第2話

 水流の中を無茶苦茶に流されていると、思い起こされる記憶がある。

 実は桃太は六歳の時、一度この村に来たことがあった。戦時中軍医だった父が当時世話になったかつての連隊長であった元大佐と会う為に、家族ぐるみで訪れたのだ。

 この村は西を山脈に、東を大海に挟まれ、その隙間にある僅かな平地を、どうにか開拓して成り立っている。父が元大隊長との面会を終えた後、一家は村の東にある砂浜へと海水浴へ出かけていた。

 その日は風も弱く波は低かった。しかし母親が目を離した隙に、小さな桃太は突如現れた高波に襲われて海へと引きずり込まれた。凪の海から突如として現れた高波はまるで妖魔が伸ばした巨大な手の平のようだった。

 村の山奥に妖がいるのなら海の底に妖魔が潜んでいてもおかしくはない。海坊主か何かが悪さをしたのかもしれない。その高波は一瞬の出来事で桃太を引き込んだ直後には海は静けさを取り戻していたから、両親のどちらも桃太が攫われたことに気付かなかった。

 海の底で桃太は一人もがき苦しんだ。

 六歳ながら桃太には水泳の心得があったが、体をどれだけバタつかせても海面へと浮上することは叶わなかった。何か見えざる力が働いて、桃太の全身を海底へ海底へと誘っているかのように感じられた。桃太は絶望的な気持ちのまま、小さな肺の中の空気をすべて吐き切って、意識を混濁させていった。

 そんな桃太を救ったのは一匹の人魚だった。

 美しい人魚だった。十五歳前後の娘のような姿をした上半身に、深い緑色の魚の下半身を持っていた。海の中でその顔を凝視することは叶わなかったが、サファイアのような色をした澄んだ目をしていることと、艶やかな金色の髪が水中で豊かに靡いていたのは記憶していた。

 人魚の白い腕が桃太の身体を絡み取り抱き留めた。人魚の細い首の根本でくっきりと浮かび上がる肩甲骨と、その下にある豊かな二対の乳房が桃太の顔に触れた。

 やがて桃太は人魚によって海面へと運ばれ砂浜の上へと横たえられた。桃太が水を吐き切る前に人魚は逃げるようにして海へと戻り、深い水中へと潜って姿を消した。

 意識の混濁を振り払いどうにか体を起こした時、両親は未だにビーチに腰を下ろして桃太のいない方に視線をやっていた。桃太が波に攫われたことも、人魚に助けられたことも、どうやら一瞬の出来事だったようで、両親は一切目撃していないようだった。

 桃太がその時のことを両親に話したことはない。

 それは人魚が望まないような気がしたからだった。




「ねぇ」

 桃太が微かに目を開くと眩い青空が視界に広がっていた。雲はほとんどなく、ただ透き通るような空色が、木々に取り囲まれた視界の中央に現れていた。全身は濡れそぼって冷たく、あちこちに出来た痣から耐えず鈍痛が響いていた。

「ねぇってば。おうい。大丈夫?」

 その声によって覚醒を確かなものとした桃太が身体を起こすと、目の前にはずぶぬれの少女が、大きな瞳でまじまじと桃太を見詰めていた。先程川原でビー玉遊びに興じていた、満作達に瓜子と呼ばれていた少女だった。

 少女の瞳は桃太の眼前のおよそ十数センチの位置にあり、川の水に濡れた少女の髪の香りが桃太の鼻腔を擽った。ずぶぬれになったワンピースは少女の身体に張り付いて、その華奢な肉体を露わにしている。上半身に下着は付けていないらしく、微かな膨らみを示す乳房とその先にある薄桃色の突起までもが浮かんでいた。しかしそれを見られることへの羞恥や関心は少女には見られなかった。

「気が付いた? あなた傷だらけで流されていたんだよ?」

 どうやら自分は少女に助けられたらしかった。桃太は思わずかつて人魚に助けられた時の記憶を想起した。目の前の少女は黒い髪と目と人間の脚を持っていたが、その美しさと神秘性は人魚に劣らないようにも思われた。

「待ってて。今火を起こすから」

 少女は川原の傍にある林の茂みから藁や小枝を集め、手際良く岩の囲いを作ってその中に次々と放り込んで行った。そして岩の上に置かれていた銀色のライターで火を付ける。

 ものの数分で焚火を起こした後、少女は服を脱いで引き絞り、近くの岩へと引っ掛けて乾かし始めた。ショーツを一枚残して裸になった少女の肌は白く輝いていて、薄い肉付きの中に滑らかな体の線は艶めかしかった。その屈託のない脱衣っぷりに桃太は思わず動揺し目を伏せた。

「ほら。あなたも脱いで。風邪ひくよ」

 裸になるのは恥ずかしかったが、少女があまりにもあっけらかんと肌を晒しているのを見ると、自分一人臆しているのは情けなく無礼であることのように思われた。状況に寄らず男女が肌を見せ合うのは忌避すべきという、桃太が備えた薄っぺらな常識を、少女はその堂々たる振る舞いによりあっさりと破壊してのけた。

 桃太は服を脱ぎ、ブリーフ一枚を残して裸になる。そして少女に習って向かいで火に当たりながら、村に来て初めて味わった他者からの善意に対し心からの礼を述べた。

「助けてくれて、本当にありがとう」

「誰にやられたの?」

「えっと……満作とか、京弥とか宗隆とか」

「さっきわたしの前で転んでたのも、あいつらの差し金?」

「そうなんだ。君のことを殴って来いって言われて突き飛ばされて。できないって言ったら酷いリンチにあった」

「そっか。ありがとう」

「え?」

「殴んないでくれて」

「い、いや。そんなのは当然のことだし……」

「あいつら、よそ者が村に来た時は、まず因縁を付けていじめるんだよ。洗礼のつもりなんだと思う。でもずっと続く訳じゃないから安心して。色々試練とか言われるけどテキトウに付き合ってやれば大丈夫だから。どうしても困るようなら、わたしに相談して。あいつらに意見してあげるもんね」

 少女の態度は明朗で言動には善意があり、容姿には人を強く引き付ける魅力が備わっていた。何故こんな少女が満作らに『アイツには何をしても良い』と言われるような立場にあるのか、桃太には不思議でならなかった。

「わたしは瓜子。因瓜子(ちなみうりこ)。あなたは?」

「鬼久保桃太。今日からこの村に越して来たんだ」

「何年?」

「小学校の、六年生」

「じゃ、わたしと一緒だ。よろしくね」

 そう言って少女は無邪気に片手を伸ばしてくる。求められるままに握手をすると、少女は花が咲くような笑みを顔一杯に広げて見せた。

 思わず、ドキリとする。

「桃太はどこから来たの?」

「東京」

「お家は何やってるの?」

「医者だよ。父さんが医者で、母さんが看護士」

「お父さん、戦争には行った?」

「行ったよ。少佐だったんだ」

「え? すごっ」

 瓜子は口元に手を当てて驚きを表現した。

 第二次世界大戦は桃太達が生まれる頃既に終結した後だったが、親世代は皆戦争を経験しており、父親達の多くは出兵し軍隊生活を送っていた。

 父が少佐になれたのは医師大学校を卒業した軍医であることがすべてだった。大学を出た軍医は通常中尉として入隊し、年功によって昇進していく。少佐は入隊時の二つ上の階級にあたり、優秀でさえあれば昇進は十分に可能な序列だった。

「わたしのお父さんも結構凄くて昔は准尉だったって。今は村の討魔師やっててさ、皆から尊敬されてるんだよ。ナムールにいた時ゲリラの捕虜になって拷問されて、アタマがばかになったからちょっと変わってるけど、でも面白いし優しいからわたし大好きだよ」

 あっけらかんと語る瓜子に、桃太は上手く表情を作ることが出来なかった。

「そ、そっか……。でも良いことだよね。お父さんが大好きだなんて」

「桃太は、お父さん好きじゃないの?」

「え? ああいや、好きだよ。尊敬してるし、言うことは何でも聞くよ」

「……? 何それ。変なの」

 瓜子が起こした焚火は藁や小枝を焼きながらバチバチと音を立てていた。風が通り過ぎる度にしなる木々が豊かな音を立てる。静かな森からは鳥の鳴き声が断続的に響いていた。一定に流れる川の音の合間に、しばしば石や小枝が山から転げ落ち着水する音が混ざった。

 瓜子はそれきり沈黙し静かに掌を焚火にかざしていた。全裸で唇を結び澄んだ瞳で火炎を見詰めるその様子は見れば見る程に美しかった。思わず瓜子に見惚れる桃太の頬の紅潮は、真っ赤な焚火の前にいなければ簡単に見咎められる程だった。

「わぁっ」

 言いながら、瓜子は唐突に己の左目に手をやった。そして桃太が注目したのを見て取ると、何かを掴み取るような指の動きをしてから顔から手を話した。

 瓜子の左の眼窩から眼球が零れ落ち、砂利の上へと転がった。

「目玉が取れちゃったっ」

 桃太は仰天して「うわっ!」と叫んだ。転げ落ちた眼球は本物にしか見えず、生白い球体の中央で黒々とした瞳が桃太の方を睨んでいた。思わず瓜子の方を見るとその左の眼窩は開いていて、眼球があるはずの空間には暗い闇だけがぽっかりと広がっていた。

「きゃははははっ」

 言いながら、瓜子は砂利に堕ちた眼球を拾い上げ、川まで歩いて軽く水に浸して洗ってから、眼窩の中へと戻した。

「どう? びっくりした?」

「……ぎ、義眼なの?」

「そ。村民会の奴らにくり抜かれたの。酷いよね。痛かったよ」

 瓜子は義眼の具合を確かめるように黒目を動かして見せる。顔の筋肉の力によりその義眼は左右になら幾ばくか動かせるらしかった。

「な、なんでそんなことされたの?」

「んー? ……色々あって。また今度話してあげる。ところでさ」

 瓜子はそう言うと、桃太の方をじっと見つめながらこう問いかけた。

「ワダツミノサナギって、桃太は知ってる?」

「ワダツミノサナギ?」

「海の神の蛹って書くの。海神の蛹。上半身が人で、下半身が魚の、海のお姫様なんだ」

 その特徴を聞いて、ピンときた桃太は目を見開いた。

「そ、それって人魚のこと?」

「そうとも言うね」

「だ、だったら!」

 桃太は思わず身を乗り出して言った。

「ぼく、知ってるよ。昔会ったことがある! 昔海で溺れていた時、助けられたんだ」

「本当っ?」

 瓜子は興奮した様子で桃太に顔を近づけた。

「わたしずーっと探してるんだ。海神の蛹にはどんな生き物のケガも病気も治療する力があるから、それがあればわたしのこの目も治るし、それにこの頭の……」

 言いながら、瓜子は自分の頭部に両手をやる。艶やかな頭髪の隙間にある何かを確認するようにしばらく撫でた後、桃太の視線に気づいたように手を降ろした。

「ねぇ、それって本当だよね? その時の話をしてっ? 良いでしょう?」

 桃太は頷いた。人魚のことを話すのは人生で初めてだった。それは桃太にとって大切な思い出であり、誰にも話さないことでこそそれは桃太一人だけの宝物の記憶になっていたが、瓜子に話すのに抵抗を感じることは不思議となかった。

「じゃあ六年前に桃太は、この村の海で人魚に助けられたんだね」

「そうなんだ」

「やっぱり海を探せばいるんだっ。会えるんだ!」

 握った拳同士を胸に押し当てながら、瓜子は嬉しそうな様子でその場を幾度も跳ね回った。焚火によって乾かされた髪が瓜子が跳ねる度に艶やかに揺れた。

「その海岸なら、わたし、知ってる。ねぇ桃太。今度さ、一緒に人魚を探しに行こうよ。桃太だって、自分を助けた人魚に会いたいんでしょう?」

 そう尋ねられると、桃太は大きく頷いた。

「もちろん」

 人魚に会いに行けるかもしれないことも嬉しかったが、それ以上に、散々だった村の生活の始まりに、こんな魅力的な少女と知り合え、約束を交わしたことが何よりも嬉しかった。

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