蛹
恵三
蛹
この美しい女が自分の妻だとはいまだに思えない。いまだに夢のような話だ。と、雄一郎は思う。しかし現実に美里はそこにいて、目を覚ました自分がキッチンに入れば、先に目を覚ましすでに身支度を整えた美里が、雄一郎を振り返り、一瞬目を丸めてすぐに緊張を解いた。
「おはよう、雄一郎。今朝は夜番なのに早いんだ?」
「おはよう。美里も、休みなのに早いな」
「お腹減っちゃったんだもん。ね、どうせ雄一郎もでしょ」
と幸せを込めて、名前を呼ぶ。目じりは緩み、薄紅に染まった頬の肉がふっくらと浮く。幸せの名前のつく笑い方だと、雄一郎は信じ切っている。
「ああ。お前と一緒に朝飯を食べたくて」
後ろから抱きしめると、あごの下に来る美里のつむじが揺れて、美里の顔が雄一郎に向く。手元にあるフライパンの中身がよく見える。厚切りのベーコンに目玉焼き。あらびきの黒コショウのかかったそれは、美里が得意料理だと豪語する一品だ。サラダの乗った皿に目玉焼きを乗せ、じゃーんと見せびらかしてくる美里はわざとらしく胸を張った。
「でも残念! 美里さんスペシャルは一人分しかないわよー。あなたが新しく作るならそれでもいいけど?」
「ああ、美里スペシャルを分けてくれ。足りない分は俺が追加を作るから」
「本当? さすが本職! 私、雄一郎のごはん大好きよ!」
先ほどまでに自分だけのものだと言っていた目玉焼きを一旦置いて、雄一郎の腕から抜け出した美里はうきうきとした様子で雄一郎の胸に飛びついて、すぐに離れて新しい皿を食器棚から取り出してきた。冷蔵庫から取り出したサラダを乗せて、そこに二つに割った目玉焼きを乗せた。冷蔵庫から取り出したあまりものの食材で即席のレシピに沿って調味料を選び出しながら、雄一郎は割れた半熟の黄身が、サラダの上に流れ出ていくのを、何気なく見た。
雄一郎は自分が何の価値もない人間だと、半ば本気で信じていた。子供のころから親兄弟に言われて育った呪いのようなものだったが、そんなわけがないと否定できるだけの価値が自分にあるようには思えなかったからだ。何をしても反応が悪いし、手先も不器用だ。図体ばかりデカくてまともに高校に進むだけの頭もなくて、そのまま中学を卒業後には実家を離れて住み込みで働ける仕事を転々とした。唯一向いていたのが、デカい体を活かして魚をさばくのを手伝う魚屋の実演販売だった。そこから居酒屋の経営をしている店主に声をかけられ、そこで働いて二十年経った。幸い住むところもすぐに見つかり、店主が何かと世話を焼いてくれた。厳しい職場ではあったが、あるだけ評価されたのでやりがいがあった。才能がないわけではないだろう。行儀のよい若者が専門学校からうちに来て志半ばでやめていくのに比べれば、行く当てがないせいで逃げ出すこともできない自分は筋がいいのだと店主は笑ってくれた。
美里と出会ったのは当時の同僚と飲みの席だった。どうにも酒が入ると前後不覚になる感覚が苦手で、それでも店主をはじめとして他の参加者は酩酊するほど飲むのだから付き合わずにはすまなかった。酔って往来で吐いていた雄一郎を介抱したのが、その時たまたまその場に居合わせた美里だった。冬の寒い日だったというのに、ずいぶんとあたたかな手が、背中を摩ったのを覚えている。
「大丈夫ですか」
あまりにも心地よい声に、こんなにも優しくされたのは初めてだと思うほどに酔っていた。まだ大学生の美里の前で緩んだ涙腺がぽろぽろとみっともなく涙を生んでは地面に落としていった。その自分を決して見捨てず、ハンカチすら貸してきた美里に、別れ際には連絡先を聞いていた。それが夢ではないと実感したのは初めてデートに行った時だった。連絡先に電話をかけた時も、予定を決めた時も、同僚にからかわれたときも、なんとなく夢の中を歩いているような心持で、ずっとそのままなのだ。頭の芯が熱を持って、熱でも出しているんじゃないかと思って何度も体温計を使うほどだった。
そんな不器用極まりない雄一郎に、何がきっかけだったのか美里は根気強く積極的に関わってくれた。今まで仕事以外で知人もまともにいなかった雄一郎は、一年の交際を経て大学を卒業したばかりの美里と籍だけを入れた。雄一郎の両親はすでに離婚していて、結婚の報告などわざわざしなかった。美里はすでに死別しているとのことで、墓参りに行っての報告になった。
美里を一生幸せにすると、自分の命を懸けてもと、そう墓前で誓った。熱心にお祈りしていたのはなぜかと聞いた美里に羞恥に耐えながら正直に言うと、目を丸くして、はじけたように笑った。
「ばかだなぁ、雄一郎は! 二人で幸せになるんだよ、私たちは」
小柄な美里に、どこにそんな力があるのかという勢いで背中を叩かれて、咳き込むうちに横で笑う美里につられて笑っていた。帰り道は肌寒かったが、狭い自宅に戻ってお互いの体を抱きしめ合えば、その寒さも何も感じなかった。
大きな体躯の雄一郎と比べると、美里の小柄さは際立ち、大げさに言えば大人と子供ほどの差がある。その二人が結婚したと伝えれば、一番に祝福してくれたのは店主だった。「お前も一人前の男だなぁ」なんて喜んで、雄一郎に包丁を贈った。一人前と認めて、その店主は二年後には亡くなった。
店を変え、住むところを変えて、雄一郎は美里と幸せを刻む日々を送っていた。
美里の小さく細い白い体は不健康なものではなく生まれつきのものらしい。夫婦になってからは、彼女のその肢体が己の体の上をうごめくのが、雄一郎は好きだった。紅潮する肌は汗で濡れ、甘やかな匂いを放つ無自覚なその姿には翻弄された。そのつやっぽい姿で「雄一郎」と名前を呼ばれると、もう理性が利かない。夫婦の時間を過ごし、翌朝には貞淑に微笑む彼女に、自分は参ってしまっていた。この女のためならいくらでも苦労を厭わない。泥に汚れても頭を下げることもいとわない。その思いで胸が満たされた。自分が何でもできる人間になったようで。
自分が価値のある人間になった気がして。
夜を超えて、カーテンの隙間からこぼれる朝日で照らされる、腕の中でしあわせそうに笑う美里がいれば、雄一郎はそれですべてが十分だった。
むせ返るような互いの汗のにおいの中、見つめる絡まる美里の肢体はまるで別の生き物のように見える。やわらかく熱い白い体は、幸せを詰め込んだ蛹のようで、破いてしまいそうで触れるのが恐ろしいと思う日すらある。
いつか彼女との間に子供が生まれ、一緒に老いていくのだろう。この価値もなかった俺の血を分けた子供を、それでも俺はきっと愛せるのだろうと思えた。
俺以上に、その子にはいとおしい彼女の血が流れているのだから。
白い腹に、いつか宿る幸せの形。
彼女との間の幸せが羽化するまでは、ほんの少しの時間だけが必要だった。
美しい女だ。
光源を落とした部屋の中でも、カーテンの隙間から差し込むわずかな白昼の光が、白い肌をまろく照らし出す。のけぞった腹にはあばらが浮き出て、背を丸めれば腹には緩やかな影が落ちる。呼吸を乱せばすぐに薄い肉付きの頬は赤く染まり、そうしてうるんだ瞳を、幸せを体現するように細める。下から見上げることしかできない俺を、彼女は潤んだ瞳の中に閉じ込めて、熱を込めた息と共に俺の名前を呼ぶ。そして俺の手が彼女を掻き抱き、共に果てる。
彼女のためならば何もかもを我慢できた。
美しい、その女のためなら、なにもかもを。
彼女は男の上にいる。幸福そうに吐息を漏らしている。
「あいしているわ!」
みっともなく舌を零した唇も、叫ぶように知らない男の名前に伝える声も、汗をかいた背中に張り付いた黒髪も彼女のものだった。嬌声。呼吸音。水音。俺の乾いた唇は震え、体温はみるみる下がる。体に血を送ることを忘れた脳を支配する、茹だつ血流に、目の前は赤く染まる。
「う」
彼女の声がする。暗い視界では彼女がどんな顔をしているかまでは見えない。
さなぎ。
そう、さなぎだ。
頸椎を浮かせた白い蛹の背面に、蝶が羽化するための切れ目を入れた。手にした商売道具で虫を割くのは衛生面での問題があるだろうから、明日はまた新しいものを買ってこなければならない。おやっさんがくれたものなのに、もう駄目だ。
そうだ、妻と一緒に買いに行こう。彼女も新しい鍋を欲しがっていたのでちょうどいいだろう。もう駄目だから。
柄まで沈んだ商売道具は、力を籠めると肉をあっさりと割いた。店で扱っている安い肉よりもたやすく裂ける。上等なやわらかい肉。甘いにおいがする。両手を濡らす液体は中で体を守るための羊水だ。羽を伸ばすために手を貸そうと、包丁を落とし、両手を差し込む。
幸せが生まれる。
蛹の下で男が悲鳴を上げた。蛹の中を探っている間に男は奇声を上げながら部屋を飛び出していった。
幸せを、探って、探って、探って。
中身をいくら掻き出しても、柔らかなものばかり、熱いものとともに流れ出るばかりで、なにもない。欲しいものは、何もない。
蛹の堅い中身に、愛は、幸せは、どこにもなかった。
蛹 恵三 @keizo-y
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