ゆうれい食堂

 腐葉土の着付け薬でぼくの意識は覚醒した。

 うつ伏せで顔から倒れたらしく顔面のみならず鼻や口に潜り込んだ土と葉っぱをペッペッと吐き出す。

 虫が混ざっていないのが不幸中の幸か。

 なんで土の上でうつ伏せに? いやそもそもここはどこだ。

 目の前は墨汁をこぼしたようで自分の身体さえ見えない。

 そこでポケットに会社支給のスマホを入れていた事を思い出す。

 取り出して見ると、液晶に蜘蛛の巣状のヒビが入っている。故障しているかと思ったが、思いのほか頑丈なようで操作には何の支障もなかった。

 通知画面のメールは開かずにライトを点灯させると……。

 皺だらけの皮膚と眼球がくり抜かれたように黒い穴二つがぼくを見ていた。

「……いやこれは怪異でもなんでもないか」

 こちらを見ている顔に手を伸ばす。それは水分を失いかけてはいるが、中身は詰まっていて表面は粗いヤスリのような手触り。

 木のうろの二つ横並びの穴が目に見えただけだった。

 ライトを左右に振ると、ぼくより背の高い木々が密集するように直立している。

 ……思い出した。ぼくは自殺する為にこの森に来たんだ。

 確か、えっと、頭の中で散らかり放題の机を整理するため声に出して確認することにした。

「ぼくはサラリーマン十年目の二十七歳。高校二年の時にWMRにスカウトされ、卒業後に就職。

 WMRとは世界のーー駄目だそれ以上言ってはいけない! とにかくぼくはそこで働いている。いや働いていた」

 ライトをつけたままスマホのロックを解除すると、連絡を絶ってから今までの間に上司から百件を越えるメールが届いている。全てぼくが担当する場所へ速やかに向かうようにという催促ばかりで、ぼくの安否を気遣うものはなかった。

 これが死にたくなった原因だ。

 確かに給料は同年代と比べれば破格でタワマンの家賃だけでなく光熱費と税金関係は全部会社が肩代わりしてくれている。

 お陰で口座に金が貯まる貯まる。

 いいところはそれだけ。

 いや、人から感謝されることもあるにはある。だが殆どの人は精神を病んでしまい、見ているこちらのメンタルが次々と削られていくのが早かった。

 更に日本だけでなく海外を飛び回り、七連勤は当たり前。たまの休みに家に帰っても常時誰かに見張られている気配を感じて休むどころか眠ることも出来なくなった。

 何度も退職願いや転勤願いを出すも、全て拒否され、更に今の生活環境を人質に取られた状態なので、次第に逆らう気力も無くなってしまい、遂にやめる決意をしたのだ。

 現世で生きる事を。

 そんなこんなでやってきたのが、今いる樹海。

 他にも廃校やトンネル、橋など適切な場所を無数に知っていたが、ぼくは直感で樹海ここを選んだ。

 理由は、今まで自然のないところにいたから、最後くらい生命力溢れる場所で死にたいと考えたからだと思う。

 決して樹海にいる何者かに引き寄せられたわけではない。

 多分……。

 何故ならぼくはまだ生きている。

 この森では無数の首吊り遺体や流血したまま彷徨う人影がよく目撃される。

 噂では真夜中、空に向かって走るバスがあるらしいのだが、何度も来たぼくは見た事がなかった。

 樹海に来ても、自分で自分の首を絞めることもできず、かといって会社勤めの日常に戻りたくもないので彷徨っていたところ、転んだんだ。

 足元を見ると木の根がワイヤートラップのように地面から盛り上がっている。

 視界の悪いなか、土と混ざって保護色となっていたらしく爪先が引っ掛かるまで全く気づかなかった。

 ぼくは嫌なものを発見してしまう。

 丁度ぼくが倒れたすぐそばに黒に近い茶色の木の枝が氷柱のように、夜空に向かって真っ直ぐ伸びている。

 もし倒れた時ソレが刺さっていたら、考えただけで鳥肌が立った首筋を、無意識に手で抑えていた。

 あてもなく木々の合間を縫いながら歩く。転ぶ前のぼくはどこまで分け入ったのか、人が作った道はもちろん獣道さえ見当たらない。

 闇と落ち葉に紛れた枝に足元を掬われないよう注意していると、遠くで音もなく何かが横切った。

 身体が透け、首には鋭利な枝の先端が突き刺さっている。

 不意に頭を背中に垂らしたままの胴体がこちらに向けられた。

 慌てて木の影に身を潜め、気づかれないようにと祈る。

 相手が動き出して遠くへ行ったのを確認すると、自らに問いかける。

 頼んだら、この世と永遠の別れができたんじゃないか?

 問いへ答える、嫌だ。

 そんな死に方は御免被る。ぼくはもっと楽に死にたい……楽って何?

 考えれば考えるほど死ぬという考えが何処かに行こうとしている。でも会社で一生こき使われる人生も嫌だった。

 車を回すネズミのように思考していると、小さな灯りを見つける。

 それは人魂のようにフワフワと捉えどころのない光ではなく、一定の明るさを維持している。

 人工的な光だ。

 ぼくは早足でそちらに向かう。

 導かれた先は樹海と人間界の境界線で、そこに長方形のプレハブ小屋があった。

 高さはぼくの頭が入る余裕があるが、背伸びすれば天井にぶつかるくらい。

 横幅も傍らに止まっている軽トラの方が大きいのではないかと思うほど小さなプレハブ小屋だ。

 換気扇と繋がっているのか煙突からは微かに白い湯気が上がっている。

 樹海の中では気づかなかったが、途端に芳しい匂いが漂ってきて、ぼくの腹が豚のような鳴き声をあげた。

 死のうとしている奴が腹を空かせるなんておかしいだろ。

 だが空腹を覚えたのはいつぶりだったか、仕事の鮨詰めと格闘しているうちに、食事も取らなくなり、栄養ドリンクとサプリ漬けの毎日だった。

 良くも悪くも無味無臭のそれらに比べたら、今鼻腔を刺激する匂いで痛いほど腹が鳴くのは仕方ないかもしれない。

 ちょっとだけ様子を見てみよう。

 胃を刺激する匂いの正体が知りたくなって小屋に真っ直ぐ近づくと、どうやら裏手のようで、従業員用と思われるドアがあるだけ。

 小屋の反対側から扉が開いて閉まる音が続いた。

「ありがとうございました」

 そして開閉に挟まるように声も聞こえた。

 表にまわると既に誰もおらず、明かりの漏れる引き戸の上の看板が目に飛び込む。

「ゆうれい、食堂」

 とんでもない名前だった。人里離れた樹海で深夜に営業している食堂。

 ネットの海に放流したら、面白おかしく弄ばれるのは間違いない。

 引き戸に指を添えるとちゃんと存在している事を触覚が伝えてくれる。

 名前の通りお化けの類ではないようだ。

 思い切って開けると、白いモヤに全身が包まれ、お腹を鳴らす匂いが勢いよく溢れてきた。

「あら、いらっしゃいませ」

 中は暖色の照明に照らされている。

 その下で一人の女性がぼくの方を見つめていた。

「こちらへどうぞ」

 女性が手で示したのは四つしかない椅子の一つ。

 吸い込まれるように店内に入り指定された椅子に腰を落ち着ける。

「こんな夜遅くに、よく来てくれましたね」

 調理の邪魔にならないようにか、暗紫の髪を後ろで結わえた女性に言われて気づいた。

 もう丑三つ時なのだ。

「あの、いつも、こんな時間まで営業しているのですか?」

 割烹着に身を包んだ女性はこちらの目を見て頷く。

「いいえ。いつもは九時くらいで閉めます。でもお客さんが帰るまでは開けているんです」

 先程出て行った人の事を思い出す。

 女性が何かを探るように、こちらを見つめてくるので、ぼくは頬が熱くなるのを自覚する。

「よかったら、これ使ってください」

 渡されたのは卸したてといって差し支えない真っ白なタオル。

「顔、泥だらけですから」

「ありがとうございます」

 ぼくはタオルで顔全体を包み込むように拭いていく。少し熱いくらいの暖かさが心地よい。

 すると、またお腹が鳴き声をあげた。

 腹筋に力を入れても効果なく、その音は小さな店内を埋め尽くす。

「今、食事用意しますね」

 腹の虫が聞こえた事を誤魔化す風もなく、女性はぼくの目の前で何かを作り始める。

 年季の入った鍋蓋を開けると、外で嗅いだ匂いがより一層強くなった。

 じっと女性の一挙手一投足を見ていると……。

「ごめんなさい」

 顔を上げた女性に謝罪された。

「す、すいません。ずっと見てしまって」

 女性が小首を傾げる。その仕草が小鳥のようで愛らしい。

「見られるのは構いませんよ。そうではなくてですね。ここでは出せる料理が二つしかないんです。おむすびと豚汁。作っている途中ですが、その二つでいいですか?」

「全然いいです。どっちも大好物です」

 即答すると、女性は眉を八の字にして笑みを浮かべた。

「分かりました。すぐ用意しますね」

 待っている間もスラックスのポケットは着信を告げる振動が収まらなかった。

 目の前の机に置かれたのは、お椀に入った豚汁と、海苔の巻かれていない裸のおむすびが二つ。

「おむすびは豚汁との相性を考えて塩むすびになったんですよ」

 ぼくが箸を持とうとすると、タイミングを図ったように携帯が震える。

 躊躇せず電源を切ると液晶を下にして机の上に置いた。

 改めて箸を持つと、

「いただきます」

 えっと思った。いただきますなんて何年ぶりに言っただろう。しかも声を出して。子供の頃は言っていたかもしれないが、それでも食べれる事に感謝の気持ちを込めたのは今日が初めてだった。

 まずは汁から。味噌の味はさっぱりしていながらも、しっかりとした味を舌に伝えてくれる。

 その後に角の取れた艶々のおむすびを頬張る。

 人前で指や頬に米粒がついても気にならないほど大口を開けてかぶりつく。

 よくある具沢山の豚汁と銘打たれたモノが霞んでしまうほど、両手で持った豚汁は重い。

 豚肉が美味しいのはもちろんのこと、目を見開くほどの大きめ野菜が汁と脂の中で自らの魅力を存分に解き放っていた。

 気づけばお椀も皿も空になっている。

「おかわり、まだありますよ」

「お願いします」

 差し出したお椀とお皿を受け取った女性の方が、何故か幸せそうに見えた。

 おかわりをもらったぼくは、このお店の事を知りたくなって訊ねると、女性は洗い物をしながら快く答えてくれた。

 元々祖父母が始めた食堂らしく、看板の名前もゆうれいではなく女性自身の名前が使われていたらしい。

 孫を溺愛していた二人の愛情の大きさが分かるが、流石に恥ずかしかったので、看板をひらがなに直したそうだ。

 ちなみにどんな漢字が使われていたかは教えてくれなかった。

 話を聞き終えた頃には二杯目も完食し、ぼくのお腹はすっかり落ち着きを取り戻した。

 代金を支払うためにポケットに手を伸ばしたところで気づいた。

 財布がない。

 樹海で転んだ時にでも落としたのか、死ぬ事ばかり考えて、全く気にしていなかった。

「あの、すいません」

「はい」

「お会計をしたいのですが……」

「お代は結構です」

「財布を無くしてーー今なんて?」

「お代は結構です」

 以前みたいに狸か狐に化かされているのか。

「冗談ですよね」

「いいえ。本当に払わなくて大丈夫です」

「でもタダにしたらあなたの方が色々と困るんじゃ」

「大丈夫です。祖父母が残してくれたもののおかげで、生活には余裕がありますから。でも、心配してくれてありがとうございます」

 ぼくは女性に見送られながら食堂の外に出る。

「あの、せめて無料にしてくれた理由を教えてください」

「お客さん。何か辛い事があったんじゃないですか。泥まみれの顔でも、ハッキリと出ていましたよ」

 思わず目頭が熱くなった。

「私、祖父母から二つ受け継いだものがあるんです。一つはこのお店。もう一つは二人の口癖」

「口癖、ですか」

「はい。『生きる事に疲れた人からはお金を取らない』です」

 その言葉に胸の内側がじんわりと湯たんぽのように温かくなる。

 女性に見送られながら、舗装された道を歩き始めた。お腹から全身に力が漲り、自分でもコンプレックスだった猫背が真っ直ぐ天をつくように伸びているのが分かった。

 歩いていると電灯に照らされたバス停を発見する。

 帰ろう。今はその三文字だけが心を占めている。過去や未来への悩みが入る隙間もないほどに。

 椅子に座ってすぐ、二つの明かりが遠くで灯り、タイミングよくバスがやってきた。

 ぼくの目の前で停車すると、入口のドアが開かれる。中には何人かの人影が窓越しに見える。

 乗り込もうと腰を上げたところで、別のエンジン音が聞こえてきた。

 バス特有の重々しい音と違い、言い方は悪いが飛んでいる蜂の羽音に似ている。

 正体は原付だ。

 乗っているのは紺色の制服を着ていることから警察官だと思う。

 こんな夜中に事件でもあったのだろうか、もしかしたらぼく以外に自殺した人がいて、その遺体が発見されたとか。

 原付は速度を緩め、やがて完全に道の真ん中で停止した。

 ライトをつけたまま警察官が原付から離れる。

「やっぱり。女将さん、こんな夜中に外出歩いて何かあったんですか」

 ぼくを素通りした警察官の視線を追うと、女将さんと呼ばれたあの女性がこちらに走ってきていた。

 洗い物の途中だったのか、着用している割烹着の腰の辺りが濡れて電灯の光を反射している。

「駐在さんよかった。ここに来るまでにサラリーマン風の男の人を見ませんでしたか? お客さんなんですけど、忘れ物したみたいで」

 女性が警察官に見せたのは黒いスマホ。

 よく見ると液晶に蜘蛛の巣状のヒビが入っている。

「あの、それぼくのです」

「いや、誰もいなかったが」

「そうですか」

「もしかしてその男は……」

「あの、お話中すいません。スマホぼくのだと思うのですが」

 バスのエンジン音がうるさいからか、全然気づいてくれない。更に近づこうとすると、

「多分、もう亡くなっているんだと思います」

 女性の言葉を聞いて足が止まった。

「実は本官は女将さんに用があったんだ。ついさっき駐在所に連絡があってな。ある男性が樹海で自殺の恐れがあるので捜索してほしいと。服装はーー」

 警察官の言う特徴は完全にぼくと一致している。

「本官は見ておらず女将さんは接客したという事は、店に来た時には既に……」

「そうだと思います。祖父母なら気づけたんでしょうけど、私には全然」

「女将さん。もしかしたら、まだこの辺りにいるんじゃないですか」

 女性が周囲を見回し、当然の如く街灯に照らされたバス停を見た。

「いいえ。ここにはいないみたいです」

 ぼくにはハッキリと分かってしまった。

 女性の視線はバス停に向けられていた。

 停留所を塞ぐようにバスが停車しているのに、その奥を見ていたのだ。

 バスのエンジン音も二人には聞こえていない。だから普通に会話できている。

 二人はいまだにぼくの行方の事で話しているようだったが、聞き耳を立てる事をやめ、目の前のバスに乗り込んだ。

 料金を払わずに空いている座席に座ると扉が閉まり、氷上を滑るように滑らかに発車したバスは満月を横切るように上昇していく。

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