第2話 結衣と奈那子 後編

 日曜日の午前十一時になった。

 煌々と照り付ける日差しが眩しく、日焼け止めを塗った腕が焼けてしまいそうなほどだった。黒いTシャツと黄土色のハーフパンツを着てきたが、そんなもの脱ぎ捨てて全裸で過ごしたいぐらい背中も太腿も汗でびしょ濡れだ。

 琴葉ちゃんに教えてもらった場所は満木市内の端、奈那子の家は学校から徒歩二十分の位置にある。

 わざわざ片道一時間もかけてきたのは他ならぬ奈那子のためである。鞄の中身も奈那子の役に立ちそうなものを家から拝借して来た。

 目的の場所に行くと、そこには二階建てで芝生の生えた庭付きの豪奢(ごうしゃ)な家があった。父子家庭だと聞いたからよっぽどお父さんが良い職に就いて稼いでいるのだろう。

 二階の窓にはレースのカーテン越しに明かりが見えるから家の中に人はいる。一方、庭の駐車スペースには車が無いからきっとお父さんはいない。

 さっそく家のインターホンを鳴らした。三十秒して、ドアがゆっくりと開く。半開きのドアの間から奈那子は顔だけをひょっこりと出す。彼女のつぶらな瞳が私の瞳孔を捕らえたのを確認した。

「こんにちは奈那子」

「えっ⁉ 結衣ちゃんじゃん」

「いきなり来てごめんね。最近学校に来ないから元気にしているのかなー、って思って」

「わざわざ遠いのに……」

「ねぇ、突然だけど、どこかに遊びに行かない?」

 こういうのは事前に連絡を取ってから行くべきなのだろうが、そうすると断られる可能性が高いと勝手ながら考えていた。相手に対して失礼なのは承知の上での行動だ。

「うーんと……、そうねー」

 奈那子は俯いた。突拍子もない誘いにしどろもどろになるのはよくわかる。熟考の末、

「どこに行くかはわからないけど、とりあえず家に入る?」

「いいのー? それじゃあ、お邪魔したい!」

 私は期待に胸を躍らせて家に入った。

 玄関に入って早々驚いたのは奈那子の服装だった。上半身は橙色のTシャツを着ているのだが、下がパンツだけだったのだ。

「もしかしてだけどさ、奈那子寝起き?」

「うん。十分ぐらい前に起きて顔洗っていたら結衣ちゃんが来たからさ。ごめんね、だらしがなくて」

「いやいや、何も悪くないよ。私の方が勝手に来たんだからさ」

 慌てて奈那子を肯定するが、やっぱりアポ取っておくべきだった、と内心思った。

「それにしてもよくこの家ががわかったね。誰に教えてもらったの」

「それは……裏ルートで」

「はぁ⁉」

 琴葉ちゃんを売って嫌いにさせるようなことはしたくないので、できるだけ尤もらしい嘘をつこうとしたが、全然そのような嘘にならず逆に不自然になった。私は嘘をつくのが下手だ、そのことを改めて心に刻んだ。

「まぁ良いよ別に。多分だけど佐奈田さんだよね、ここを教えたのは」

 普通にバレてた。

「まっ、まあ、とにかくだよ。奈那子と遊べるのが楽しみ。住所を教えてもらった時から手薬煉引きまくっていたんだからさ」

 私は得意げに語るが、奈那子は、行きましょ、と言って二回の自分の部屋へ向かった。

 後ろ向きな面構えで言動は淡々としていた。

 奈那子の部屋へ着いた。勉強机の上は整頓されていて、床にはモノ一つ落ちていないほど清潔感にあふれていた。

 部屋に入ったときには乱雑だったタオルケットもすぐさま畳んでベッドの端に置いた。

「すごいこの部屋。奈那子だわ」

「どういう事よ?」

「部屋って言うのは自分自身を映し出す鏡だと思っているのよ。部屋の特色がそのまま本人の特色として現れるということ」

「ごめん。やっぱりどういうこと?」

「例えばだけどさ、アイドルを好きな人がアイドルのグッズを部屋に飾ったとするじゃん。その人っていうのは、アイドルが好きで自分の精神の安定や一種の生き甲斐となっているの。アイドルが自分の中でなくてはならない、その状態が直に具現化されたのが自分の部屋っていうことよ。奈那子の部屋で言うなら、綺麗に整理されているから奈那子も清い心の持ち主だなって思ったのよ」

 奈那子はベッドに腰掛けると、訝しげに俯いた。

「だけれど、結衣ちゃんのその理屈で言うなら、私の心はこの部屋のように何にも無いスッカラカンとも捉えられるじゃん」

「そんなに悲観することないよ! 物事はもっと楽観的に捉えようよ!」

 今、私と奈那子の間には浄化水と泥ぐらい気持ちの明暗が分かれていた。

「何でそんなに落ち込んでいるの?」

 あまりにも消極的な態度に私も少し心配になる。相談に乗ってあげたくなる。

 そして奈那子は言葉を紡いで

「私、メイクができない。結衣ちゃんや他の人たちみたいに可愛くないから……」

と言った。その悩みは豪く単純なものだった。

 思わず、そんなことで? と訊き返すが、彼女は潤いの無い目で黙って頷いた。

「そんなことだったらすぐに解決できるよ! 任せて!」

 まさにこの時を待ち侘びたかのように、徐に鞄の中を漁った。そして鞄から化粧品の入ったポーチを取り出すと、訛声でドラえもんみたく差し出した。

「パッパラパッパッパーパパ―! ケショードーグ!」

「何その言い方?」

「ドラえもんよ」

「へえー」

 奈那子の反応は想像以上に薄く、私が蔑まれたような感覚だった。渾身のモノマネも冷静に処理されて、恥ずかしさだけが残る。

 基礎的な数学を習得していない人が高度な数学を身に着けられないのと同じで、水田わさびのドラえもんしか知らないであろう奈那子に大山のぶ代のドラえもんのモノマネをしたところで理解できるはずはなかった。

「まぁともかく、私が一から化粧の方法を教えるわ」

 これほど力強く言っても尚、奈那子は悲観的で喜びを露(あら)わにしなかった。

「でも、私、そんなに可愛いわけでもないし……」

「そんなことない!」

 即座に否定に入った。

「初めて会った時から奈那子は華奢だな、って思っていたよ」

 言ってて興奮してしまい体が熱くなってきたので、奈那子に倣ってハーフパンツを脱いだ。そして私も奈那子と同様にベッドに腰掛ける。ベッドの脇に二人の足を置いて、互いに顔を横にして見つめ合う。

「奈那子は自分の本当の魅力を分かっていない。メイクができないなんてダニの糞ぐらい誰も気にしないよ」

「でも、やっぱりできないのは嫌だよ。恥ずかしくて……」

「だから私が教えてあげるよ。せっかく化粧品を持ってきたんだし」

「……本当?」

「勿論!」

 その瞬間、奈那子の口角が吊り上がったのがわかった。

 目にも潤いが蘇ってきた。

 下がり続けていた目線も水平まで上がった。

 ハッキリと表さないだけで心の底では喜んでいるのが他人目線とは言えよくわかる。

「そうと決まればどんどんやっちゃおうか」

 奈那子はさっき洗顔を終えたと言っていた。それならさっそく化粧の本題に入っても良さそうだ。

 私は足を奈那子の体の方へ組み直し、彼女の顔を触りやすいような長座の姿勢になった。

 ポーチから化粧水、乳液の入ったボトル、日焼け止めのチューブ、その他の化粧用品が入ったさらに小さいポーチを太ももの傍に置く。

「じっとしていてね奈那子」

「じっと……?」

 疑問を呈するような顔を見せたが、奈那子は私を見つめると言う通りに全然動かなかった。

 最初に化粧がしやすいように奈那子の髪を纏めるのだが、短髪で前髪もそこまで過剰に邪魔をするわけではないため、赤いバンダナで軽く髪を後ろに下げるだけで十分だった。

「それじゃあ、粧しつけていくわ」

 まず四センチ角に切ったコットンに化粧水をしみこませ、優しく触れながら奈那子の顔全体に満遍なく染み込ませた。

 次に手に乳液を出して、程よく濡れた奈那子の顔にこれまた満遍なく塗り込んでいく。

「この乳液で蓋をしないと化粧水が蒸発して肌がカッピカピになっちゃうの。奈那子は割と乾燥肌だから特に入念にしないとね」

 外の日光が僅かに入り顔のテカリがより強調され、奈那子の素の顔の魅力も相まって神々しい趣が醸し出された。

「すごいよ、奈那子」

「本当? いったん鏡を見せてよ。私だって気になるから」

「やーだ。完成してからのお楽しみってことで」

 私の意地悪に奈那子はむっと眉根を寄せる。

「ずるいよ、結衣ちゃんだけ」

「化粧はすぐ終わるから、奈那子の顔もすぐに見せるよ。私に任せて」

「そんなに言うなら結衣ちゃんなら信じるよ」

 そう言うと奈那子は、再び電池が切れたかのように静止し、私に手を施されるのを委ねた。

 乳液がある程度馴染みだしたところで、日焼け止めクリームを掌の窪みに埋まるぐらい取り出し、奈那子の額と両頬、鼻、顎の五点に少しのせた。ムラにならないように、内側から外側へと少しずつ丁寧に伸ばしていく。

「日焼け止めなんて塗るんだね?」

 そう尋ねられた。

「やっぱり外に出ると紫外線の影響を受けやすいからね。意外と侮れないもんよ」

 日焼け止めを塗るだけなのに私の気分はどこか誇らしかった。所詮は初心者である奈那子に対して知識でマウントを取っているにすぎないし、化粧品は化粧品メーカーが凄いのであって私が凄いわけではないのに。もはや愉悦感に浸るどころか溺れかけた。

 それでも手だけは止まらなかった。ポーチ内から色白な奈那子の肌に合う下地のチューブを取り出した。パール粒程の量の下地を奈那子の可愛らしい額、両頬、鼻、顎の五点にのせて、丁寧に薄く広げる。

「そばかすも少し隠すつもりで塗るよ。どう感覚としては? 肌に合うと良いんだけど」

「なんかドロっとした感触がする」

「しっとりするものを選んだからね。多分大丈夫だよ」

 次にパフの先端三分の一程にファンデーションのパウダーをとって、顔の中から外へ滑らせるように滑らかに広げていった。

 奈那子がじっとして動かないものだから化粧がやりやすい。勢いが衰えることは無かった。

 フェイスパウダーを手の甲で馴染ませて、ブラシの先端につけて奈那子の顔に内から外へ優しく軽いタッチで広げていく。肌の艶が増した。キメの細かい粒が肌に馴染んでいるのがよくわかる。明らかに華やかさがプラスされた。

「メインの化粧はこれで終わりよ。あとは少しずつ周りを飾っていくわ」

「それなら顔を一度見せてよ」

「ダメダメ!」

「えぇー……」

 奈那子は本当に落胆した表情を作って見せた。私は意地悪なのでまだ鏡では見せないけれども。

 とりあえずアイブロウ、アイシャドウ、アイライナーは後回しにし、先にチークを塗ることにした。右人差し指にチークをつけて頬に奈那子の両頬に優しく馴染ませた。ほんのりピンクがかったことで、素肌のような自然な艶を出しながら、可愛らしい生き生きとした印象を与えた。

 ビューラーを取り出した。奈那子の長いまつ毛をぐっと掴ませゆっくりと引き、カールを作り出す。

「奈那子は本当にまつ毛が綺麗だよ。こんなにも長いまつ毛を手入れしないなんて勿体無い」

「そんなぁ……、まつ毛なんて初めて褒められたよ」

「垂れ下がったまつ毛も刈り上げるだけで目元がより強調されて美しさに磨きがかかるよ」

 次いでマスカラを取り出し、毛先を整えた。毛先が揃ってパッチリとした目は可憐さに気品さを加えた。

「こんなにやってもらっちゃっていいの? なんだか申し訳ないような気もするし……」

 奈那子が気まずそうに尋ねた。

「いいのよ別に。私は奈那子が少しでも明るく学校に来てくれればそれでいい。化粧を教えることはそのためのきっかけに過ぎないんだし」

「ありがとね。でも、私なんかに化粧を教えたところで結衣ちゃんに何の利点も無いと思うんだけど……」

「別に利益があるないなんて微塵も気にしていないよ。ただ勿体無いなとは思っていた」

「勿体無いって……?」

 不思議そうに尋ねる。

「奈那子ぐらい可愛い人がメイクも知らずに自分の殻を破れないのは勿体無いって思っていたの」

「でも、やっぱり難しいし、結衣ちゃんたちは凄いよ。私なんか可愛くなりたいなって思っても上手く着飾ることができないし……」

「そこがいいんじゃない。奈那子のそういう、可愛くなろうと努力しているところが可愛いよ」

「努力しているところが……えっ⁉」

 私は紛れもなく本心を言った。

 奈那子は急におどおどしだし、私と合わさっていた目線も不自然なほど意図的に下げるようになった。私と目を合わせようともせず、手も振り払った。

 視界に奈那子の横顔が入るが、頬はチークのピンクじゃ隠せないほど赤らめていた。

 奈那子は膝を手で押さえると、手の甲に一滴の涙が垂れる。

「んっ……ぐっ、……んん」

 何かを言おうとして言葉に上手く言い表せないのが至近距離でよく伝わる。

「大丈夫? 落ち着いて」

 励ましの言葉をかけると、突然、正面から脇の下を抱きつけられた。

 奈那子は、塗りつけたファウンデーションが崩れ落ちるほど額を私の腹に押し付けて泣きじゃくった。あまりの擦りの強さで、黒いタンクトップにベージュがべっとり付き、零れだす涙でこの二十分のメイクが半壊した。

 この状況でどう慰めてあげればいいのかわからない。

「奈那子、どうしたのよ、急に……」

「うれしい、うれしいよ……」

 それだけをひたすら言い続けた。

「うれしいって何が?」

「とにかくうれしいの」

「だから何で……?」

 奈那子は、私の体を抱きしめたまま数秒間黙った。私は気を落ち着かせようと彼女の頭を撫でる。強く密着しているせいなのか体が少し火照っているように感じる。膝に心臓部分が当たって鼓動を感じる上に、そのリズムは格段に速くなっている。駆け巡る血液が低速にならないまま奈那子は弱弱しい震えた声で応えた。

「私の家族の話は知っているかな?」

「確か、お父さんと二人暮らしなんでしょ」

「そう、お母さんは私が幼稚園生だったときに癌で亡くなった。それ以降、お父さんは私を一人で育ててくれたんだよ。一生懸命働いて、家事や料理も教えてくれた。でも、やっぱりどうしても埋められないものがある。私にはお母さんが欲しかったんだよ」

「いや待って待って待って、お母さんと私がどう関係しているって言うの?」

 慌てふためいた私は、腹で蹲る奈那子の顔を少しだけ離して、互いの目を合わせて話を続けてもらった。

「料理や家事は男の人でもできるけど、化粧は男の人じゃできないでしょ。

だから化粧品を試しに買ってみても、その練習をすることは無かった。結衣ちゃんみたいに直接教えてくれる人がいなかったんだよ。

 それに元々話すのが得意じゃない私に積極的に話しかけてくれたのも結衣ちゃんだし、私の事を可愛いって自信を持って言ってくれたのも結衣ちゃんが初めてだった」

 重い興奮気味の奈那子を抑えるため、優しく頭を撫でる。そんな奈那子が愛おしかった。

 彼女は言った。

「結衣ちゃん、好き」

 その言葉は唐突だった。誑かそうなんて意図は全く無く、それは奈那子の本心に間違いはないはず。それほど弱くても真っすぐな言い方だった。

 心臓が鷲掴みにされた気分になった。そうとしか思えないほど心臓の鼓動が早くなる。

 小刻みな鼻息で荒くなる。

 まばたきを忘れて目が乾く。

 腕いっぱいに鳥肌が立つ。でもそれが拒絶によるものであるとは到底思えなかった。

 それでも言葉の意味を読み取るのに時間がかかった。

「ごめん。変だよね、女の子なのに好きって言っちゃって」

 その言葉で彼方へ行きかけた私の意思は押し戻された。

「……いやそんなことは無いと思うよ。だけど……」

 今度は逆に私の方が言い淀んだ。そこからボソボソとしたノイズのような、か細い声で「そのー」や「あのー」と発したが、それ以上の事は結局何も言い出せなかった。

 たじたじになった私は自分の垂れる前髪をなぞっていた。

 無言の間が続いたある時、私は奈那子を包み込んであげたいという気持ちが芽生えた。小動物のように弱弱しい彼女を助けてあげたいという想いが、過去のそれとは比にならないほど強くなった。

 でも愛おしいはずの彼女を受け入れてあげる自信が私にはまだない。

 意を決して言葉を紡ぐ。

「奈那子、何かしたいことある?」

 突拍子もなく大雑把な問いかけをする。

「とりあえず残った化粧手順があれば教えてほしいな。かなり崩れちゃったけど」

「それもそうね」

 メイクレッスンを辛うじて続けた。

 粧し込んでいるこの瞬間こそが私の心を平穏に保てる瞬間だった。手が加えている時は、陶芸職人のような必要最低限の手の動きと最大限の集中力を発揮できた。

 奈那子は私の説明に聞き惚れてしまい、化粧の手際を覚えるため、私が塗った下地の上に再び下地を重ねるようになる。

 レッスンが終わるころには顔にバームクーヘンが出来上がりそうなほどの分厚い化粧となった。

 そして後始末の億劫になる様を想像して内心微笑んだ。

 やり残したアイブロウ、アイシャドウ、アイライナーに取り掛かった。眼球を傷つけないように注意を払いながら行うと、マスカラ以上に目元が強調されて華奢さがさらに際立った。

 ここでようやく手鏡を見せて、奈那子は自分の進化した顔を知った。バンダナで髪を抑えているので顔のパーツごとの互換性に一層重きが置かれるようになり、元から整った顔立ちの彼女にはその特徴が顕著に現れた。奈那子が再び泣き出しそうになると、私は、ポケットからハンカチを取り出し瞼に佇む水滴を拭いた。奈那子もさらに泣き出そうとするのを必死にこらえた。

 彼女が私を見つめてくる。美しすぎるあまり、手を施した自分自身が一番惚れこんでしまいそうだった。この見つめ合う時間が私には喜ばしかった。恐らく、彼女もそう思っているのだろう。

しかし依然として私の心は、宿っているはずの好意を存分に発露できない虚しさで冷めていた。

「奈那子! 私の化粧道具一式あげるよ」

 突然そう言ってみた。私としては善意で言ったのだが、奈那子は少しばかり狼狽えた。

「そんなっ、申し訳ないよ。教えてもらった上に道具までもらうなんて」

「いいのよ。これでいっぱい化粧の練習してほしい。もっといっぱい可愛い奈那子を見せてほしい」

「でも結衣ちゃんは……」

「化粧道具ぐらい新しく買えばいいだけ。金銭的な事情なんて些細なことに過ぎないわ」

 そして奈那子の顎を包み込むような優しい手で抑えた。

「その代わりにお願いがある」

「……」

「学校に来て。これからもいっぱい遊びたい、話したい。辛いことがあれば私を頼ってもらって構わないから。高校生活を無駄にしては駄目よ」

「……うん!」

 奈那子の溜めた声が一気に喉を震わせ歓喜を露わにした。

 所詮、口頭で発しただけで法律的には何の効果も無い契りでしかないが、互いを思いやる気持ちは着実に生長した。そこに精神の糸で繋がっているような感覚は確かにあった。

 そして奈那子は、私の右肩の窪みに顎を載せて腕を首周りに巻き、抱き着いた。

 互いの右頬が微かに触れ合う。奈那子の体温が私の頬を温める。同時に、凝り固まった心が綻びるように温められる。

 私は奈那子の背中を摩った。



 翌日、早くに登校した私は、教室の自分の席で沙良と駄弁っていた。奈那子の家へ行ってきたことが主な題であったが、私が好意を向けられたこと、その好意が恋慕の情によるものであることは戸惑いと恥辱故に話さなかった。

 結局、好意の返答はうやむやにしたままであった。

 それでも好意を向けられたことは悪くはなかったな、という想いが次第に心の隅から肥大化した。

 教室の後ろ扉が、ガラリッ大きく音を立てて開く。

 奈那子だ。それは前の席からの遠目でもはっきりとわかる。

 フンワリとまとまった髪、化粧により荒れていた顔の肌も少し隠れて、目元もパッチリとして、昨日とは見違えるほどにお粧し込みが上手になっていた。

 私が帰って以降も練習を重ねていたことを実感させられる。表情も、捨てられる人形のような虚ろな目ではなく主人にじゃれつく子犬のような目をして、自然と口角も上がって希望に満ち溢れていた。

 久しぶりに奈那子が登校してきたことはもちろんの事、その美貌でより驚嘆した。

 私の机の前に何気なく琴葉ちゃんがやって来た。

「ねえねえ琴葉ちゃん。奈那子って中学の時も本気出したら綺麗だったの?」

 奈那子に聞こえないぐらいのヒソヒソ声で尋ねた。

「いやー、どうだろう。でも、少なくともあんなに可愛げのある生き生きした奈那子ちゃんは初めて見たよ」

 その言葉が私の脳を興奮に陥れた。奈那子の気持ちを考えず利己的な考えでしかないが、奈那子の新たな一面を発掘した当事者であり第一人者でいられることがやはり嬉しく、一種の名誉欲がそれで満たせた。

「本当に綺麗になったわね、奈那子ちゃん」

と沙良が訊いてきたので、私は誇らしげに言った。

「勿論、だって奈那子だもん」

 その言葉がうっかり聴こえていたらしい。奈那子はこちらをちらりと見ると、艶然と微笑み手を振った。私も手を振り返した。この無言の挨拶がどうにも有難かった。

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朱夏の産声 志渡ダイゴ @Hainu_well_better

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