第30話

 王一郎は絶句した。その場にいた全員が絶句した。

「……あーあー」

 王一郎から介抱され、かき乱された髪を治しながら、瓜子は他人事のように言った。

「ずーっと黙ってたのにな。もうすぐ髪じゃ隠せなくなるところだったから、どの道だったかもしれないけどさ」

 桃太は驚愕しつつも、どこか納得するようなものを感じていた。

 この村に越して来たその日、川原で出会ったその時から、瓜子には自身の頭部を気にするように触る癖があった。人魚の涙を飲んで片目を治療した時も、目的を完遂した悦びのようなものは感じられなかった。おそらく瓜子は鬼になって行く自分を感じ取り、それを恐れるがあまり人魚を追い求めていたのだ。

 十兵衛は言っていた。周囲からの悪意や憎悪がその人間の内部に蓄積し、それによって人は鬼へと変えられると。この村で瓜子程多くの人の悪意に晒される人間はいなかった。瓜子はいつもぴんぴんしたように笑っていたが、内心では多くの悲しみを抱え込んでいたに違いなかった。

「……娘よ。なんということだ……」

 王一郎は愕然とした様子で視線を落とし、歯を噛みしめながら肩を震わせた。

「いやお父さん。そんな深刻になんないで欲しいなって」

 瓜子は言う。

「だってさ。ここに人魚がいるでしょ? 鬼化って人間にとっての病気なんでしょ? だったら人魚の涙を使えばわたし完全な人間に戻れるんじゃなあい?」

「……戻れる可能性はあるだろうな。人魚の涙を毎日少しずつ、何か月も何年もかけて接種し続ければ」

 王一郎は視線を俯けた。

「鬼化とは複雑怪奇な病だ。人魚の涙を用いても一時押しとどめることしかできん。だがそうやって進行を防いでいる最中に、多くの人々から適切な愛情を受け幸福を実感し続ければ、やがて鬼化は停止し頭部の角が引っ込んでいくということはあり得る」

「そ、そうだっ。瓜子は人間に戻れるはずだ」

 桃太は強く訴えた。

「父さん! 父さんなら何とかできるんじゃない?」

「……人魚の涙は俺の最大の研究テーマだ。どうにかしようではないか」

 父・文明は言う。

「東京に再就職先を求めた後も、俺は輝彦殿から人魚の涙を輸送してもらい、それを用いて万能薬の開発に努めるつもりだった。それを開発し学会に発表すれば、医者としての俺の地位は上昇し以前の職場にも戻れるはずだった」

 文明は王一郎の方を向いた。

「因准尉よ。利害は一致している。俺に人魚を預けて見ないか?」

「聡明な軍医殿のお言葉とは思えないな」

 王一郎は瓜子に近付き、そして刀を構えた。

「娘よ。我はおまえの父として……。いや。かけてやれる言葉などない」

「お父さん。何を……」

「せめて安らかに、人である内に眠れ」

 王一郎の刃が瓜子の心臓を貫いた。

 桃太は今日一番強く驚愕した。瓜子の心臓に王一郎の刀が貫通した状態で突き刺さっていた。娘を刺したショックに、王一郎がたまらずと言った様子で刃を手放すと、突き刺さったままの日本刀が瓜子の胸で揺れた。

「お父……さん?」

 自分の胸から露出した父の刃を見て、瓜子は信じられないような表情を浮かべ、そして血を吐いた。

「なんで?」

 瓜子の肉体は真正面から倒れ伏す。背中から生えた王一郎の刃を中心に、夥しい血液が瓜子の全身を染め上げていた。

「う、瓜子っ!」

 焦燥で桃太は瓜子に取りすがった。「瓜子っ、瓜子っ」と泣き叫びながら体を抱いてみるが、瓜子の華奢な全身からは血と体温が失われるばかりで一向に返事をしそうにない。心臓を貫かれて絶命して行く親友の姿を、桃太は涙を流しながらただ見詰めることしかできなかった。

 桃太は絶望した。瓜子はもう二度と自分の前で笑わない。自分の手を握らないし自分と言葉を交わすことはない。その命と存在は永久にこの世から失われ、桃太の前に戻ることは二度とないのだ。

「……鬼だな」

 言ったのは、地下室の奥の牢の中で、事態を見守っていた十兵衛だった。

「その子に鬼化が始まっているのは気配でなんとなく分かったが……だとしても娘を殺すか? 普通?」

「そうだ因准尉! 何を考えている! その子を助ける方法はあったはずだろう!」

 文明が叫んだ。王一郎は視線をかつての上官から反らしながら、様々な感情を堪えるような声でこう言った。

「娘を鬼にする訳にはいかない。ここで死ぬのと鬼として生きるのと、どちらが瓜子にとって幸福だったのかは我には分からぬ。……しかし我は宿命の討魔師なのだ。これまでも、そしてこの瞬間も」

「だから、助けられただろうと言っているんだ! 人魚の涙を使い、時間をかけてでも治療をすれば!」

「それができるならどんなに良かったことか!」

 王一郎は、誰よりもその心が引き裂かれつつあるのが分かるかのような、悲痛の叫びをあげた。

「海神は人間が人魚を捕らえていることを察していた! 人魚を捕え続ければ、海神の逆鱗に触れることになっただろう! そうなればこの村はもう終わりだ! 討魔師としての宿命を捨て、村を守る責務を放棄して、娘一人を救うことが何故できよう!」

 血の涙を流さんばかりのその声に、誰も口を挟むことができなかった。王一郎は自分の刀の突きささった瓜子を見詰めた後、その場にしゃがみ込みたいのを堪えるかのように背を向けた。

「最早この子は我を父とは認めぬだろう。ただ我の行いへの不理解と、憎悪の念で一杯だろう。化けて出るのなら、霊となって我を取り殺すのなら、そうするが良い。そうしてもらえた方がどれだけ楽か」

 刀を引き抜くこともせず、王一郎はその場で呆然と事態を見守っていた人魚を寝袋に詰め直し、それを担いで地下室の出口へ向かい始めた。そして扉を開けて外に出て、おそらくは海神のところへ向けて、桃太の前から消えていった。

「……娘を手に掛けるというのに、なんという決断の早い男だ。それが正しいことなのだとしても、俺は奴のことが理解できない」

 文明は恐れを成したかのように言った。

「だがさしもの『首狩り』も、自分の娘の首を跳ねる気にはならなかったようだな。心臓を貫いて殺したのはその為か」

 瓜子を抱きしめ続ける桃太に近付き、文明は慰めるような声を出した。

「桃太。お友達は丁寧に埋葬しよう。父親に殺されたその哀れな娘っ子の葬式を、俺達で盛大に上げてやろう」

「父さん……ぼくは……」

 王一郎が憎い。そう思った。彼のやることの全てが間違っているとは思わないが、それでも自分から瓜子を奪ったという事実は桃太に激しい憎しみを齎した。

 本当は分かっている。今もっとも悲しみに心をひび割れさせているのは、娘を手に掛けざるを得なかった王一郎の方だろう。しかしだとすれば王一郎は、討魔師の立場も村のことも金繰り捨てて、父親として娘を守る選択をすれば良かったのではないか?

 それが出来ないというのなら、それが職責であり大人であるということなのなら、桃太は大人になんてなりたくない。ただ瓜子と野山を駆け巡り笑いあった子供時代を、永遠に生き続けていたかった。それを奪ったのが王一郎という大人なのなら、桃太はそれを心の底から軽蔑し憎悪した。

 ……その時だった。

 瓜子の身体がもぞもぞと動き出した。

 桃太は最初、何が起こっているのか分からなかった。桃太の腕の中で震えるように動き出した瓜子は、捻じ曲げていた首を据えて、そのまつ毛の長い大きな目を開ける。そして桃太の方を見て、血まみれになった顔で言った。

「……泣いてるの?」

 驚愕と共に訪れたのは歓喜だった。瓜子は自分の胸に王一郎の刀が刺さりっぱなしなのを確認すると、「お父さんのだ」と悲し気な声で言ってから、それを引き抜こうと手を振れた。

「い……痛い。ぬ、抜こうとすると痛い」

「待てっ。下手なことをするな」

 文明が駆け寄り、そして傷口を診察するように注視する。

「……おかしい。確かに心臓を貫いている。だというのにこうして生きて、喋れるというのは理屈に合わない。医学を超えている」

「生きてるんだから何でも良いじゃん!」

 両手をあげてそう言い放つと、瓜子はその場を立ち上がって尚も刀を引き抜こうとし始める。

「待てっ。どう考えても刃の方から押すのは非効率的だ! 束の方を持って引き抜いた方が良い。手伝え桃太」

「え、でも父さん。こういう時刺さってるものを抜くのは血が出て危険なんじゃ……」

「最早そういう次元の話ではない! 良いから手伝え!」

 父の声に従い、桃太は瓜子の背中から刃を引き抜いた。

 自由の身になった瓜子は、血まみれになった白いワンピースをめくりあげ、傷口の状態を文明に見せた。血塗れの白い肌を診察し終えた文明は、「……塞がっている」と信じがたいものを見たようなように声を震わせた。

「やったーっ。お父さんに殺されたと思ったけど、生きてるーっ!」

 屈託のない、満面の笑みを浮かべて、瓜子は両手をあげてはしゃぎ回った。

「き、貴様驚かんのか? どう考えても貴様は死んでいたというのに」

「そりゃ不思議に決まってるよ。でも自分が生きてたのと比べたら、そんなのどうでも良いもんねっ」

 いつもの瓜子だった。「やったやった」と桃太の両手を握って飛び跳ねる瓜子に、桃太は先程とは別の涙を流していた。瓜子が生きかえって本当に良かった。それだけで世界は暖かく明かる色合いを取り戻し、全身は幸福に打ち震えた。

「きっと人魚の涙の効果だよ」

 桃太は言った。

「死にかけのぼくを蘇生させたのも、その人魚の涙なんだよね? 瓜子はここに来る直前、人魚の涙を摂取していたんだ。その効果がきっと残っていたんだよ」

「……確かに。人魚の涙を摂取した者は、あらゆる外傷が治癒するが……」

 文明は眉をひそめた。

「摂取した時の外傷を治すだけでなく、摂取後当分の間外傷に対し無敵となるような効果さえ、人魚の涙は持っているらしい。妖怪の持つ力というのは本当にすさまじいものがあるな。しかし王一郎もらしくない。人魚の涙の効力を侮っていたか」

 その通りだった。王一郎は瓜子が人魚の涙を飲んだことを知っていたはずだ。であれば瓜子を殺害しようとしても蘇生する可能性には思い至ってもおかしくないはずで、そこは妖怪に対して深い知識を持つ討魔師らしからぬ失態と言える。

「まあ言ってもあの人、結構おっちょこちょいだから。戦時中にゲリラの拷問にあってばかになったの。昔は賢かったそうなのにね」

 瓜子は言う。「いいや」とそこで文明が首を横に振った。

「不覚を取りやすいのは軍隊にいた時からそうだったぞ? 勇猛さと剣の腕は誰からも認められていたが、良く寝坊などして上官にぶん殴られていた。一騎当千の実力を持ちながらゲリラに捕まったのはその為だ」

「……というかわたし。お父さんに殺されかけたんだよね」

 そこで瓜子は暗い表情を浮かべて俯いた。

「どうして殺そうとしたのかは理解できるよ。大嫌いな妖怪にわたしがなるのが嫌だったんだね。それは分かるけど……でも、それでもわたし、とっても悲しいな」

 言いながら、瓜子は自分の顔に両手をやりながらぼたぼたと涙を流し始めた。父に命を奪われかけた、いや一度は奪われたのだという事実を改めて実感したものらしかった。そんな瓜子が哀れで仕方なくなり、桃太はその肉体を強く抱きしめた。

 しばらくそうしていて……桃太はふと、今しかできないことがあることを思い出した。

 桃太は瓜子の肩を抱きながら立ち上がると、父親の方を向いて言った。

「……ねえ父さん。ここへはどうやって来たの?」

「なんだ桃太? ……家の車だが? 夜中に突然輝彦殿から、人魚を因から取り返すから一緒に来いと言われてな。それぞれの車でこの地下室の前まで来たのだ」

「そうか。じゃあ……王一郎さんをそれで追い掛けることはできるね?」

「なんだと?」

 文明は目を見開いた。

「今から因を追いかけて……どうするというのだ?」

「人魚を取り返すんだ」

 桃太は言う。王一郎は息を飲み込んだ。

「……ぼくは元々、父さんを海神に処刑させない為に、人魚を海神に返すつもりでいた。でも、もう事情は変わった。ぼくは瓜子を人間に留める為に、今から人魚を奪いに行きたい」

「身勝手な。あの『鬼狩り』から人魚を奪い返すだと? 無茶を言うな」

「でもね父さん。人魚がないと困るのは父さんも一緒でしょう? 人魚を研究して万能薬を作り出せれば、その研究結果を引っ提げて元いた病院に戻れるんでしょう? その為に人魚を取り返したくはない?」

「しかし……」

「父さん頼む。ぼくは瓜子が好きなんだ。好きな女の子を助ける為に、父さんの力を借りなくちゃいけない。お願い!」

 そう言って深く頭を下げる桃太を、文明はじっと見詰め続ける。

 瓜子はぱちくりと桃太を見詰めていた。眉間に皺を寄せる文明は、ふと優しい表情を作ると、桃太の頭に手をやってこう口にした。

「分かった。男になれ、桃太」

 言って、床に転がっていた王一郎の愛刀、『首狩泡影』を桃太に手渡す。

「これはおまえが持ちなさい。因に教わって、少しは強くなったんだろう? いざとなったら、これを持ち主に突きさしてやれ」

「ありがとう。父さん」

 父から刀と心意気を受け取った桃太は、決意を込めた声でそう返事をした。

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