第8話アパートの大家マチルダ(3)

「おばあちゃん、箸はつかえるかな?」

「え? なんだい」

「箸、箸だよ」


 よく見ればタレの入った器の隣には、箸もいっしょに置かれていた。


「ああ、知っているよ。旦那の仕事関係で、いろんな料理人を屋敷で雇ったことがあるからね。箸はこうして持つんだろ」


 マチルダは箸を持ち、右の指で挟むと、店主に見せた。


「おお、うまい、うまい。こっちの肉もうまいからはやく食べてよ。冷めちゃうよ。食感はてっちゃんに似ているから」


「てっちゃんって、なんだい」


「ホルモンの大腸だよ。よく似た食感だけど、こっちの方が柔らかいんだ。早く食べて、冷めたら脂でゴテゴテになるよ」


「ああ、わかったよ」


 マチルダは急かされるように、焼けた肉を一切れ挟む。


 じっと見てくる店主の視線に今更食べられないと言うのもしゃくで『もうどうにでもなれっ』と思いながら塩につけて口の中に入れた。


 こんな硬いもの、脂っこいもの食べられたものじゃない――、と文句と言ってやるつもりだった。


 だが、噛めば噛むほど口の中で脂身の甘みが広がる。


「どう? どう? おばあちゃん」


 ごっくんと飲み込んで、マチルダが言う。


「人が味わっているのに、うるさいね! すこしは静かに食べさせておくれよ。こんなにおいしい」

 そこまで言って、ニヤニヤと店主が笑っているのにマチルダが気づいた。


「ふん! まぁ、食べられないこともないね。ほら、さっさと次のお肉を持ってきな。もっと食べるからね」


「次は赤い部位だよ。これもコブの……」

「そんなうんちくはいいから、はやく焼きな」


 そうして、マチルダは満足するほど食べた。


「ああ、満腹だ」


「ちょうど夜が明けたよ、おばあちゃん」


 気が付けば、外は明るくなっていた。


「夜が明けたのかい。じゃ、あんた。ダントン家の子供たちに連絡を取って、使いの者をよこしてくれないか。代金も持ってこさせるからね」


「代金はいいから、おばあちゃん」


「何言ってんだい。こんな辺鄙へんぴな場所で儲けなんかでないだろう。それにね、また来てやるから、次はおばあちゃんって呼ぶんじゃないよ。わたしにはマチルダ・ダントンという名があるんだ」


「マチルダさん、あとは楽しんで」


 店主がカウンターの向こうで手を振る。


「はあ、何言ってるんだい。さっさと使いの者を……」


 カウンターに座ってマチルダは店主に言っていた。だが、気が付けば、いつしかアパートのロッキングチェアで座っていたのだった。


 朝の陽ざしがロッキングチェアに差し込み、眩しさに目をしょぼつかせるマチルダ。


「あれは全部夢かい。しかし、おかしな夢を見たようだ」


もぞもぞと右肩がむず痒くなってきた。

左手で右肩に触れてみると、小さなシコリのような膨らみがあった。


「こんなところになんだい」


 鏡の前で確かめるために、立ち上がろうと杖に手を伸ばしたときだ。

 突然、部屋の扉が開き、中年女性が入ってきた。


「お母さん! 呼び鈴を鳴らしても出ないから、勝手に入って来たわよ」


 そういいながら娘のキャサリンがズカズカと部屋に足を踏み入れる。


「うるさいね。朝からいったい何のようだい」


 鏡を見ようとしていたところに邪魔をされて、マチルダは不機嫌に応えた。

 すると、キャサリンも苛立ったように椅子を引いてドスンと座った。


「最後の住人がアパートから出て行ったって聞いたわよ。どうするのよ、ここの維持費を。お父さんの遺産を使い果たすつもりじゃないでしょうね」


「まったくなんだい。朝から金、金、金。そんなに金のことを言うってことは、旦那の仕事がうまい事いってないんだろう」


「話をそらさないでよ。今はお母さんの話をしているの。これほどお金のかかるアパートなんて、さっさと売り払えばいいのよ」


「いやだね。意地でも手放さないね。あの人が残してくれた建物でアパートを経営するのが夢だったんだよ。それをあんたは取り上げようというのかい」


「何言ってるのよ。お兄さんから本家の屋敷を追い出されて、大枚をはたいて、ここをアパートにしたんじゃない」


「いつまでも終わったことをグチグチと……」


「あのときは私まで引っ張り出されて、ほんとうに大変だったんだから」


「ああ、うるさい、うるさい」


 マチルダは両手で耳を塞ぐ真似をした。


「あんたは口ばっかり達者だから、旦那が浮気するんだよ。あんたみたいなうるさいおばさんより、若いメイドに手をつけるあんたの旦那のその気持ちが、よ――く、わかるよ」


 キャサリンがバンっと机をたたく。


「そんな話をしているんじゃないでしょ! 人が心配して、せっかくここまで来てあげてるのに、さっきからその言い草話はなんなのよ!」


「あんたが心配しているのは、遺産が減ることだろう」


「本当に口が減らないわね! わかった、もういい。勝手にすればいいでしょ、一文無しになっても誰も母さんのことを助けないからね。お兄さんにも言っておくから」


「お前たち子供の世話になんてならないよ」


「ああそう! 本当に可愛くないんだから!」


 捨てセリフを吐いて部屋から出て行ったキャサリンに、マチルダはホッとした。


「まったく、それどころじゃないんだよ」


 マチルダはキャサリンと会話中もずっと右肩が気になっていた。やっと帰ったかと思い、杖をついて立ち上がった。


 そうして鏡の前で立つ。

 鏡に映る右肩が随分膨らんでいるようだ。


「さっきよりも大きくなっているんじゃないか」


 触ってみてもシコリぐらいの大きさだったものが、今ではボコリと大きく膨れ上がっている。


 なんだか、むず痒くなってきた。


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