第31話シアトルの唇
……──毒を吐く裂け目、そしてその中に潜む怪物たち。
人間にとって彼らとの遭遇は多くの場合不幸であり、恐怖である。
この裂け目がどのように生じたのかは知られておらず、それどころか公式には裂け目が存在するという事実すら秘匿されている。
だがしかし、彼らは実在するのだ。
あるところでは神話や伝承として語り継がれ、またあるところでは創作として形作られ、そしてまたあるところでは単なる都市伝説として闇に葬られてきた彼らは歴史にその痕跡を残し、現実に干渉をし続けてきた。
たかしが産まれるよりも数十年前の世界的不況の時代、シアトルの上空に全長数キロにも及ぶ巨大な裂け目の怪物が出現したことがある。
その「無数の唇の塊のような怪物」は最終的にはガンドライドではなく人間の軍事組織の作戦行動によって出現から13時間後に消滅が確認されたが、その過程で数十機の戦闘機が破壊され、シアトルの半分は灰と瓦礫の山と化していた。
後にただ単に「唇」とだけ呼ばれたそれは、いかなる生物学的分類にも当てはまらない吐き気を催すようなおどろおどろしさを纏った存在だった。
「唇」の隙間から覗く大小の歯は、瞬く間に潰れた目玉に変わり、次の瞬間には血塗れの人間の頭部に変わっていた。
「唇」の中にあるはずの舌は無く、その代わりにどういうわけか数千匹の怯えた表情の猿が奥から大きな顔を覗かせていた。
「唇」からは唾液の代わりに燃えたぎる糞便やカビに包まれた人の手足が絶え間なくぼたぼたと零れ落ち、漏れ出す不可視の毒はそれに触れた者と遺伝的に繋がりにある者、すなわち母を通じてその甥の、つまり祖父を通じてその孫の臓器へと距離とは無関係に浸透し、体の一部を石のように変えた。
「唇」の周りは力場に覆われ、通常の物理法則や化学反応を無視してあらゆる物を変質させるか、あるいは破壊していた。
その力はただ存在するだけで周囲に拡散し、その影ですらあらゆる生物の活動を阻害し、徐々に崩壊へと至らせるか変質させていった。
それは人類の理解を超えた、しかし確かに存在するグロテスクで原始的な悪夢だったのだ。
いくら通常兵器で対処できるとはいえ、こんな怪物がもし複数体同時に出現することになれば、人類社会は致命的なダメージを負うことは想像に難くないだろう。
それでも公式な記録では「異常気象による蜃気楼の一種」として処理されただけで、数年後にはまるでその恐怖を封印するかのように誰一人としてその詳細を語ろうとはしなくなっていった。
もちろんシアトルという大都市のせいもあってか、それは多くの人々に目撃されただけでなく、膨大な量の映像や写真が残されている。
だが、その映像や写真に映っているものは歪んだような光か、崩れた建物や石化した人間の残骸であり、あるいは奇妙な音を発する耳障りな何かでしかなかったため、全貌を観測することは誰にも出来なくなっていた。
しかし、それでも「唇」を目の当たりにした者は数十年経った今でも変質した肉体と壊れていく精神の痛みと恐怖を忘れられず、今なお怯えて暮らしているのだ。
このような大きな傷跡を残すこととなった「唇」ですら、ガンドライドにおいては「人間の技術と知識で無力化が可能」という理由で脅威度の判定は平凡なものに過ぎない。
そう、ガンドライドは知っているのだ。
「唇」ですら裂け目の向こうではただの下等生物の一つに過ぎないことを。その先には、さらに恐ろしい怪物たちが蠢いていることを。
だがそれでもなお、ガンドライドは「毒を吐く裂け目」と対峙する。
「毒を吐く裂け目」と呼ばれるこの地獄は、夜の住人たちにとって苛酷極まりない戦場であると同時に、この世で最も美しい遊び場でもあるからだ。
とはいえ、ガンドライドの一員であるものの、たかしにとっては「毒を吐く裂け目」も「裂け目の怪物」もまったくもってどうでもいいことだった。
彼の現在の関心事といえば「あたけが弱い理由」だけであり、その解決方法の模索以外には興味が無かった。
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「伯父さん、能力の覚醒しない吸血鬼というものは存在するのですか?」
たかしは伯父さんに電話であたけの能力について相談をしていた。
たかしがどれだけ肉体的にぶっちぎりに強くなろうが、伯父さんに比べれば、知らないことわからないことそして出来ないことなどいくらでもあるのだ。
特にこれまでの人生の大半を人間として過ごしていた彼にとって、吸血鬼というのはまさに未知の領域であり、たかしの想像力が及ぶところではなかった。
「結論から言えば存在する、というのが答えになるな。お前のような半吸血鬼は別とすれば極めて稀なケースだが」
伯父さんは電話の向こうで何か考えながらそう答える。
「……たかし、念のために聞いておくが能力の覚醒しない吸血鬼というのはどういう存在を指すのかはわかっているか?」
「はい。生まれつきの吸血鬼の能力を持たず、牙が通常よりも発達しにくく、吸血衝動も弱いとされています」
「いや、少し違うぞ。持っていないわけではない、どれだけ弱くとも吸血鬼の特徴を失うことはないんだ。筋力強化や血液操作能力はどの吸血鬼も持っているし、牙だってそうさ。それがないならただの人間だ、つまり覚醒しないというのは……」
「吸血衝動に有無につきるということですか」
「ああ、その通りだ。吸血鬼の能力そのものが血液を媒介として発現するものがほとんどだからな」
「なるほど……」
たかしの中で何かもやもやとしたものが渦巻きはじめていた。
たかしはあたけに吸血鬼としての自覚を持たせ、
能力の覚醒を促す方法を知りたかった。
だが、結局のところ吸血鬼の能力が血を通じて発現するというならば、あたけにどんどん血を吸わせればよいのではないだろうか。
(いや、そもそもあいつは血を吸ったことがあるのだろうか?)
伯父さんはしばらく沈黙した後でたかしに問い掛ける。
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