第6話アパートの大家マチルダ(1)

 老婆が街を歩いていた。彼女の名はマチルダ・ダントン。

 身に着けている物は赤いツバのある上質な帽子に、赤い高級ウールのコート。そして純銀製の杖をつかって少し腰の曲がった格好で道を歩いている。


 向こうの通りには建設中の建物があった。

 そこで働く作業員たちがマチルダのことを噂する。


「おい、あれを見ろよ、ダントン家の大奥様だぞ」


「今じゃ大奥様じゃなくて、ただの婆さんだろ。大商人とよばれた旦那様が亡くなってから、後を継いだ子供たちから屋敷を追い出されたそうじゃないか」


「ひどい子供たちだな」


 同情するように言った男に向かって、作業仲間たちが鼻で笑う。


「お前は最近ここへ来たばかりだから知らねぇだろうが、あの婆さんを知れば、どっちに問題があるか、すぐにわかるさ」


「そうだ、そうだ。旦那さんが生きていたころは、まだマシだったが、あの婆さんの性格じゃ、子供たちも面倒を見切れねぇってことさ」


「じゃ、あの婆さんはどうやって暮らしているんだい」


「旦那の遺産でアパートを経営し、家賃収入で悠々自適な生活だそうだ。トレードマークの赤い装いで、暇つぶしに散歩するのが日課なのさ。俺たちと違って、いいご身分なんだよ」


「おい、婆さんがこっちへ向かってくるぞ。仕事へ戻ろうぜ」


 大急ぎで現場に戻った男たちの背中に向かって、マチルダ・ダントンは杖を振り上げる。


「あんたたち! 人のうわさをする暇があったら、自分の仕事をしな! ったく、ほんとにろくでもない奴らばかりだ。なに見てんだい! 人の顔に何かついているのかい!」


 棒付きキャンディを持って、ポカンとマチルダを見上げていた小さな男の子に言うと、その迫力に子供が泣き出した。


「うぇぇーん」


 子供の隣にいた母親が、目を吊り上げてマチルダに言う。


「うちの子にそんな乱暴なことを言わないでください」


「ちょっと言われたぐらいで親子そろってギャーギャーうるさいね。そんなに自分の子供が大事なら、首に紐でもつけて家から出すんじゃないよ」


 むっとした母親が子供の手を握ると、怒ったように立ち去った。


「あんな母親に育てられたら、あの子も将来も大したことないね」


 街の人たちが、マチルダにチラリと視線を向ける。それを知って、マチルダは大きな声を出す。

「まったく、最近の親は自分の子供さえ、ろくにしつけも出来ないんだからね!」


「けっ、自分は子供から屋敷を追い出されたくせによ」


 建設現場の陰から、さきほどの作業員の一人がマチルダに言い放った。


「まだいたのかい! お前なんて、人のうわさ話しか出来ない能無しだろ。わたしの方がマシだよ」


「うるせ、くそばばぁ!」


「なんだい! 年寄りに向かってその口の利き方は!」


 マチルダは勢いよく杖を大きく振り上げた。だが、その勢いにバランスを崩して道に尻餅をついた。


「いたたたた」


 だが、街の人たちは誰もマチルダに手を差し伸べるどころか、声をかけることも、視線すら合わせることをしなかった。


「まったく、この街の連中ときたら誰も優しくないんだからね」


 しばらくして自分で立ち上がったマチルダは、ひょこひょこと杖を突きながらアパートに帰って行った。


 大きな屋敷が並んでいる一角に、マチルダが経営するアパートがある。

 元々、ここはダントン家の屋敷のひとつだったが、部屋ごとに設備を整えて、今ではアパートとして部屋を貸し出していた。

 手入れの行き届いた芝生の庭が夕陽色に染まり、アパートの建物から大きな荷物を運び出す青年がいた。


 住人のエリックだった。


 マチルダが杖をつきながら大声を出す。


「なんだい、その荷物は!」


 その声を聞いて、一瞬、エリックはマチルダの方に視線を向けたが、黙ったまま荷物を荷車に乗せていく。


「ちょっと、あんた! このアパートから出て行くつもりなのかい」


「ええ、そうですよ。もう、うんざりなんで」

 背を向けながらエリックが応えた。


「何がうんざりなんだい。こんなにいいアパートは他にはないよ。立地もいいし、設備は揃っている。それにね、あんたみたいな煙突の掃除人の仕事は、稼ぎが少ないんだろ。人様の煙突の中を掃除して、いつもすすだらけになって、みっともない仕事だけどね。まあ、それがあんたの仕事なのだからしょうがない」


 エリックは顔を引きつらせながらも、黙々と手を動かす。そんなエリックにマチルダは一方的に話しかけていた。


「あんたみたいな安月給でもここで住めるように、わたしは親切で家賃を安くしてやっているんだ。それにね、この場所がどれだけ便利かわかるだろう。この辺りの大きな屋敷に煙突の掃除人として通っているんだからね。それを出て行くなんて、大馬鹿ものだよ。ちょっと考えればわかるだろ」


 エリックは大きなため息をつくと、振り返り、マチルダを睨みつけた。


「そういうところですよ! アパートはいいですけれど、大家のあなたにうんざりなんだ。そりゃあなたは大きなアパートを経営しているお金持ちなのはわかっていますが、人の仕事を見下し、人のプライベートまで口を出してきて、もう我慢の限界ですよ」


「なんだって!? わたしがいつあんたのプライベートまで口を出したんだい?」


「酒を飲んで帰ってきたら口うるさく文句を言われる」


「わたしはね、あんたのためを思って言っているんだよ。たいした稼ぎもないくせに、ふらふら夜遅くまで酒を飲んでいるなんてバカのやることだからね」


「ええ、バカですよ。だから、こんなに立地が良く、安い家賃のアパートを出て行くんですよ。なぜなら、それ以上にあなたの顔をみるのはご免だからです。今日までの家賃と部屋のカギは、ロビーのテーブルの上に置いています」


「ああ、そうかい! じゃあ、さっさと出て行きな! お前みたいな貧乏人が出て行けば、わたしだって、せいせいするね。煙突の埃で床も汚れないからね。あんたが出て行って、わたしもせいせいするよ。ああ、嬉しい。なんていい日だ」


 エリックは、マチルダの言葉に振り返りもせず、荷車をひいて歩き出した。


 その背中をみて、マチルダは、

「なんだい! お世話になりましたの一言もないなんて、礼儀知らずだね!」


 そうしてマチルダはポツンと一人になったあと、建物に入った。


 広いロビーを通り抜け、一番手前の部屋のドアを開ける。


 ここがマチルダの住居にしているアパートの一室だった。

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