現地調査依頼
外気温が観測史上最高を更新し続け、正午を過ぎたところで、外の温度計は37度を超えた。
職場内のエアコンは昨今の省エネ運動などがあり、設定温度が28度になっている。
額に汗をにじませながらパソコン作業をする
ここでは銀行の窓口でわからない業務の照会に回答することや、行員が不正な業務をしていないか実際に店舗に行き調査するモニタリングが主な業務である。
他にも講師を務めることもあり、ネットを繋げて講義をしたり、窓口からの要望で実際に現地へ赴くこともある。しかし、出張費は限られた年間の予算内で行わなければならないため、担当者は金銭的な部分まで頭に入れて実行可否を考える。
「はい、繰り返しになりますが、その手続きは47条の第2の注意点に沿って行っていただければよろしいです」
窓口からの照会に対して適切に回答しているのに、的外れな文句を次々に言われ、照会者の理解力に苛立ちを覚える。顔が熱くなっているのは、室温が高いだけではないと思う。
「またイライラしてるな
電話中の私に聞こえるように話しているのは、一つ上の先輩である
私が少し睨みをきかせると、いつものことだと思ったのか、両手を挙げて席を離れていく。
「あれ、山内君どこにいくの?」
「佐上係長。あぁいや、また雨堤に怒りをぶつけられてもしんどいなと思いまして。地下の資料室行っていいですかね?」
係長の
「佐上係長今日はブレスレットなんかしてどうしたんです?デートですか?」
山内先輩がニヤニヤと面白がって佐上係長に聞いている。
「そんなんじゃないわよ。でも、そういう縁に巡り合えるパワーもあるみたいよ」
そうですかあ、と興味無さげに山内は相槌をうって事務室を出て行った。
そんなやりとりを見ていると、電話口の相手が痺れを切らして電話を切ったようだ。右手で固定電話のフックを押し、確実に通話が切れたことを確認した後に、左手に持っている受話器を勢い良く置いた。
プラスチックで出来た受話器が大きな音をたてると佐上係長が少し困り顔になっているのが見えたので、事の経緯を説明することにした。
「またですよ!あの窓口の人は自分で根拠を探そうという気が無いんですかね?そのうえで間違っていたら、そっちの責任ですからねと責任転嫁までしてくる。ひどくないですか?」
もっと冷静に報告するはずだったが、受話器を置いた途端我慢していた怒りとやるせなさを爆発させてしまった。
「まぁ、あそこは昔から人に聞けばいいっていうスタンスで仕事してる人ばっかだからね。他のお店で使えなくなった人たちが異動させられているっていう噂も聞くし。ほら、あそこの店長なんて終業時間よりも勝手に早く帰ってたって問題になってた人だしさ」
佐上係長はこの会社に入って15年ほど経つベテランだ。色々なところを転勤しているらしく、内部情報にもかなり詳しい。
「でも、じゃあ仕方ないってことにはならないですよね?それなのに私たちより給料が良いんですよ?ボーナスだって倍以上違うって話じゃないですか。信じられないですよ」
私が気に食わないのは仕事に対する姿勢ではなくて、自分よりも仕事ができないくせに高給取りなことだ。
私がいるバックオフィス部門には営業手当がほとんど無いため、店舗で働く人たちよりも年収が低い。
銀行の給与はもっと右肩上がりに増えると期待していたのに、入行して3年経った今も初任給に毛が生えた程度の手取りだ。さらに、税金や付き合いなども年数を重ねるごとに増えていくので、実際には減っている感覚だ。
「そんなこと言ったって、雨堤さんだって店舗にいられなくなってここに来た口でしょ?前の職場の店長に歯向かっちゃったから」
子供をなだめる母親のような口調で、痛いところを突いてくる。
「でも、あれは確実に店長が悪いんですよ?後輩の女の子にセクハラしてたんですから!佐上係長も現場を見ていればきっと激怒しますよ。なのに、それを指摘したら
話しているうちに惨めな気持ちになってきてしまった。ハラスメントを指摘するのは正しいことのはずなのに、この会社では正義を煙たがるようだ。
ヒートアップしてしまった私の所に
「いやはや、今日も仕事に精が出ているね!ごくろうさま!」
名前どおり豪快な性格で大柄な所長が、元気に話しかけてくる。ここに配属になってから、トラブルの都度助けてもらっている。
「剛田所長からもここの店舗の人たちに言ってくださいよ!もっと自分たちで知識をつけないとお客様に怒られますよって」
頼れる存在だからこそ、ついつい無茶なお願いをしてしまう。入行してそこそこの若い女性の意見であったとしても、耳を貸してくれるのはありがたい。
「雨堤さんの言いたいこともよくわかる!でもね、うちはそういう人たちに難しい業務をわかりやすく、丁寧に伝えていく部署だからさ、もう少し気長に対応してもらえると嬉しいなあ。もちろん、私からも会議の時に注意しておくからさ!」
「剛田所長がそういうなら何も言えないじゃないですか。わかりました、せめて条文開くくらいの癖付けはしてほしいと伝えてください」
剛田所長の、些細な意見も一度受け止めて
「ところで、私に何か御用でしたか?」
剛田所長は何か厚みのある書類を持っている。
「いやあ、雨堤さんにこんなことを頼むのは忍びないんだがね。ちょっといいかね?」
先ほどまでの勢いとは打って変わって、少し言いづらそうにしている剛田所長を見て不思議に思った。
「剛田所長、あんまりコソコソ話をしているとまた誰かから報告されちゃいますよ」
「それは困るね。まぁ、少しの間だからさ」
佐上係長と剛田所長は以前店舗で一緒に働いていたそうだが、いつもどこか牽制し合っているようで、なんだか
※
剛田所長が私にお願いしたいことがあるが、内密に進めたいということなので地下の会議室へ移動した。
地下の会議室は普段は使われず、新入社員が銀行の窓口に実際につく前に、銀行のマニュアルやルールといったことを教えるために使われる。また、今まで外回りの営業にしか付いたことが無かった人が、配置転換で窓口の事務仕事につくという人に知識つけてもらうといった際に使用される。なので、すぐ隣には資料室が併設されている。
地下は人の通りが少なく、人事の話や秘密の話をする際に用いられることもある。
鉄でできた重い扉を開け、剛田所長が中に入り、重たい扉が勢いよく閉まらないように慎重に閉めた。
「それで、話というのは人事か何かの話ですか?」
剛田所長は年齢の割に毛量がある白髪頭を掻きながら、困ったような表情で話し始めた。
「本当はこういうの、問題を抱えたところで対処するのが筋なんだがね。ちょっと依頼してきた相手も曲者というか、なんというかね」
今日はなんだか珍しく、歯切れの悪い話し方をしてくる。
「なんです?もしかして私が元凶の何かですか?」
この銀行に入行して3年程経ったが、配属先ごとにトラブルを起こしている自覚があるので、いつその地雷が爆発してもおかしくないなと覚悟はしている。
「いやいや、元凶って言葉はちょっと違うんだが、いや違わなくないのかな。実は今日、
やはり地雷の一つが爆発したようだ。霧崎店長はここに来る前の上司で、ハラスメントの件を告発した人物だ。そして、私がここに配属となるきっかけになった上司でもある。
霧崎店長はいわゆるパワハラセクハラを何とも思っていない、性根の腐っている人間だ。
以前の職場で、霧崎店長のハラスメント行為を報告し、対応を本社に求めた。しかし、霧崎店長の元部下である本社の社員が、報告内容を過少に評価し、問題なしと決定づけた。
このことを知って、直接的に霧崎店長に食って掛かってしまったがために、部下からハラスメントを受けていると逆に本社報告され、私は霧崎店長の罠に引っ掛かり、現在の職場に異動させられることになってしまった。
「あの霧崎店長が?でもそれって、最初に対応した店舗がやる決まりですよね?」
銀行の業務は、基本的な部分は銀行法等の法律で定められており、そこから派生して、各銀行のマニュアルが存在する。しかし、定められていないことに関しては、銀行の本社に確認して指示を仰ぎ、対応するのが基本スタイルだ。
今回霧崎店長が依頼してきた、いわゆる架空口座の調査は、マニュアルこそあるが、誰がやる業務なのかということまでは決まっていない。そもそも架空口座がなぜ存在するのかというと、以前は口座開設をする際の銀行の確認が甘かったことが原因の一つとしてあげれる。昔は口座開設がノルマになっており、どこの銀行も必死になって口座開設をとってくる営業をしていたそうだ。そんな状況が続いて、いよいよ口座を開設してくれる顧客がいなくなると、飼い犬や飼い猫の名前で開設してもらったというのだから驚きだ。このように今ほど厳重に確認されていなかったため、架空口座なんてものが出てきて、それが犯罪に使われるから整備しろと本社が言ってきたりするのだ。
しかし、銀行窓口は年々人員削減を言余儀なくされており、業務量に見合っていない人員配置となっている店舗も少なくない。ということから、霧崎店長は銀行窓口のバックアップ部門である私たちに仕事を振ってきたと考えられる。
「確かに雨堤さんの言う通りなんだが、この業務については規定があるわけではなくて、あくまで慣例というか、今までそうやってきただけに過ぎない業務なんだよ。で、本来的に私たちの業務は、銀行窓口の業務を円滑に進めるのが主となるだろう?だからこの件をこっちで受け持ってやってくれという趣旨なんだ」
霧崎という男はどうしようもないハラスメント男であるが、こういう銀行業務の抜け穴を探して、楽に仕事をする天才である。
「ちなみに、まだやるって返事したわけじゃないんですよね?」
おそるおそる剛田所長に確認をする。まだ承諾していないのであれば、佐上係長や山内先輩と相談して、仕事を突っ返す案を絞ろうと思う。
「いやあ……電話口で高圧的に言われたってのもあって……すまん!」
剛田所長は拝み手になってこちらに頭を下げている。残念ながら引き受けざるを得ない状況だ。
「はぁ……あの店長の言い方なら剛田所長も断るの厳しいですよね。それに、きっと私が配属先で元気にやっていることを知って、面白くなかったとか、そんな私情も含んでいる気がします」
剛田所長はうまい返事が思いつかないのか、私の言葉にずっと下を向いてうなだれてしまっている。上からも下からも挟まれて、流石にかわいそうに思えてくる。
「もしそうなら、これは私の問題でもあるってことになりますからね。いいですよ、半分私の責任ってことで、この仕事引き受けさせていただきます」
しぶしぶ仕事を引き受けることにした。というより、そうするしかない。銀行員は割に合わない仕事じゃないのかと思う。
きっとこんな話が事務室内で広がったら、剛田所長は窓口の店長の言いなりだという、不名誉なレッテルを張られてしまうに違いない。話してくれたのが地下の会議室でよかった。
「本当にすまない!今回の件は雨堤さんにしか頼めないと思っていたが、引き受けてくれて助かるよ」
「これは1つ貸しですからね。今度美味しいランチでもおごってください」
「あぁ!それくらいならお安い御用さ!帰ってきたらなんでも好きなものを頼むといい」
だんだんと剛田所長はいつもの調子を戻してきたようだ。よほど霧崎店長に圧をかけられていたのだろう。今度何かの拍子で霧崎店長に会うことがあれば、文句の一つでも言ってやろう。
※
剛田所長が霧崎店長から頼まれた依頼を私が実行することになった。
「それで、具体的にはどこのなんていうところが問題になっているんですか?」
「連絡してきた内容によると、場所は
神社の口座開設は往々にしてかなり昔に作られている。加えて宗教法人であるため口座開設の方法が煩雑なため、慣れていない行員が開設を担当したとなると、いい加減に作っている可能性も大きい。それなら、架空口座になっていたとしても不思議ではない。
「聞いたことない村の名前ですね。神社の名前が異なるということですか?」
「そういうことだ、本当は鶴音神社ではなく、
剛田所長が持っていた資料に目を通して初めて村の名前と神社の名前の漢字を知った。特に神社の名前はなんだか当て字のようだ。
「神社の名前が正しくない可能性があるから、現地まで行って調査してこいということでいいですね」
「あぁ、どうにもネット上で検索してもヒットしないうえに、口座に登録の電話番号も使われていないそうなんだ」
小さな神社ならわざわざネットに乗せることもないだろうし、口座開設をしたのが何十年も前なら、電話番号がつかわれていなくともそう不思議ではない。
「だったらもう、現地調査しかないですね」
「運よく周囲にその神社のことを知っている人がいればいいんだが、なにぶん私もその村に行ったことがないものだから、勝手がわからないんだ」
「剛田所長でも知らないうちの管轄の村ってあるんですね。とんでもなく田舎そうですね」
「私もこの辺りは住んで長いんだが、自分が普段いかないところの地名というのはどうにも覚えるタイミングが無くてな。聞いたことがない気がするんだ。隣町の青雪町は何度か行ったことがあるんだが……」
「あの辺だったらここから3時間くらいですかね。泊まれるところも探さなきゃいけませんね」
「役場のホームページを見たら一軒だけ宿があるらしい。行く前に予約しないと泊まるのに隣町まで行かないといけなくなるからな。まぁどうせ、お金はうちの会社の経費だからな!」
剛田所長がそう言った直後、会議室の奥の資料室の扉が勢いよく開いた。
「あれ?お二人でどうしたんです?」
「山内君か!びっくりしたな!」
「山内先輩いるなら存在感出してくださいよ」
「えー、結構ガサガサやってたんだけどな。ってもしかして人事的なお話ですか?お邪魔なら退散しようかな……」
山内先輩はいつもと違う重々しい雰囲気を察知してか、この場から立ち去ろうとしている。
「いや!この件は山内君にも耳に入れておいてもらった方がいいかもしれないな」
「そうですね。私の今抱えている仕事を引き継いでもらわないといけないですし」
「え?なんです?あんまり難しいことは……ってか雨堤はどこかに出張なの?」
山内先輩は急な展開におどおどしてしまう。一つ上の先輩だが、要領が良い方ではないので、今も仕事は手一杯なのだろう。
「もちろん今雨堤さんが携わっている仕事を引き継いでもらうのもそうなんだが、現地に行って何か困ったことが出てくるかもしれないからな。私がいつでも動ける体制ならいいんだが、運悪く明日は遠方で会議があるんだ」
「そうですね。それは助かります。知らない村ですし一日の出張で終わればいいですが、見つからなかったり、有力な話が聞けなかったりしたら長引いてしまいますから」
「ちょ、ちょっと話かってに進めないでくださいよ。俺もやっている仕事があるし、なんなら佐上係長に引き継いだ方が良いんじゃないかなあ……」
「佐上係長も出入りが激しいじゃないですか。それに比べて山内先輩は、今月特に外出の予定入っていなかった気がしますけどね?」
「いやあ、まぁそうなんだけどねえ。はぁ、わかりました。でも、やっている仕事内容は佐上係長にも伝えた方が良いんじゃないですかね?不審がりませんか?」
「すまないが、このことは内密にお願いしたいんだ……」
山内先輩が言うことはもっともなのだが、仲が良くない?相手に弱みを握られるのは避けたいのだろう。
剛田所長と私が地下の会議室で話していた内容を山内先輩にも伝えると、しぶしぶ納得した。それから意外なことに、村の名前に少し覚えがあるようだった。
「たぶんですけど、去年その村で土砂崩れの事故が起きたとかなんとかニュースで見た気がするんですよね。ほら、今よく聞く線状降水帯が急にできて、その影響で」
「山内先輩よく覚えてましたね去年のことなのに」
「ほらちょっと珍しいじゃないか、三文字の村の名前ってさ?但馬汐なんて。それにまだここに配属になってから日が浅いから、ちょっとでも土地の名前覚えようって思っててさ」
後半の方は少し自慢のように聞こえる話し方だ。だが剛田所長はそこをしっかりと汲み取る。
「ほう!偉いじゃないか山内君!日ごろから研鑽する努力は評価したいね!」
山内先輩はまんざらでもない顔で照れている。剛田所長は人を乗せるのが本当に上手だ。
「それじゃあ!申し訳ないけれど、雨堤さんには現地調査をお願いして、山内君にはそのバックアップと、仕事の引継ぎを頼むよ」
「わかりました。少しその村と神社の口座について調べてから行きたいので、明日の午前中には出発できるように調整して動きます」
「わかった。調べた内容については山内君にも共有しておいてくれ。もし何かあれば私にも連絡してほしい、すぐには動けないかもしれないが、対策を練ることはできるだろうからな」
「ありがとうございます」
三人は地下の会議室を出て、それぞれの仕事に戻った。
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