・1-7 第7話 「契り」

 やがて日が暮れ、手術のために血まみれとなってしまった花嫁衣裳を脱ぎ、洞窟の奥に湧き出していた泉の水で身体を清潔にし、持ち込んだ自身の普段着に着替えたキアラは、疲れもあってすぐに眠った。

 ベッドも何もないのでむき出しの岩肌の上に横になって眠ろうとしたのだが、治療をしてくれたことに対する感謝を示そうというのか竜族の背中で眠ることが許されので、その上で横にならせてもらう。

 正直、寝心地は固い岩の上よりはマシ、と言った程度でしかなく、お世辞にも良いものではなかった。

 なにしろ、竜の鱗は硬いのだ。

 ドラゴンキラーと呼ばれる強力な射撃兵器でもなければ、鱗のすき間を狙って、達人がうまく剣や槍を入れなければ貫けないほど強靭な、鎧のような外皮。

 しかしその上で眠るのは、不思議なほど強い安心感があった。

 それは、キアラがこのドラゴンに共感する気持ちを持っていたせいかもしれない。

 人間たちから敵意を向けられ、居場所を奪われた者。

 自分たちの身のかわいさ故に村人たちからよそ者、魔女とそしられ、生贄に捧げられた者。

 どちらも人間たちから理不尽な扱いを受け、居場所を失い、帰る場所もない者同士であった。

 翌日、朝日が顔を出し、地面にぽっかりと空いた円筒形の空洞の底にも日差しが届き始めたころ。

 起き出したキアラは、危うくドラゴンの背中から落ちそうになってしまった。


「きゃ、きゃぁっ!? 」


 悲鳴を上げ、足を滑らせてしまった彼女だったが、幸いにもなんの怪我もせずに済んだ。

 竜族がその翼を広げ、薬草師を優しく受け止めてくれたからだ。

 ———温和で、理性的。

 そのわずかな動作からだけでも、キアラはドラゴンが持つその性質を知ることができた。彼は本来人々から恐れられるような存在ではないはずなのだが、しかし、竜族であるからというだけで恐れられ、あるいは、狙われる。

 それから、朝食にした。

 メニューは昨日薬品と一緒に持ち込んだパンと、チーズと、ベーコン、薄くワインを混ぜた水だ。


「あの……、あなたも、お召しあがりになりませんか? 」

≪ありがたいが、不要だ。我ら竜族は、この世界に遍在する魔力を糧としている。もっとも、食べることそのものが好きな同族もいるが≫


 一応食事を勧めてみたが、いらない、ということなので、一人で食べ始める。

 パンはいわゆる黒パン。麦の実の核の部分だけでなく殻ごとひいて粉にして焼いた庶民が食べるパンで、不純物が多く黒っぽいことからそう呼ばれる。キアラが両手で抱えなければならないほど大きな円形の、平べったい形をしたものだ。

 抱えるほど大きいのは、元々このパンは、三日間アンへデク草を煮込むのにかかりきりにならなければならないためにその間の保存食として数日分の食事に困らないようにとまとめて焼いたものであり、これをその都度ナイフで切り分けながら食べていくからだ。

 チーズは、牛を助けた代金として村の農家から報酬の代わりに現物で受け取ったものだ。長期保存ができるように水分をよく抜いて作った固く濃厚な味わいのもので、これも煉瓦ほどの大きさのずっしりとした塊をナイフで細かく切り分けながら食べる。

 ベーコンは以前猟師から分けてもらったもので、鹿肉だ。家にあった食料の中ではもっとも高価なものであり、置いていくのは惜しかったから持ち込んだものだ。

 水に薄くワインを混ぜるのは、十分に煮沸消毒のできていない水や、沸騰させてから時間の経った水をそのまま飲むと食中毒の原因となる恐れがあるからだ。酒に含まれるアルコールに消毒作用があるからそれを利用して安全に飲めるようにしているのだが、アルコールという存在はまだ明らかにされていないので、こうしているのは経験則に従ってのことだ。キアラは酒をたしなまなかったが、酔っぱらうような濃さはないので安心だ。

 適当な高さのある岩をイスにして腰かけ、もぐもぐ、と食事をしていると、ドラゴンが翼を広げてバサバサと何度か羽ばたいてみせる。

 風が舞い、キアラの髪が躍った。


「驚いた! もう怪我はいいんですか? ドラゴンさん!? 」


 目を丸くした薬草師が口の中の物を慌てて水で喉の奥に流し込んでたずねると、ドラゴンはその長い首を曲げ、頭部を彼女へと向けて双眸を細めた。

 なんとなくだが、微笑んだのだと思えた。


≪まだ、完全ではない。しかし、そなたのおかげで、明日には問題なく飛ぶこともできそうだ。……あらためて、礼を言わせてもらおう。感謝する、人間の娘よ≫


 キアラはほっとして、嬉しくて、誇らしかった。

 あれだけ傷ついていたドラゴンが、もう、明日には飛べるというほどに元気になっている。

 元々の生命力の強さというのもあるのに違いなかったが、薬の効果もあったのだろう。

 ———自分の作った薬は、師匠が教えてくれたそれは、竜族にだって効き目バツグン。

 きっと、誰にでも自慢できることのはずだった。


≪明日になって飛ぶことが叶うようになれば、我は、人間との約定に従い、この地を去るつもりだ≫


 翼を折りたたみ、再び体力を温存するためにその場にうずくまったドラゴンは、じっと、キアラを見つめながらたずねてくる。


≪人間の娘よ。そなたは、どうする? 昨日も言ったと思うが、我は、元より生贄など要らぬ。[ドラゴンの花嫁]などというのは、忌まわしき風習だと考えている。……それに、そなたは真摯に我を手助けしてくれた。これからどうするかは、自由に、そなたの思い通りに決めるが良い≫


「私……、私、は……」


 薬草師は自身の胸に両手を当て身体に押しつけながら若干うつむき、きゅっ、と唇を左右に引き結んで考え込む。

 ———自由に、思い通りにしてよい。

 つまり、このまま村に残るのも、ドラゴンと共に旅立つのも、キアラの望むまま、ということだった。


(村には……、やっぱり、戻れない)


 村での生活は、悪いものではなかった。

 村人たちの多くは善良な人々であり、無知から来る[薬草師という未知の存在]に対する恐怖は持っていたものの、基本的には親切に接してくれた。

 だからこそ、キアラはあの村でなんとか生きていくことができるように、精一杯頑張っていたのだ。

 しかしその信頼関係は、すでに修復不可能なほどに破壊されてしまっている。

 もはや村に自分の居場所などなかった。

 ならばまた、当てもなく放浪の旅を続けるのか。

 それは嫌だと、はっきりと断言できる。

 長い旅路は過酷で、それをもう一度くり返したいとは思わないし、王都から辺境まで旅をし尽くしたキアラには、これ以上探し続けても自分にとっての安住の地は発見できないだろうと思えた。


「……私、やっぱり、貴方と一緒に行きたいです」


 だとすれば、結論は一つだけ。

 薬草師は顔をあげると、真っ直ぐにドラゴンの瞳を見つめながら言った。


「私は、花嫁としてここにやってきました。そして、もう村には戻ることはできません。……私にはもう、貴方の花嫁として生きる以外の道はないと、そう思うんです! ですから、どうか……、どうか! 私も、一緒に! 」


 竜族は、しばらくの間なにも答えなかった。

 ただじっと、その黄金に輝く蛇の瞳で、薬草師の本意を探るように見つめている。


≪分かった。……ならば、共に行こう≫


 お前などいらないと言われたら、どうしよう。

 キアラは不安でたまらなかったが、しかし、自身を受け入れられて嬉しかった。

 まだ自分の居場所があるのだと、必要としてもらえるのだと知れて、これ以上ないほどに安心していた。


≪そなた……、いや、キアラ。我に、名を与えよ≫


 なにも答えず、ただ静かに、暖かな涙をこぼしていた薬草師に、ドラゴンは優しい口調で語りかけて来る。


≪古き盟約により、竜族と人間族とが[契り]を結ぶ時、名を与えることで互いの約定と成すと定められている。……そなたには、すでにキアラという名がある。我も、その名がよく似合っていると思う。ゆえにそなたにはキアラでいて欲しい。しかしながら、我には未だに名がない。……それゆえに、そなたに名付けて欲しい≫


 陰惨な風習であるだけに人々の記憶に残りやすかったのか、[ドラゴンの花嫁]というのがどういうモノなのかは、キアラも知っていた。

 しかし、この[契り]というものがどんな意味を持っているのか、それをするとどうなるのかは、聞いたことがない。

 ———きっと、ずっと、ずっと、人間族が忘れてしまうくらいに長い間、交わされなかったことなのだろう。だから、誰の記憶にも残らなかったのだ。

 だが、それをすることに迷いはなかった。

 ただ自分のことを気づかい、寄り添い、必要としてくれる存在と共にいられるだけで、幸せな気持ちだったのだ。


「……フェリクス。あなたの名は、フェリクス! 」


 しばらく考え込み、やがて脳裏に浮かんできたその名を、キアラは叫ぶように告げる。

 するとドラゴンは、フェリクスはその翼を広げ、ばさり、と力強く羽ばたいてみせた。


≪我が名は、フェリクス。……これより、そなたの伴侶となろう。我が身が続く限り、そなたの命がある限り、我は、キアラと共にあり! ≫

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