朱夏の産声

志渡ダイゴ

第1話 結衣と奈那子 前編

 たった一度きりの高校生活だから後悔したくない、他の人たちにも後悔してほしくない。それが私のモットーだ。

 前半だけなら個人的な野望に過ぎないが、後半を含めるとなるとお節介となってしまうことはよくわかっている。人生を終えた覚えもないのに人生を知った気になっているのもよく分かっている。

 それでも高校時代のたった三年間に出会った仲間は生涯のかけがえのない存在であることは明らかだ。

だから私は高校に行く。



 灰色を基調とするセーラー服を着こなし、簡易的に化粧を済ませた私は、玄関を駆け出そうとして母に止められた。

「結衣、これを持っていきなさい」

 母から渡された封筒には、現金五千円が入っていた。

「いいのこんなに?」

「せっかくの入学できたんだから帰りに友達と美味しいご飯食べてきなさい」

「はいよー」

 私は元気に手を振って颯爽と最寄りの輝夜駅かぐやえきへ向かった。電車は運良く空いていて座れた。三十分して電車を降りる。

 満木みつるぎ市内の中心部に聳え立つのは四階建ての校舎、満木駅から徒歩五分、何の急勾配も無い平坦な道を歩いた先に位置する県立満木第一女子高等学校――通称『ミキ女』に私は進学した。

 居住地の輝夜町かぐやまちは三つ隣で通学時間は片道四十分かかるが、化粧や髪形の校則が緩く県内でもトップクラスの大学進学実績を誇るこの学校に通えることは非常に光栄な事であり、親も三つ歳上の姉も大いに喜んだ。

 クラスの割り当ては一年二組で教室は一階の下駄箱の目の前という遅刻常習犯がいるとしたら大助かりとなりそうな配置だった。私の席は右から三列目の一番前、授業中に居眠りをすれば至近距離から教師の怒号が飛び交いそうで若干の怖さはある。

 入学式が始まる前に私はクラスメイトと片っ端から写真を撮り連絡先を交換した。

白原結衣しらはらゆいって言います。これからよろしく」

 初対面で皆緊張しているだろうからこそ積極的に関わりに行かないと、という使命感に駆られた。その結果、私を除いたクラス39人中38人と連絡先を交換できた。

 時は矢継ぎ早に過ぎ去った。入学式が終わって教室に戻ると、皆、近くの席の人たちと与太話で時間をつぶしていた、一人を除いて。教室の左後ろで誰とも話さずに外の景色を眺めているだけの女子がいたので話しかけに行った。

「ねぇ、私は結衣って言う名前なんだけど、あなたのお名前教えて」

「えっ、私?」

 彼女はおどけてそう返事した。顔に少しそばかすがあるのが勿体ないけど、髪は金髪で似合っているし、長身痩躯ちょうしんそうくできれいな体つき、制服越しでも豊満さが際立っている、例えるなら人形のようだ。顔にテカリが見られない、ということはこの可愛げな美しさはノーメイクで成していることになる。

「いきなりでごめんね」

「あっ、いや、私の方こそごめんね。私、渡良瀬奈那子わたらせななこっていう名前……です」

「奈那子か、いい名前だね。これからよろしくね。さっき連絡先交換してなかたよね? 交換しようよ」

「……うん、いいよ」

 お互いのスマホを向けるや否や各々の地元話になり

「私、輝夜町から来ているんだけど、奈那子はどこに住んでるの?」

「私は、満木市だよ。自転車で十分かけて通っている」

「近いねー、いいじゃん。羨ましいよ」

「輝夜町っていうと大体電車で三十分ぐらい、駅から歩いて五分とかそんなものかな?」

「家から駅まで五分かかるから合計で約四十分だね」

「遠いね」

「そうでもないよ。これからの高校生活を考えたら楽しみで仕方ないし通学時間の悩みなんて些末なものにしかならないよ。ところで中学校は満木市内だよね、それなら中学から同じ人とかいるの?」

「……一応、いるけど」

 奈那子が言い詰まったところで教室の前の扉が開き、短髪で眼鏡をかけた女性担任が、お前ら席着けーッ! と見た目とは裏腹の威勢の良い声を伴って入室した。

「また後で話そう」

「……うんっ」

 全員が席に着くと、プリントの配布と学生書類の配布の時間となり、それも終わるとホームルームとなって先生の話が始まった。

「ミキ女に無事入学できたという事なので、皆さんには青春を謳歌してもらいます。ぐファァーッ、うらやましいィー……」

 先生が急に嘆きだし一同は困惑した。それもお構いなしに話は続いていくものだから、先生の個性だけが私たちから先走ってしまった。

「私もこの学校の卒業生だが、友達はろくに作らず、勉強ばっかりしていたら入試三日前に熱を出して試験を受けられずに浪人して、この学校で過ごした日々が全部全部、ぜーーーんぶ、とは言いませんが半分くらい、いや、三割五分ぐらいが無駄になりその後悔を引きずったまま教師生活14年が経ちました。年齢は現在37です。アラフォーですよアラフォー!

 みんなにはこんなミミズの糞のような醜い大人になってほしくはない。これからどう生活をして後悔するかは皆さん次第ですが、始まってすらいない皆さんはまだ後悔していないんだからやれることはたくさんやりなさい。

 私の担当教科は数学です。数学検定や統計検定を受けたいと言うのなら、私がサポートします。バイトをしたいと言うのなら、面接の練習に私も付き合います。アイドルのオーディションを受けたいと言うのなら、私もオーディションを受けます」

 途端に教室中に大変な笑撃が走った。回り中、腹を抱えて笑い出し、手で机を叩いて高まる気持ちを抑えようとする者も現れだし、三十秒間は笑いが絶えず、先生も収拾がつくまで待った。

「まぁ、ともかくですよ。みなさんが楽しい高校生活を送ってくれることを望んでいます。以上」

 随分と投げやりに話を締めた。先生の言っていたことは私のモットーと類似していたので理解できるのだが、話の内容が内容なだけに全然心に沁みなかった。しかしクラスが朗らかになったのは明らかであった。

 雰囲気そのままに次は学級委員決めへと移行した。

「それじゃあ、学級委員は二人です。なってくれる人はいますか?」

 私は問いかけに真っ先に挙手した。一度辺りを見回すと一番右の最前列の女子も挙手していた。小柄な体格で白髪のツインテールと顔に凛々しさが残る彼女は秋葉沙良あきはさら、私が積極的に連絡先をクラス中に訊き回ったが、それは彼女も同様であり、そのクラスをまとめ上げようとする姿勢も相まって、私とは性に合いそうだった。

 他に誰も学級委員を立候補する者はいない。結果、私と沙良が学級委員を勤め上げることとなった。

 ホームルームが終わると、軽く挨拶を二人で交わした。

「よろしくね秋葉……さん」

「沙良でいいよ。お互いに名前で呼びましょ。よろしくね、結衣!」

「うん!」

 その後、学級委員二人と先生だけは私の机に集まり、他の生徒は帰宅した。沙良が椅子を取ってきて座り、先生は教卓の前でボールペンを持っていた。

「白原さんと秋葉さん。学級委員としてクラスを纏めてあげてください。大変だとは思うけどこれからよろしくお願いします」

 先程の横暴さとは裏腹に、先生の顔は自然で丁寧だった。

「私は基本的にみんなの生活を第一に考えているつもりなので、何かしてみたい事とかあれば法律と校長と学年主任と教育委員会が許す限り対応すると思います。本当に高校生活は直ぐ終わってしまうので、みんなにも呼び掛けて積極的に提案してほしいです」

 しんみりとした状況。先に手を挙げたのは沙良だった。

「先生! 先生みたいになりたくないので高校生活完全攻略マニュアルみたいなのを作ってください」

 無精ぶしょうな態度で全く失礼ぶらずに提案した。先生も

「はいはい。おもしろいこと言うのねー……」

と気前よく応えたが、瞳孔は枯れた花のように彩を無くしていた。

「でも纏めるかどうかは置いておいて、沙良の提案は悪くは無いと思いますよ。先生の先程の落胆ぶりを見るに、数学教師以上に反面教師として優秀そうなんで」

「白原さんも随分とおもしろいこと言いますねー。ヘッヘッ……」

 私も沙良の流れに乗って冗談めかして言った。先生は目を細めて口角が吊り上がっていたが、瞳孔の輝きだけは相も変わらず死んでいた。その態度が発する無言の怒りに気圧されて、私たちは一度真面目な話に舵を切った。

 でも本気で怒らない辺り、そこまで厳しい先生ではなさそうだった。

「いつかクラス全員に意見を募るとして、二人も何か考えておいてくださいね」

 こうして初めての簡易的学級委員会は幕を閉じた。

 先生は職員室へ残り、沙良は早急に帰った。私は帰り道を、犬の散歩のようにゆったりとした速さで歩いた。

 垂れた前髪をいじりながら考える。

 私が求めているのは刺激的な高校生活だった。ただ学校に来て勉強しているだけの無難な行動では大学受験まであっという間に過ぎ去ってしまう。

 だからこそ無難から逸脱したい。中学までの友達や親戚が経験したような出来事は伝記的で無難なものに過ぎない。

 別に無難であることが悪いわけじゃない。

 しかし逸脱した経験を得ることで高校生活をかけがえのないものへと昇華させられる。彼らの誰も経験したことが無いようなこと、それを求める。

 幼児は毎日多感に物事に触れるためその与えられ続ける情報を処理するのにエネルギーを多く使うため、それらがまだ習慣化されず新鮮さを与える。時が経つにつれ、新鮮だった情報は当たり前の情報となり処理が習慣化されて新鮮ではなくなる。故に幼少期は時の流れが遅く感じたのに年齢を重ねるにつれて早く感じるのだろう。

 それならば私がやるのは習慣の破壊。少しずつでも構わない。卒業した際に心に残せるかけがえのない何かを見つけたい。

 そう思いながらその日は駅前のファミレスでステーキを食べて散財した。



 しかし学校生活は思いの外、形式化されていた。

 毎週金曜日に簡易的に学級委員二人で話し合う時間を作った。一週間の振り返りを行うつもりで沙良が始めたのだが、話すことはみんなの体調がどうだの、先生の機嫌が悪いだの、化粧品が高いだのと毎回変わらなかった。



 入学から一ヶ月、クラスのみんなとは順当に話した。

 五月の中旬になるとテストに追われていた。赤点を取らないことは余裕でできるのだが、良成績を取る事を加味すると放課後も四、五時間ほどは勉強に費やした。

内容自体は中学校の延長程度に過ぎないが、如何せん良成績を取りたいので過剰気味に内容を脳に詰め込んでいる。

 ここ最近、私の中で些細ではあるものの変化が起きた。奈那子の登校頻度が減ったのだ。

 入学当初は毎日のように来ていたのだが、五月に入りゴールデンウィークを過ぎると、週に二日ほどしか来なくなった。

 別に気にしているのは私だけだとは思うけど、クラスの大事な友達の一人が不登校気味になるのは少し寂しい。

 テスト前最後の金曜日ともなると流石に部活も休止期間となるため簡易的学級委員会も併せて休止した。

 まぁ、休み時間中は普通に沙良と話すので実質的はあるに等しいが、奈那子の登校頻度低下のことを話すと、そういうこともあるでしょ、と軽くあしらわれた。



 翌週になり、月曜から四日間続いた中間テストは特段トラブルも無く終えた。その期間だけはクラス全員が出席していた。そのことに学級委員の立場上、非常に安堵した。

 私は奈那子に駆け寄って嬉しさを訴えた。私が来ると奈那子は饒舌に小説の話等をして盛り上げてくれるが、私が離れると寂しそうに俯き小説を読んでいた。

 そんな日々が四日間続いた。

 


 金曜日、クラスにはただ一人、奈那子だけが来なかった。私の心の中にはぽっかりと空白が出来上がってしまった、そのことを放課後、沙良と話していた。

「結衣も考えすぎなんじゃない? 彼女、体調崩しやすい体質だとか?」

「そうなのかな。それなら体を大事にしてほしいけど……」

「奈那子ちゃんが元気でいてほしいのは私もそうだけど、あまり深く介入してしまうのは彼女にとって害になるかもしれないし程々にね」

「うん。でも……」

 そこで言葉が詰まり、その頭で奈那子の事を想う。

 中間テスト後でテスト返却が行われるため、返却後課題の指定などの情報を聞きそびれてしまうのは非常に勿体無い。

 奈那子に会いたい。

 ただその反面、その心配がお節介の域に達していることは自分でも薄々感じていた。もしそれが原因で不登校になったという事があれば、私は彼女から嫌われる覚悟を持たなければならない。

「あのー。私、奈那子ちゃんと同じ中学だったんだけど」

 私たちの会話の輪に無礼を恥ずるかのように入って来たのは、佐奈田琴葉さなだことはちゃんだった。おどおどしたのを誤魔化すために、自身の短い黒髪にイチゴのイラストのピンを取り付けていた。

「同じ中学ってことは琴葉ちゃんも満木市内出身ってことだよね?」

「そうだよ」

「まぁ、それはいいとして、奈那子はどうだったの? クラスではどんな立ち位置だった?」

 私は熱量を高めて積極的に訊きに行ったが琴葉ちゃんの応対は消極的なものだった。

「あまり友達はいなかったな。背丈の高さぐらいで他に目立つところは無かったよ」

「それだけ?」

「うん」

「もっと他には?」

「他は、あんまり……あっ、強いて言うなら、奈那子ちゃんは幼い頃に母親を亡くしているの」

「母親がいない、父子家庭ってこと?」

「うん。昔からお父さんがすごく好きで、極稀に何か話すときも題材はお父さんについてだった」

「お父さんっ子なのか……、ありがとう教えてくれて」

 同級生からの評価がお世辞にも高いとは言えなかったが、家庭環境的な確執が何かあるのだろうか。母親がいないことに起因する心理的な空洞が発生していることで、精神的に不安定になることも容易にあり得る。

 父親に自分の女性的な悩みを打ち明けるのは厳しいものがあるのかもしれない。そう思うと同じ女性として助けてあげたいという気持ちが芽生えた。

 ここで鍵となるのは琴葉ちゃんだ。同じ中学であるなら近所であるかもしれない。それなら奈那子の家を知っているかもしれない。

 仮定に仮定を重ねただけだが、思い切って訊いてみた。

「琴葉ちゃん。奈那子の家、知ってる?」

「えっと、一応、家は近所だから知ってはいるけど……」

 本当に知っているとは思わなかった。

「教えて! 今度行きたいから」

 住所を知りたいなら本人に尋ねるのが最良なのだろうが、彼女ほど寡黙だと断られそうで怖いので、別人をあてにアポなしで突撃する迷惑魔みたいな行動に陥ってしまった。それでもどうしても私が行きたいのは彼女が気になるからだ。

「結衣、突拍子も無さすぎるぞ。本当に行く気か?」

 沙良も念押しして制止させに来る。

「勿論行くわ。今のままじゃあ、もどかしさが取れない」

「あなた本当に嫌われないように気をつけな。特にお父さんがどういう人なのかわからないんだから堪忍袋の緒だけは切らさないようにしておいた方が良いよ」

「わかってるよ。なんとか奈那子に元気出してもらえるように頑張るから」

 その日の簡易版学級会は終わり教室の電気を消して三人は学校を後にした。

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