第5話
しばらく通りを歩いていくうちに徐々に心が静まってくると、七右衛門は後悔した。つい頭に血が上って何も聞き出せないままに店を出てしまったが、これでは明日以降の対策を立てようがない。しかし、今更戻る訳にもいかなかった。
七右衛門は通りの真ん中で立ち止まってしばらく考えていたが、歩を進めて問屋街を東に折れて小舟町にある紅屋「亀井屋」に向かった。主人の千代鶴とは懇意にしている。何か事情を聞けるのではと思った。
「あれぇ、聖さんではないですか」
暖簾を潜ると奥の帳場にいた小柄な千代鶴が立ち上がってササっと足早に近付いて来た。千代鶴も俳句に熱を上げており句会で何度か顔を合わせていた。江戸の商人らしく真っ直ぐな物言いは小気味よく、相手の心をつい慮り言葉を選びがちな七右衛門には、その往生際の良さに憧れもあった。
「いやあ、お久しぶりです。そうか、その季節ですなぁ」
加えて、たかをはじめとして三浦屋の女のほとんどが亀井屋の紅を使っており、その大半は七右衛門が運んで来た出羽最上産の花から作られていることもお互いに親近感を抱く理由だった。千代鶴が七右衛門の肩に手を掛けて上がるように促した。
「ああ、そうそう、是非知らせようと思っていたことがあって。前回の句会で芭蕉さんが言っていましたよ。今度の旅は奥州にするそうです。更に羽州にも回って尾花沢にも是非行きたいと、良いですなぁ、自由人は。それで来年くらいを考えているらしくて・・」
七右衛門が右手を突き出して千代鶴の口を止めた。
「すまない鶴さん、その話はまたの機会に。実はちょっと聞きたいことがあるのだが」
頷く千代鶴に、七右衛門が競の状況を説明した。見る見る千代鶴の顔が強張った。
「それはおかしい。話が違う。鈴屋さんには、うちは高くとも出羽最上産を買うと言ってある」
鈴屋とは亀井屋が買い付けを頼んでいる問屋である。
「特に聖さんの花は、中からの注文が多いから必ず買うことで取り決めている。それで向こうも了解しているのに、買い付けに行かなかったとぁ、話が違う」
千代鶴が土間に降りて店を出て行く素振りをした。
「何処に行くのだ」
「鈴屋だ」
千代鶴があっという間に出て行った。七右衛門は呆気にとられてしばらく入り口を見つめていたが、やがて店の者が座るよう促した。板の間に腰を下ろすと茶と茶菓子が出された。
半刻ほどで千代鶴が戻って来た。興奮しているのだろう、真っ赤な顔で鼻の穴を大きくしている。
「分かったよ。どうやら黒幕は柿川屋のようだ」
七右衛門の派手な金遣いを快く思わない繁太郎は問屋を集めて何とかして七右衛門を困らせようと相談をした。そこで考えられたのが、七右衛門の競には誰も買い付けに行かず値を下げさせて、あわよくば投げ売りさせようということだった。問屋のなかには渋る者もいたが、繁太郎は頭領の権限で強引に皆を従わせたという。
繁太郎の一連の言動とその理由が繋がった。しかし、そこまでする気持ちは七右衛門には到底理解が出来なかった。他人が自分の行いに対して何を思おうと構わないが、それを理由に嫌がらせをされるいわれはない。ふつふつと怒りが湧いて来た。
「鶴さん、他人の散財はそれほど気に食わないものかね」
「肝っ玉の小さい奴ならこんちくしょうとは思うだろうね。しかし、だからといって困らせてやろうとまでは普通は思わねえなぁ。聖さん、柿川屋と前に何かなかったかい」
昨日初めて会った男だ。思い当たる節はない。だが、確かにそこまでするには他に訳がありそうな気もした。七右衛門はモヤッとした気持ちのまま首を横に振った。千代鶴が頷きながら上目遣いに七右衛門を見据えた。
「そうかい。それじゃあ理不尽な言い掛かりだな。どうする、聖さん」
黙って引き下がる気は無かった。腹を決めた。相手が江戸流の商売をしろと言うのなら、江戸流で相手をしてやろうと思った。
「こういう時、江戸の商人はどうするのだい」
「売られた喧嘩を買わなきゃ男が廃るというものよ。助太刀するぜ」
「有難いが、鶴さんに迷惑はかけられない。これは俺に売られた喧嘩だ」
「いや、もう聖さんだけの問題じゃない。鈴屋のような何ら関係ない問屋から、更にはあっしら紅屋まで巻き込まれている」
七右衛門と千代鶴はお互いに目を合わせて頷いた。
「そうと決まりゃあ、どうやって柿川屋をとっちめるかだ。あの野郎も遊び人という話だから叩けば埃が出てくるのだろうが、商売での喧嘩は商売でけりを付けるのが筋だな。うん、なら相手が投げ売りをさせるほど安く売らせようとしたのだから、その逆を行けば良い訳だ。どうだい、思い切り高い値で売り付けるってぇのは」
「なるほど、そりゃあ良い」
千代鶴が草履を脱いで板の間に上がると七右衛門を手招きした。
「まあ、ここじゃなんだ、奥で策を練ろう」
店の者が遠巻きに見つめる中、二人は奥に消えた。
半刻後、七右衛門は湊に急いだ。手には風呂敷を抱えている。
陽はまだ高くちょうど羊の刻を回った頃だ。島津屋の詰所で浅吉を呼び出してもらった。何かを食べていたのだろう、浅吉が口をもぐもぐさせながら出て来た。
「お楽しみの所悪いな、ちょいと頼みがあるのだ」
「ちょうど食べ終わった所ですよ、何ですか」
七右衛門が周囲を見回した。
「人目につかないところが良いのだが」
「なら、中にどうぞ。今日は終わりですからもう皆帰りますよ」
七右衛門が詰所の中に入ると、中にいた数名の男たちが出て行って浅吉と二人きりになった。二人は後座を敷いた板の間に上がって座った。七右衛門がこれまでの経緯を語った。浅吉は興奮した顔で聞いていたが、やがて納得したとばかりにポンと膝を叩いた。
「何かおかしいと思ったのですよ。頭領が何日か前から毎日のように湊に顔を出していたのは、つまりは七右衛門さんを待っていたからなのだ」
七右衛門は頷くと風呂敷包みを解いて紙の束を取り出し、一枚を持って浅吉の前に置いた。
浅吉が紙を手に取ると声を出して読んだ。
「今年の紅花はいずれの問屋かたでも不要不取引のおもむき さればとて せっかくの荷物を国に持ち帰るのも商人の名折れ故 来る七月二日の午の刻に 品川の海岸でぜんぶ焼却するから 勝手に検分されたい 島田屋七右衛門」
浅吉がポカンと口を開けて七右衛門を見た。
「これは、つまり・・」
「つまり、柿川屋に喧嘩を吹っ掛けられたからには、相手をしてやろうという事よ。頼みというのはほかでもない、明日の朝、江戸中にこの紙を張り出して欲しいのだ。特に、問屋や紅屋がある所には重点的に頼むよ」
七右衛門が紙の束をスッと前に差し出した。浅吉が興奮したように顔を紅潮させて頷いた。
「合点承知、任してくんなさい」
浅吉は手に持った紙に目を移したが、急に顔を曇らせて不安そうに視線を向けた。
「でも、本当に花を燃やすのですか」
「いや、そこで、もう一つ頼みがある。何か、鉋屑とか燃えやすいものを大量に手に入らないかい。それを花に見せかけて燃やそうと思っている」
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