第4話
翌朝、湊に行くと既に多くの人足たちが動き回っていた。陽はまだ高くなく、涼しさを運ぶ潮風が心地良い。昨日浅吉が指定した場所には七右衛門の荷が積まれていた。荷の具合を確認していると浅吉が近づいて来た。
「早いですね、競の時刻にはまだだいぶありますよ」
「ああ、水を被った様子を確かめようと思ってね。どうやら大丈夫なようだな」
浅吉が高く積まれた荷を見上げながらそれに手を掛けた。
「五つも流されたのでもうほとんど無いのかと心配したのですが、これじゃあ全く影響なしですな。これだけ集めるとは驚きました。大したものだ」
「逆に売りきれるかが心配だ。まあ、出来れば半数は売りたいな」
「そうですなぁ、高値では難しいでしょうが、安くすれば何とかなるのでは無いでしょうか。安い花が売りの店にも多めに買って貰えば、半数は行くでしょう」
紅の品質は色で決まる。最も重視されるのが唇や頬に塗ったときの色である。紅餅の状態で産地から運ばれた花を、問屋を通して購入した紅屋が紅餅から紅を抽出の上精製して容器に入れ、あるいは客が持ち寄る入れ物に入れて売っていた。赤の色素は花弁の僅かな部分にしかないため、より赤い色素が多い花を栽培して、洗浄により黄汁を上手く抜き、更に、より赤みを増す発酵が出来るかといった花を栽培する百姓の技術が紅の品質を左右していた。
どの客も質と値段の兼ね合いを考えて紅を買う。質に折り紙付の出羽最上産が他国産と同じような値段であれば、誰もが最上産に手を出すに違いない。今回ばかりはかなり安い価格で売っても仕方がないと思った。不本意ながら、繁太郎の意に添った商売をすることにならざるを得ない。
競の時刻が近づいて来た。陽が高くなり暑さも増して来た。汗が出て水を何度も飲んだせいであろう、七右衛門はすっかり酒が抜けていた。
浅吉に頼んで手配してもらった手伝いの人足が数名荷を囲んで立っている。彼らには、問屋の注文に応じて数量を整えて、引き渡す分量に仕上げてもらう。皆が手持ち無沙汰そうに立ちながら額から首と胸にかけて汗を光らせている。
「ご苦労だな。熱いだろう、遠慮なく水を飲んでくれ」
一人の人足が水桶に近付いて、むさぼるように水を飲んだ。飲み終わるとフウと息を吐き七右衛門を見た。
「しかし旦那、誰も来ませんね」
七右衛門も気になっていた。買い付けに来る問屋が少ないとか集まりが悪いのではない。一人も来ないのである。何か間違いがあったのかも知れないとも思ったが、これまで浅吉に頼んだことでそのようなことが無かったため、それも考え難かった。
人足が交互に水を飲み出した。陽が更に高くなり暑さも増すなか、静けさだけが変わらなかった。座っている木材が熱を帯びて来ているのが尻を通して分かった。決めた時刻から既に一刻は過ぎているだろう。七右衛門がゆっくりと腰を上げた。
「皆、ご苦労だった。誰も来そうにない。もう終わりにしよう」
人足がうず高く積まれた荷に筵を掛けて縄で括り終えると、彼らに手間賃を渡して解散させた。七右衛門は、今日のことは忘れて明日以降どうするかを考えようと思った。しかし、明日も問屋が一人も買い付けに来ないのではという不安が胸をよぎった。少なくとも、それが何故であるかは知りたかった。足早に湊にある津島屋の詰所に向かった。
入り口で中の様子を伺うと、浅吉が気付いて出て来た。
「早かったですね、首尾はどうでしたか」
「何か様子がおかしい。問屋が一人も来ない」
浅吉が驚いたように目を見開いた。七右衛門が顔を近づけて声を潜めた。
「思い当たる節は無いかい」
浅吉がしばらく考えていたが、ハッとして詰所の方に顔を向けると、人目をはばかるように七右衛門の袖を掴み入口から離れた路地裏に引いて言った。
「いえね、確か半刻ほど前ですが、頭領を見かけたのですよ」
「柿川屋か」
「へい、そこの先の建物の陰から競の場所の方を伺っているようでした。てっきり買い付けに来たと思っていたのですが、そういえば何か様子が変でしたね」
「変とは」
「妙にコソコソしているのでさぁ。日頃の横柄な態度からは想像が付かないほどに」
確かに普通の行動では無い。何か訳があると思えた。
七右衛門は柿川屋に向かった。昨日は顔も見たく無いとは思ったものの、全く花が売れない状況を放置する訳にもいかなかった。繁太郎に頭を下げて問屋や紅屋の様子を聞き、少しでも売れる方策を講じられればそれに越したことはない。そして、今日の繁太郎の行動も気になった。
店は日本橋の問屋街にある。そうそうたる有名な店が通りの両側に連なり屋号をあしらった暖簾をはためかせている。その中を、多くの商人が店に出入りし、通りを行き来している。柿川屋の暖簾をくぐって使用人に用件を伝えると、直ぐに繁太郎が顔を出した。
「これは、これは、珍しい。誰かと思えば島田屋さんではないか」
繁太郎が満面に笑みを浮かべて板の間に座るよう促した。七右衛門が座ると、繁太郎も近くに腰を下ろし、前屈みになり探るように鋭い視線を向けて来た。
「それで、どうだった、今日の競は」
「さっぱりでした。柿川屋さんもご覧になったのではないですか。湊でお姿を見かけたと言う人がいましてね」
繁太郎が上体を起こして頭に手を当てた。
「カッカッカ、いやぁ、悪いことはできないな。うちは、今回は見送ることにしたのだが、やはり気になって、近くに行ったものでついでに様子を見に行ったのだ」
「そうでしたか。昨日教えていただいたように、決して高い値で売ろうとは思ってはいなかったのですが、そもそも買いに来る者がいないのでは、どうしようもありません」
繁太郎が笑みを堪えるように頬と口をヒクヒクさせている。明らかに他人の不幸を喜んでいる表情だ。七右衛門は思わず目を逸らした。
「確かに、誰も来ていなかったようだなぁ」
「ええ、このような事は初めてです」
「出羽最上産の花は高いから、そりゃあ買い控えもあるだろう。安くすればそれなりに売れるさ」
「安くしようにも、買い付けに来てもらわないことには値段を付けようがありません」
「あの膨大な花が売れ残っていると知ったら、皆が安売りすると思うだろう。どうだ、思い切って投げ売りでもしたら」
七右衛門は繁太郎に頭を下げることに気が進まなくなってきた。
「そればかりは出来ませんね。多少安くはしても、出羽最上の花の値崩れを起こすような額は付けられません」
繁太郎はスッと上体を起こして斜に構えた。
「それじゃあ、あのような膨大な量を売り切れないぞ」
「それで売れ残るのであれば仕方ないと思っています。本音を言えばあれを全部売ろうとは思っていません。良くて半分でしょうか」
繁太郎がフンと鼻で笑った。
「半分も売れるかどうか」
七右衛門は堪らず立ち上がった。これ以上、この男と冷静に話すことが出来そうもなかった。ゆっくりと体を繁太郎に向けてその顔を見据えた。
「質には自信があります。良いものが相応の値で売れてこそ、真っ当な商売だと思っています。島田屋は決して投げ売りなどはしないと、組合の皆様にはその旨お伝えください」
七右衛門が頭を下げて背を向けると繁太郎のボソッとした呟きが聞こえた。
「吉原なんぞで遊んでいるからだ・・」
七右衛門は一瞬立ち止まったが、拳を握りしめてそのまま店を出た。
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