物の怪の時代の終わり
粘膜王女三世
河童の巻
第1話
砂利道を走る自動車に揺られながら、十二歳の桃太(ももた)は一人後部座席で瞼を下ろしていた。
川沿いの山道である。清涼な川の流れは真昼の太陽の光を跳ね返し虹色に輝いていた。移動する景色の中で、木々が実らせる葉が創り出す影が、桃太の頬に複雑なコントラストを描いている。
ふと、自動車がブレーキをかけ、その場で停車するのを、桃太は目を閉じたまま感じ取った。
「おい。桃太、おい」
父の声がする。
「起きろ」
いつまでも眠っていたかった。朝の四時に起こされてから、ずっとこの車に揺られっぱなしでいる。運転している父には及ばないだろうが、後部座席でただじっとしているだけというのも、これで案外疲れるものだ。
「おい桃太! 妖怪だぞ。見なくて良いのか!」
桃太はようやく重い瞼をこじ開けて、窓の方に視線をやった。
桃太達がいる場所から川を一本隔てた向こう側、川原に聳える大きな岩のいくつかに、数匹の人型が腰かけている。
河童がいた。
肌はほとんど黒のような深い藍色で、濡れそぼったその身に日光を浴びて、ぬらりと光っていた。背中一杯にウミガメのような大きな甲羅を背負っていて、長い腕と脚の先には水かきを帯びた手足があった。顔にはその下半分を覆い尽くすアヒルのようなクチバシが生え、糸のように細い目の上には、落武者のような縮れた頭髪の中央に白く大きな皿がはめ込まれている。
「本当に、ここって妖怪がいるんだ」
桃太は興味や関心よりも、恐怖の方が上回った声でそう呟いた。
「ド田舎だからな」
父は忌々し気な声で言った。
「妖は山奥に、人は街にそれぞれ住み生きるが、それらが交わる場所も中にはある。俺達がこれから住むのは、そんなどうしようもない場所にある、小さな村だ」
「本当に、そんなところに住めるのかしら」
助手席に座る母が憂いを帯びた声で言った。
「ほんの一、二年の辛抱だ」
父は吐き捨てるように言った。
「今に東京の病院に呼び戻されるよ。元々あそこは、俺がいたから回っていたようなものだからな」
「そうだと良いのだけれど」
母の溜息。ふと、窓から川原を眺めていた桃太の視線と、岩に腰かけていた河童の内の一匹の視線が交差した。ドキリとして、思わず目を伏せる。
自動車が珍しいのか、河童はやや腰を低くした、脚を大きく開いた独特の歩き方でこちらに近付いて来る。酷い猫背で、細く小さい瞳でこちらを見上げるようなその視線には、湿り気を帯びた卑小な敵愾心が滲んでいるかのようだ。
「気付かれたな」
父は舌打ちをして、アクセルを踏み込む。
桃太は遠ざかって行く車内からその一匹の河童を見詰め続けた。泳ぎもせずに、浅瀬で足を止めた河童の方もまた、いつまでも桃太の方をじっと睨み続けていた。
碌に道路も通っていない山奥の村を、田畑の合間を縫うようにして自動車は走る。
そして正午を少し回った頃に、目的地に到着した。
村に一つしかないというその病院は、そのまま桃太達の住居でもあった。看板に書かれている文字も、早晩『鬼久保病院』と書き直される手筈であるらしい。病院の建物自体は大きく、酷く煤けて錆び付いていることに目を瞑るなら、この村で見たすべての建物の中でも一二を争うほど立派と言えた。
自動車がよほど珍しいのか、桃太と同年代くらいの男児三人が、じっとこちらの方を睨むように見詰めている。その視線が粘ついた糸のように全身に絡んだような錯覚を、桃太は感じ取った。
「おい桃太。あそこの子供達に、挨拶をして来なさい」
父はそう言って、桃太に顎をしゃくった。
「この村の子供達なら、これから一緒に学校に通うことになる相手だ。ちゃんと挨拶をして、気に入られておいた方がおまえの為だ」
気は進まなかった。しかし桃太は父に逆らうということを知らなかった。
「……分かった」
そう言い残し、桃太は自動車の外に降りた。途端に、生乾きの粘土を踏みしめるかのような足元の感触と、生臭さと塩臭さとが混ざり合った強烈な大地の臭気が、桃太の全身を蹂躙する。
東京にいた頃には味わったことのない、それは田舎の臭いだった。
「気を付けてね。礼儀正しくしているのよ」
心配げな母の声に送り出されて、桃太は恐る恐る少年たちに近付いて行った。
三人の男児は珍しい虫を見るような視線で、歩み寄って来る桃太を観察している。そこに歓迎の様子はなく、興味と、そして嗜虐の気配とが混ざり合うかのようだった。
「は、はじめまして。こんにちは」
少年達に向けて、桃太は言った。
「ぼくは、鬼久保桃太。今日、この村に引っ越して来たんだ。君達は……」
「なあ。おまえ。生意気だよな」
少年達の内の一人、浅黒い肌によれて薄汚れたシャツと半ズボンを身に付けた少年が、鋭い声で桃太に言った。上背は非常に高く、百六十二センチと小学生としては長身の部類にある桃太より、拳半分大きかった。全身にははっきりとした筋肉の隆起が見て取れ、威圧感に満ちた瞳は残酷そうだった。
屈強そうなその少年は肩に大きなハンマーを担いでいた。黒い柄と赤い槌を持つ、一メートル近い大きさの工具用のものだ。この体格でその凶器を振り回せば、大人の手にも余りそうである。
「え、な、何が……」
「車だよ、車。あんなものに乗れるなんて、おまえんちは俺らと違って金持ちだ。気に入らねぇ」
確かに、桃太の父は医者で、家は金持ちだ。無論そんなことで生意気と呼ばれる筋合いはなかったが、桃太にはそれを口に出す勇気は持てなかった。
「何年?」
「……えっと。何のことかな?」
「学年だよ、学年。すっとろい奴だな。小学校、中学校?」
「しょ、小学校だよ。六年生だ」
「ふーん。なら、俺らと一緒だな。なら」
にやにやとした表情で、ハンマーを背負った少年は他の二人の少年に目配せをする。
「俺達の仲間になれるかテストしてやるよ。……付いて来い」
そう言って、ハンマーの少年は歩きはじめた。
それについて行こうとすると、他の二人の少年が桃太を怒鳴りつける。
「バッカ。おまえは最後だよ、最後」
桃太は思わず足を止め、最後尾に付ける。先頭を歩いているのを見るに、ハンマーの少年がリーダー格であることは明白だった。
道中の会話で、桃太は三人の名前をそれぞれ知ることが出来た。先頭を歩くハンマーの少年が満作(まんさく)、餓鬼のようにやせ細った背の低い二番手が京弥(きょうや)、関取のようにまるまるに太った三番手が宗隆(むねたか)というらしい。
「なあ桃太。おまえ、医者の子供なら勉強はできるのか」
満作は振り返りもせずに桃太に尋ねた。
「う、うん。得意だよ」
「得意っつっても、程度は色々あるだろ」
「東京の小学校では、いつも学年で一番だったよ」
桃太が通っていたのは入学に受験が必要な名門小学校で、周囲は医者や政治家の子供ばかりだった。いわゆるお坊ちゃんの集まりであり、誰も彼も線が細く、満作のような粗悪な攻撃性を身に着けた子供はそこにいなかった。
「ふん。勉強ばっかしてるから、そんな青白いもやしみたいな顔になるんだ。タッパも高いけど、俺程じゃねぇし。おまえ、自分のこと二枚目と思ってないだろうな? 違うぞ。おまえなんかただ女みたいになよっとして、虚弱なだけだ」
満作の言葉に、子分二人が下卑た声で笑う。謂れのない侮辱に、桃太はただ視線を泳がせて耐えるしかなかった。
やがて山際の林に入り、しばらく歩くと川原が見えて来た。桃太はふと先程の河童のことを思い出して身を震わせそうになる。しかしそこにいたのはおぞましい河童の姿ではなく、背を向けた白いワンピースの少女の姿だった。岩に腰かけて、向かいの岩でビー玉を転がしている。
「瓜子の奴、いつものように一人で、またあそこでビー玉で遊んでやがるぜ」
満作はそう言ってほくそ笑む。
「おい桃太。お坊ちゃんで都会モンでモヤシの、女の腐ったみてぇなぺえぺえの桃太」
「な、なんだよ……」
「あそこにいる白いワンピースの女が見えるか?」
「……見えるけど。それがどうしたの」
「今から行って、アイツを殴ってビー玉を奪って来い」
その要求に、桃太は思わず唖然として、目を見開いて困惑した。
「……なんて?」
「だから。あの女をぶん殴って、ビー玉を奪って来いって言ったんだ。聞こえなかったか?」
「どうしてそんなことを……」
「良いんだ。あいつには何をしたってかまわねぇから心配いらねぇ。上手くぶん殴って奪って来られたら、俺の子分にしてやる。おまえが望むんなら、ぶん殴った後で裸に剥いて、おっぱいをしゃぶって来たって良いんだぜ? もしそこまでできたら甲種合格で、いきなり幹部待遇だ」
「そんな酷いことできるもんか」
「良いからさっさと行って来い」
そう言われ、桃太は満作に勢いよく林から川原へ向けて突き飛ばされる。
足を縺れさせた桃太は思わず前のめりに数歩程進み、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。
少女からの距離は三メートルと言ったところか。うめき声を上げながらその場で身を起こす桃太に、岩に腰かけていた少女が振り向いた。
目が合う。そして息を飲み込んだ。
とてつもない美少女がそこにいたからだ。
とにかく目が大きかった。顔一杯に見開かれたかのような瞳は黒目がちで、豊かな潤みを帯びて宝石のように澄み輝いていた。鼻梁は小ぶりながらつんと尖がっていて、桜色の唇は薄くそれでいて健康的に膨らんでいる。
肌は白くきめ細やかで、形の良い小さな顔を覆う長い黒髪は、艶やかでありながら若干の広がりがあった。やや癖があるのかもしれない。ほっそりとした華奢な体から伸びる手足は長くしなやかだ。
ひしめき合うように人が溢れていた東京にも、こんな可愛い子は見たことはなかった。いや、勉強を頑張った後にだけ見せて貰える白黒テレビの向こうにも、これほどの美人はいないと確信が持てる。確率上、数万人に一人程完璧な顔の造形を持った人間が生まれて来るという話を聞いたことがあるが、もしかしたら彼女はその類かもしれない。別種の生き物であるかのように、その容姿の美しさは同年代のどの少女達とも隔絶している。
「どうしたの?」
鈴を転がすような声を、少女は発した。
「転んでるけど大丈夫? あなただあれ? 初めて見るね」
無邪気な表情。桃太への純粋な興味。そこには初対面の相手への警戒は備わっておらず、言い換えれば隙だらけだった。
体格もたくましいとは言えず、百四十センチがやっとという上背で肉付きも薄かった。東京の剣道場で散々身体を鍛えられた桃太が負ける心配はないだろう。意を決した桃太が少女に襲い掛かれば、殴り倒すことはいとも簡単に違いなかった。
「……ごめん。何でもないんだ」
しかし桃太はそう答え、少女に背を向けて林へと歩きはじめる。
少女は小首を傾げたまま桃太を見送った後、岩に座り直してビー玉遊びに戻った。突如現れて立ち去った桃太に対し、これと言った感慨も興味も持っていないようだった。
林に戻り、腕を組んで待ち受けていた満作達の前に立つ。
桃太は満作に向けて言った。
「ごめん。無理だ。女の子を殴るなんてぼくにはできない」
満作はハンマーを持っていない方の手で桃太の頭を思うさま殴った。
コブが出来そうな程強い殴打だった。桃太は思わずその場で膝を着き、上目遣いに睨むようにして満作を見詰めた。
「舐めたこと言ってんじゃねぇ。おまえが瓜子を殴れないのは、ただ弱虫だからだろうが」
「どっちでも良いよ。とにかく、ぼくは殴らないから」
「俺の子分にならねぇ奴が、小学校でどんな目に合うか教えてやろうか」
「酷いことはやめてよ」
「嫌ならさっさと瓜子を殴ってこい! このモヤシ野郎!」
「嫌だ」
桃太はその場でアタマを抱えて蹲る。
「ぼくは殴らないぞ。絶対に、絶対に殴らないぞ」
満作に逆らえば明日から学校でいじめられるかもしれなかったし、そのことを思うと恐ろしくてたまらなかった。それでも桃太は自分にはあの少女を殴れないことが分かっていたし、またそうしたいとも思わなかった。
蹲った桃太の腹に満作の爪先が深くめり込んだ。
腹を蹴りつけられたのだと思った次の瞬間には、今度は京弥の踵が桃太の背中に打ち付けられる。思わず息を吐き切った傍から、脇腹に象のような宗隆の足が叩き込まれた。
後はもう人間サッカーボールのような有様だった。取り囲まれて全身のあちこちを蹴りつけられる。桃太は僅かでも痛みを軽減させる為に、身を丸くして耐えるしかなかった。
リンチは長く、長く続いた。
全身を痣塗れにされた桃太はそのまま山奥へと引っ張って行かれ、小さな崖から突き落とされたり、木に吊るされたりと言った虐げを受けた。少年達がいじめの対象としている相手にしていることを、一つ一つ順番に味わわされているようだった。
桃太を虐げている間中、少年達は酷く楽しそうな様子だった。物と遊びに溢れた都会と異なり、こんな山奥では弱い者いじめでもしていないと退屈を凌げないらしかった。
一時間近くありとあらゆる暴力に晒された後、桃太はようやく解放された。ただ解放と言っても、手厚く家に帰されるなどということはもちろんなく、最後の最後、泳げるかどうか確認された上で、川の上流から突き落とされるという仕打ちを受けた。
ボロボロの状態で下流へと流されていく桃太のことを、少年達はあざ笑いながら見送っていた。
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