第9話アパートの大家マチルダ(4)

 慌てて、マチルダはブラウスのボタンを外して、右肩を出した。

 すると肩には大きなコブが出来ていた。

 コブには皴があり、人の顔の様に見える。


「なんだい、気持ち悪いコブだね」


 すると、肩のコブがモゾモゾと動きはじめた。


「ひ、ひえぇ」


 驚いていると、なんと、そのコブが話し出したのだ。


『ああ、ほんとうにうるさいね。コブの一つや二つで驚くんじゃないよ』


「あ、あんたがしゃべったのかい」


『もちろんだよ。驚くことじゃないだろ。いい年して、こんなことで慌てて』


「しかしね、コブがしゃべるなんて……。いったい、わたしはどうしたんだい。頭がおかしくなったのか。いや夢だ。そうだ、まだわたしは夢の続きを見ているんだ……」


 そんなことをブツブツ言いながら自分の肩を見ていると、突然、アパート玄関のブザーが鳴った。


「ひえっ!」


「お母さん、また、アパートの住人が出て行ったんだって」


 大きな声が聞こえてきた。

 娘のキャサリンの声だ。


「なんだってあの子はまた戻って来たんだ」


『そりゃ、あんたの遺産を狙ってだよ』


「何言ってんだい」


『当たり前だろ。あんたのような嫌われ婆さん、誰もまともに相手なんてしないんだからね』


「なんだって!」


「お母さん、いないの? 入るわよ」


「と、とにかく、コブ、黙っていなよ。しゃべり出すコブなんて娘に見せられないからね」


『今さら娘に恰好をつけてもしょうがないだろ』


「うるさいコブだね。とにかく、口を出すんじゃないよ」


 慌ててマチルダはブラウスのボタンを閉じてて、膨れ上がったコブを隠すために入り口近くの赤いコートを羽織った。


 次の瞬間、部屋の扉が開く。


「お母さん! 呼び鈴を鳴らしても出ないから、勝手に入って来たわよ」


 そう言いながら入ってきたキャサリンが赤いコート姿のマチルダを見ると首をかしげる。


「こんなに朝早くからどこへ行くのよ」


『どこへ行こうが人の勝手だろ』


 右肩のコブが勝手に話し出した。慌ててマチルダは右肩をぎゅっと掴む。その様子を見ていたキャサリンが眉をひそめた。


「ん? お母さん、右肩がどうかした?」


「いや、何も言ってないよ。それにしても、どうして戻って来たんだい」


「戻って来た? 何言ってるのよ、それよりもまた住人が出て行ったって聞いたけど」


 マチルダは頭が真っ白になった。勝手にしゃべり出す右肩のコブに、さっきのことを全く覚えていない娘にどうしようかと混乱していたのだった。


「最後の住人がこのアパートから出て行ったって聞いたわよ」


 さっきと同じことを言い出す娘に、コブが言葉を返した。


『本当に金亡者だね。遺産が減ることが心配でここまで来たんだ。そうだろ!』


 マチルダは黙らすたびに、左手でむんずとコブを掴んだ。


「肩が痛いの? お母さん」


「い、いや……。そんなことないさ。それよりも、そんなところで立っていると寒いだろう。さあ、中に入りな」


「ああ、うん。そうする」


 キャサリンは母親のおかしな様子に困惑気味だったが、マチルダがテーブルに着くと、自分も向かいに腰を下ろした。


「で、用件はなんだい」


「あのね、このアパートをどうするのか聞きたいのよ。最後の住人が出て行って、ここを維持するのに大変でしょう」


 さきほどと違ってキャサリンは穏やかに話し出した。だが、コブが言った。


『ほらほら、娘はこのアパートを売り払いたいんだよ。大金が掛かるアパートを今のうちに手放したら、母親が死んだ後の遺産が減らなくていいからね』


 コブの口を塞ぐように、マチルダは右肩に手を置きながら、

「わかっているよ、そのことだね。そうだね……、うん、悪かったと思っているよ」


「え? 悪かった……? まさか、お母さんからそんな言葉が出るなんて」


 キャサリンは呆気にとられた様子でマチルダを見た。

 マチルダは肩をすくめる。


「だからね、息子家族や使用人たちに悪態をついたのも悪かった。すべて私が悪いんだ」


「本家の屋敷を追い出されたことね……。まぁ、お母さんが反省しているならいいんじゃない」


「これからは人様ひとさまのことには口出ししないよ。アパートに住んでくれる人にもね。さあ、これでいいだろう、キャサリン」


 マチルダは、どうにかコブのことがバレずに、キャサリンに早く帰って欲しくてさきほどから反省した言葉を続けていたのだった。

 そしてマチルダはキャサリンを見送るために席を立つが、キャサリンは席を立つどころか、ゆっくりと部屋の中を感慨深げに見ていたのだった。


「そうよね、こんなに良いアパートだもの。わたしも改装するのにあれだけ苦労したのだから、できるならお母さんにこのまま経営していてほしい」


「そうなのかい」


 マチルダは娘の言葉に驚き、また椅子に座り直した。


「うん、だってここは初めてお父さんが買ったお屋敷だもの。家族みんなで暮らしていた思い出の屋敷。やはり手放すのには抵抗があるわよ」


「そうかい……。そうだね」


 マチルダは久しぶりに娘と腹を割って話ができたような気がした。この屋敷での家族との思い出話に盛り上がり、アパートの住人をキャサリンが探してくると言ってくれたことに心強く感じた。


「ありがとうね」

「うん、お母さん、また来るから」

「ああ、待っているよ」


 アパートの前で、マチルダは娘のキャサリンを見送った。

 そして気がついた。いつしか、右肩のコブが消えていたことに。


「ふん、腹を割って話したら、コブが消えたってことかい。それとも私の口の悪さをしらしめるためのコブだったのかい。まぁ、どちらでもいいけどね。あの店主、いったい何者だったんだろうね……。もう二度とあんなコブ料理は食べたくないけどね」


 次の瞬間、右肩がむずむずして、マチルダは焦って肩を触った。

 だが、コブはなかった。


「ふん、なんだい。悪態をついても、もうコブは出てこないのかい」


 マチルダは笑みをこぼしながら、杖をつき、アパートに戻って行く。


「楽しい夢を見たと思っておこうじゃないか」




 おわり

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