときに侮蔑する言葉を投げかけてくるDFは良かった。俺が得点を決めさえすれば復讐は完了するからだ。
だが相手が投げかけてくる善意に対し俺がどう処すればいいのだ。俺がこの試合でゴールを奪えば、ディアスに対し恩を仇で返す形になる。
いっそディアスが極悪非道で人の命をなんとも思っていない奴なら……いや、それならあいつが怪我をするリスクを負ってまで俺の身体を受け止めようとはしなかっただろう。
スタジアムは割れんばかりのブラジルコール、そしてディアスの名前も半分ほど含まれるだろう。
たった今ピッチで現象したのは、『世界一を決める試合で対戦相手の日本人選手が死亡しかねない突発的な事故を、勇気を持って防いだブラジル人選手。素晴らしいスポーツマンシップだ』
褒め称えられる救助者はディアスであり、俺はただ一方的に助けられた弱者。
俺はヒーローに憧れていた。なりたい自分をそこに見出していた。かわいいもんだ。
ヒーローってもんは間違っても敵に助けられたりなんてしない。それはそうだ。敵に負い目をつくるなんてありえない。
だが俺はディアスに負い目をつくった。
どうして……こんな眼に遭っているんだ? 俺には大義がない。ディアスの前でゴールを奪うという行為は、自分の意志でセンターバックとしてプレーしている奴のプライドをズタズタに切り裂く行為に違いないわけで……。
ブラジルのGKがボールを蹴って試合を再開する。
頭を下げながら、俺はディアスに近づいた。
「日本は俺の国だ。国の勝利のためになら俺はなんだってなる。修羅にだってなるし外道にだって成り下がる」
「なにを言っているかよくわからないけれど……。そうだね、俺もブラジルのためになら最高のプレーをして、ブラジルを優勝に導いてみせるさ。それが父親の罪を贖う唯一の方法だからね」
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