プロローグ

 

 とある国のとある貧しい村落。


 その少女は、家から少し歩いた先にある大きな森に来ていた。

 この村にはある迷信があった。曰く、森のどこかに、カミサマがつくった立派なリンゴの木があり、その木に成るリンゴを食べればどんな病気もたちまちに直ってしまうと。

 子供たちの作り話のような迷信だ。実際、具体的な手がかりもなく、リンゴの木をこれまで見たものもいなかった。


 少女は母親と一緒に、村落のはずれに暮らしていた。父親を早くに亡くし、母親はわが子のために一日中働いていた。どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、母親は娘に弱い姿を見せなかった。だが、そんな生活にも限界が来た……。


 いつも自分に優しく笑いかけてくれるお母さんが、目の前で苦しんでいた。周りには頼れる大人なんていないし、自分に何かができるわけでもなかった。ただもう一度笑っているお母さんを見たかっただけだった。

 少女はふと、村の男の子たちが噂していたある話を思い出した。どんな怪我も病気も治してしまう不思議なリンゴ。盛んな男の子たちがロマンを求めて森へ入っては、帰ってきて大人たちにこっぴどく怒られているのを何度も見かけたことがあった。理由は、森が危ないからだ。過去に熊に襲われたり、毒蛇に噛まれたりした子供がいたらしい。

 (お母さんは絶対に森に入るなって言ってたけど……)

 少女はとても賢い子供だった。これまで母親の言うことを守らなかったことはないし、自分なりの倫理観を持っていた。しかし、特別な事態において自分をうまくコントロールできるほど大人ではなかった。


 



 天候は最悪だった。

 上空では雷が轟き、前かがみにならないと吹き飛ばされてしまうような強い風が吹き荒れ、突き刺すような雨を降らす。少女がカッパを着ていたのは運が良かった。傘をさしていたら早々に強風で壊されていただろう。そろそろ夏になろうという時季であったが、その日の雨は冷たかったため、小さな女の子がその中を無防備で歩けばすぐに体調を崩すのは目に見えていた。

 昼間なのに薄暗く、進めば進むほど森は濃くなり、あたりは暗くなる。風が森を震わし、ザーザーと音を立てる。まるで少女に警告をしているかのようだった。



 それでも少女は負けじと前へ進む……。





 どれくらい歩いたのだろうか。

 何も持たずに飛び出したか弱い少女の体は、限界を迎えようとしていた。空腹が襲い、喉が渇き、足が鉛みたいに重い。

 空は未だに分厚い雲が覆い、陽の光を遮っているため、太陽の傾きも確認できない。目的地への場所も道順も、今自分がどこにいるのかも分からない。この、先の見えない状況に、少女の不安は時間とともに膨れ上がっていく。



 それでも少女は進んだ。不安や恐怖に勝る強い「想い」があったから……。





 やがて開けたところに出た。

 中央には大きな木があり、周りは不自然にも木々が生えていなかった。一目でわかった、ここが目的地なのだと。しかし、一瞬気が緩んだことで、少女がいままで踏ん張って我慢していた色々なものすべてが一気に抜けていった。



 少女は力尽きて倒れた。





 カサっ、カサっと音がした。

 薄れゆく意識の中、知らない二人組が自分に何か話しかけているのを最後に、少女の意識は途切れた。







 ハッ、と目が覚めた。

 少しの間状況がわからず放心していたが、体を起こし周りを確認する。少女はどうやらベットで寝ていたらしい。しかもそのベットは……。

 (ここは私の家?)

 だんだんと記憶が戻ってくる。自分が一人で森に向かったこと、たくさん歩いて疲れて倒れてしまったこと。そして、意識が途切れる前に見た人影のことを……。



 隣を見るとそこには瑞々しいリンゴが二つ置いてあった。



 慌てて外に飛び出ると、丁度二人組がここを去ろうとしていた。しかし、足がうまく動かずその場に倒れてしまう。

 バタッ、という音に二人は振り向いた。一人は男の人でもう一人は女の人だった。男の人は青年で、女の人は小さな女の子だった。男の人が少女の元へ走り寄り、少女を抱きかかえた。

 少女からは逆光で、男の顔はよく見えなかった。が、

 (……キレイな髪……)

 さらさらと白色の髪が、陽の光に照らされて美しく輝いて見えた。

 男が口を開いた。

「まだ安静にしていないとダメだよ。」

 柔らかなで軽い言葉遣い。

 初対面のはずなのに、不思議と少女は彼を警戒しようとは思わなかった。それがなぜなのかは少女にはわからなかった。

「あ、あの、ありがとうございます。」

 知らない大人の前で話すことに慣れていない少女の声は、緊張で少し上ずった声になってしまった。

 すると男の人が少女の頭を撫でて、

「よく頑張ったね。今はゆっくり休みなさい。」

 男の人から優しさが伝わってきた。

「でも、……」

「大丈夫だよ。今からお医者さんを呼んで来るからね。何も心配いらないよ。」

「……。」

 少女の顔は晴れなかった。彼女は幼いながら、自分の家庭の現状を何となく理解していた。だから、彼らの善意を素直に受け取れないでいた。

 男は少女を家の中へ運ぼうとしたが、断った。これ以上迷惑をかけることはしたくなかった。

 男は不安そうにこちらを見守ったが、一人で立つと少し安堵したように見えた。

「お嬢ちゃん、名前は?」

「セナ、です。」

「よし、セナちゃん。こっち見て。」

 少女が顔を上げると、突然ほっぺたをムニムニと揉まれた。驚いた少女だったが、男を見ると、こっちにまでうつってきそうな微笑みを見せていた。つられて少女の顔の緊張がほぐれていった。

「笑顔はね、人を幸せにするんだ。だから笑って、お母さんを幸せにするんだよ。」

「⋯⋯うん!」

 少女は朗らかに微笑んだ。

「いい子だ。」

 男はもう一度少女の頭を撫でて、その場を去ろうとした。

 少女は男を呼び止めようとしたが、やめた。代わりに、

「あの、お名前を聞いてもいいですか?」

 男は立ち止まり、頭を搔いた。名前を聞かれただけなのに少し困った様子だった。

「俺は、……いや、」

 男の人は何かを言いかけた。

 悲しそうな、そして懐かしむような表情をして、最後に笑った。

「今はこう名乗っている。」





「―――――」

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