第2話 桜と悪夢
僕はしゃがみ込んで姉の肩を揺する。
「どうしたの! どうしたの姉さん! 姉さんっ!」
姉は僕の方を見た。さっきまでの笑顔はそのままに。
「うん、脚動かなくなっちゃった」
「なんだって!」
茫然とする僕。だが茫然としてなんかいられない。僕は姉の額に手を当てる。
焼ける様に熱い。
「脚っ、脚マッサージしようかっ? それと解熱剤っ」
「姉ちゃんもうお終いなんだね」
僕の全身が凍り付く。
「ばっばかなこと言うな!」
「いいの。これはもういいの。仕方ない事なの。姉ちゃんもう逝くからあとのことはよろしくね」
「よろしくなんかできるかっ! とにかく、とにかく病院に行こう、そうすれば何とか――」
僕は恐怖のあまり身体中がガクガク震えていた。何としても姉をこの病魔から救い出さねば。
突如桜の花びらがまるで桜吹雪のように舞いだし、姉の全身を覆い始めていた。
「姉さんっ? 姉さんっ! 姉さんっ!」
僕が姉を揺すると、まるで夢見心地な姉はほとんど桜の花びらに埋もれうっとりとした表情で僕に視線を向けた。
「姉ちゃんもう思い残すことは何にもないんだ。だから笑って見送って」
姉の全身が淡いピンク色をした桜の花びらで埋め尽くされた。僕が必死になって払っても払ってもまた新たな花びらが姉に降り掛かる。僕は恐怖を感じた。姉はこの美しい花びらに絞め殺されるのではないか。そんな気がした。僕は花びらをかき分けながら大声で叫ぶ。
「ばかやろうっ! そんなことできるかっ! さあ帰ろう! 帰って晩ご飯一緒に食べて、一緒にゲームしてテレビ観て、そのあと風呂の介助もするから! そしたらベッドに寝かせて一緒に話して! だからもうここで終わりだなんて言うな!」
「終わりなんだよ」
姉らしくない穏やかで優しい声だった。僕にはむしろそれが恐ろしかった。
いつの間にか淡いピンクの可憐な花びらたちは姉をみっちり包み込み、まるで巨大な繭の様な形になった。明らかに異様な光景だった。僕は恐怖で全身総毛立った。
すると一陣の風が吹きすさぶ。僕は倒れそうになりよろめく。桜の木からも大量の花びらが舞い散った。息ができなくなるほどだ。そして薄桃色の巨大な繭を覆っていた花びらも一枚一枚引き剥がされるように風に乗って吹き飛び、そしてそこには何も残されてはいなかった。姉の姿はまるで最初からなかったかのように。芝草の上には数枚の花びらが残されているだけ。僕はただ唖然としてそれを凝視していた。桜の花びらに運ばれて姉は逝ってしまった。そう言う事なのだろうか。
頭が混乱したままの僕は、風に乗って微かな声が僕の耳に届いたのに気づいた。
<ゆーくん>
「姉さん!」
<今日まで、ううん今の今までありがとうね。さっきも言ったけど姉ちゃんもう先に逝かなくちゃだから許して>
「いやだ! 先に逝くなんていやだ! 許さない! 戻って来いよ姉さん! 姉さんっ! もっと一緒にっ、ずっと一緒にいようっ!」
<せっかくのゆーくんのお願いでもこればっかりはだめなんだ。ごめんね。今までほんとにほんとにありがとう。姉ちゃんゆーくんといられて幸せだった。ゆーくんって弟がいたから姉ちゃん今まで頑張って生きてこれたんだ。ありがとう。姉ちゃん、ゆーくんの姉でほんとに幸せだった>
僕の胸は張り裂けそうだった。姉が逝くのは途轍もなく苦しいが、今ここで姉に僕の思いを伝えねば僕は一生後悔する。そう思った。思いのたけを叫ぶ。
「僕だって! 僕の方こそ本当にありがとう! 短かったけど…… とっても短かったけど! 悔しいくらい短かったけど! 今まで一緒にいられて幸せだった! 僕、姉さんの弟で本当によかった!」
<ありがとう。姉ちゃん、最期にこうして話せて嬉しかったよ。ゆーくんにいい事してもらえたしね>
涙を溢れさせている僕は苦笑いをした。
「だから、普通の姉弟はあんなことしちゃだめなんだぞ」
<最後くらいいいじゃん。とにかく姉ちゃん幸せだった。こんな弟をもって姉ちゃん本当に幸せ者だった。姉ちゃんは先に逝くけど、ゆーくんはゆっくりでいいんだぞ。姉ちゃん気長に待ってる>
「ああ」
僕は小さく微笑む。春風が涙の止まらない僕の頬を優しく撫でる。それはまるで姉の手の平のように暖かくて柔らかだった。
<じゃあもういかなくちゃ>
「ああ」
<最後に。姉ちゃんが逝く時はどうか気を確かに持ってね。ゆーくん意外と折れやすいから……>
「心配ご無用。こう見えて僕結構タフなんだ」
<ふふっ、どうだか。それと……>
「なに?」
僕は涙を流しながら笑顔で西の空に向かって問うた。
<ゆーくんだ――>
「――めでしょあんたもうこんな時間じゃないのーっ!一限遅刻するじゃなーいっ!」
「うわああああーっ!」
僕はベッドから叩き落とされて眼が覚めた。その小さなシングルベッドの上には鬼の形相で仁王立ちする姉の姿があった。どうやら僕は姉にベッドから蹴り落とされたらしい。
「あんた今日の一限落とせないって言ってたでしょ。何時だと思ってるのっ」
「あっしまった。寝坊したっ」
「今すぐ朝ごはん作るからその間に準備し――あれ? あんた泣いてたの? 顔ぐしゃぐしゃ」
「えっ、あっあれ?」
僕が顔を拭うと大量の涙が僕の手につく。
「どうした? 姉ちゃんが恋しくて泣いてたか。さっきまで一緒に寝てたのにさあ」
キャミソールにショートパンツの寝巻でへそを出したまま挑発的な事を言う姉。まあまだこの歳で極めて発育不全な胸なのであれだが。
「いや、なんか夢でも見てた気が……」
「へえ、どんな夢? 知りたい知りたい」
ワクワクした顔でにじり寄ってくる姉。
「いや、よく覚えてない。なんだろう。すごく大切なことだった気がするのに……」
僕は自分でもそれと気づかず唇に指で触れていた。
「ほお、夢の中でキスした、と」
にたっと笑う姉。僕はなぜか判らないけれど必要以上に慌てた。
「ばっか! そんなわけないだろっ!」
「へー」
まるでなんでも知っているかのようなニヤニヤ笑いを浮かべる姉と朝食を食べながら、僕は覚えのない唇の柔らかな感触にずっと戸惑うばかりだった。
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