・2-3 第10話 「二人の理想郷:1」
その日は、かつてフェリクスが仮の住処としていたこともある岩棚の下で一泊した。
明日越えて行こうと約束した尾根の、その山裾にある場所で、平野部よりも一段標高が高いために景色が良く、人の気配もない。大昔の地殻変動で隆起した地層の柔らかい部分だけが風化して削れ、固い岩石層だけが屋根のように張り出して残っている。風はあまり防げないが、ひとまず雨はしのぐことができる場所だった。
なにより便利なのは、近くに湧水が出ていることだ。
明日、越えていく予定の山脈は夏でも山頂部に雪が残る高山であり、そこから供給される雪解け水が地下に染みこみ、できた水脈の一つが岩棚の下の柔らかい地層につながっている。
そこで喉を潤し、水筒に補充もして、二人はのんびりと夜を待つことにした。
そこから見る夕日は、今までに見たことがないほどに美しいものだった。これまでは多くの人間が暮らす平野部から地平線に沈んでいく太陽を眺めるだけであったが、この場所からだと、時間の変化と共に色合いを変えていく空と大地の、その両方の移ろいを楽しむことができるのだ。携帯食として持ち込んだパンやチーズを食べながら眺めていると、それだけでうっとりとした心地にさせられる。
やがてキアラとフェリクスは岩棚の下で眠りについたのだが、夜半になって、薬草師は凍えで目を覚まさなければならなくなってしまった。
「寒い……」
空に、おぼろ月が浮かんでいる。すでに平野とは言えない高度から眺める世界は青く暗く、世界が
どうやら夜が深まって、辺りが冷え込んでしまったらしい。
薪を集めるのは手間だったし、まさかドラゴンと一緒にいる人間を襲う野生動物もいないだろうということで火を起こさなかったせいだ。キアラは自分の旅荷物の中からカーディガンを取り出して羽織ったが、それでも身体の震えは止まらなかった。
———その時、彼女の目の前にぽうっと、光の球が浮かび上がる。
白く、淡く輝くその球体は暖かく、優しい印象がする。
(まるで、小さな太陽みたい……)
そっと左右の手をのばすと、光はキアラの両手の中にすっと納まった。それを胸の中にかき抱くと、じんわりとした暖かさが全身に広がっていき、身体の震えもすっかり収まった。
「ありがとう、フェリクス」
こんなことをしてくれるのは、こんなことができるのは、一人しかいない。
自身に寄り添って眠っている巨大な獣を見上げ、感謝の言葉をささやくと、彼はなにも答えずにその翼で薬草師のことを上からいたわる様に包み込んでくれる。
おかげで、岩肌の上に毛布を敷いただけの寝床でも安心して、ぐっすりと眠れた。
そして、翌朝。
二人は朝日が昇る少し前に起き出し、出発の準備を整えると、世界が光で満たされる頃に飛び立った。
大きく翼を広げ、風の力に魔法を加えながら、フェリクスはぐるぐると旋回をしながら高度を上げていく。
空高く、一瞬で、とはいかなかった。
ゆっくり、ゆっくり。
少しずつ高度を上げていく。
こうするのは、人間であるキアラが高山病にかかるのを防ぐためだ。
これから越えて行かなければならない山脈は高くそびえ立ち、その頂部では空気が薄く、急に高度を上げるとその影響をもろに受けてしまう。
「ごめんなさいね、フェリクス」
≪なにがだ? ≫
角につかまらせてもらいながら、薄い空気に身体を慣れさせるためにできるだけ深い呼吸をくり返していた薬草師が謝ると、ドラゴンは眼球だけを彼女に向けた。
「だって、貴方だけならきっと、すぐにも飛び越えて行けるでしょうに」
≪それは違う。……そなたと共にでなければ、そもそも、あの山を越える意味などないのだから≫
その言葉に、キアラは自分たちがこれから、新しい家を探しに行くのだということを思い出した。
この世界のどこにも居場所を持てなかった自分たちが、これから二人でずっと、平穏に暮らしていくことのできる場所を見つけに行く。
そのためにこそ、山を越えるのだ。
二人、一緒。
そのどちらかが欠けたとしても、この行為の意義は失われてしまう。
「そうね……。そうよね、フェリクス」
薬草師は微笑むと、ドラゴンの上に伏せ、優しく頬ずりをして感謝の気持ちを伝える。
やがて十分な高度を得ると、二人は山脈を越えた。
———その先に待っていたのは、想像もしたこともない、絶景だった。
眼下に、山々に囲まれた秘境の地が広がっている。左右に細長い盆地、もしくは谷だ。そしてその底に、大きな湖がある。清純な雪解け水を集めてできているために水質は透き通っていて、見る角度によっては湖底が見えるほどだ。山脈の尾根と湖面との標高差はかなりあって、山肌に沿って植生が変化していくのが見て取れる。
巨大な水源の周囲には、豊かに生い茂る森が広がっていた。低い場所は広葉樹林が主体だったが、標高があがると針葉樹林の割合が増す。
さらに高くなると、一面の草原が広がっている。草花が生い茂り、ところどころに岩肌がつき出している、放牧地になりそうな高原だ。その植生は高度が増すほどにまばらとなり、緑と山肌のグラデーションを形作っている。その行き着く先は山頂部を覆う雪の純白、そして空の青だ。
それらのすべてが、波一つない穏やかな湖面に映し出されていた。峻険な山々、黒々とした森、淡い色の緑でできた高原、高山植物と山肌、雪に、空。まるでその先に鏡合わせの異世界があるのではないかと思わせられる光景だった。
「ねぇ、フェリクス! あそこ! 」
初めて目にする景色を夢中になって見つめていたキアラだったが、その中に人工物を見つけて、指で示していた。
湖畔に、灰色の塊がうずくまっている。
その直線的な凹凸は明らかに自然に出来上がったものではなく、人の手で作り上げられたもの、建築物だった。
「あそこが、あなたが言っていた場所ね? 見てみましょう。もしかしたら、住めるかもしれない」
≪承知した≫
この場所ならばきっと、一獲千金を狙うドラゴンハンターたちも容易には近寄ることができないし、周囲には水も豊富で、薬草の材料を得られそうな豊かな森まである。
なにより、美しく、平穏で満たされている。
こんな場所に住めたらいいなという思いでキアラが言うと、フェリクスはまたぐるぐると旋回をしながら高度を下げ、二人で見つけた、新しい家になるかもしれない場所に舞い降りて行った。
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