第3話

 七右衛門は浅吉との段取りを終えると吉原に向かった。


 御目当ての三浦屋は、大門を入って真っすぐ仲之町を進むと右手奥の京町一丁目にある。その木戸門を通ると、煌びやかな明かりに照らされた朱色の鮮やかな格子が続いている。久しぶりにその情景を堪能して、七右衛門は店の暖簾を潜った。


 番台に座り、煙管をくわえて煙草をふかしていた痩せた女が顔を上げた。女将のきくだ。


「おやまあ、聖さん。お久しぶりねぇ」


 七右衛門は俳名では鈴木聖風と名乗っていたことから、それを知る者の間では聖さんと呼ばれていた。七右衛門が微笑んで頷くと、きくは煙管で煙草本の灰落としの縁をポンと叩いて灰を出し、ゆっくりと腰を上げた。


「もうそんな時期なのね。今年の花の出来はどうなの」


 七右衛門は草履を脱いで手拭いで足に付いた土を払った。

「嬉しいことに、いつになく上々の出来ですよ」

「そりゃあめでたいことで。しっかり稼いで、毎日でも此処に通ってくださいな。ああ、それでねぇ、たかちゃんが太夫になったので、揚屋を通さないといけなくなってね。悪いけど決まりだから」


 この頃の吉原では、太夫などの高級遊女と遊ぶ場合、客は遊女を抱える置屋に直接は行かず、揚屋といわれる場所を提供する店に行き遊女を呼ばなければならなかった。呼ばれた遊女は派手に盛装し従者を引き連れて客を迎えに行く。いわゆる道中である。待つ間、客は派手に遊興するのが粋とされた。


「それは知っていたが、今日は空いているのかを聞こうと思ってね」

「しばらくは大丈夫だよ。殿様は国に帰っているらしいから」


 高尾太夫ことたかには身請け話が持ち上がっていた。相手は陸奥仙台藩主の伊達綱宗である。綱宗は一目見て彼女にぞっこんとなり身請けを申し出る。しかし、彼女にはその気は無かった。そこで、相手に諦めさせようとして法外な身請け金を吹っ掛けたが、意外にも綱宗は即座に快諾。そのため、今更たかの方から断ることが出来なくなっていた。


 七右衛門もこの話は耳にしていた。身請けする相手が一国の藩主であれば、たかにとっては願ってもない話である。彼女の幸せを願うのであれば、当然喜ぶべきだろうと思った。しかし、そういう気持ちにはなれなかった。そして、たかが身請けに消極的であるという話を聞いた時、七右衛門は少しではあるが胸が高まった。


 七右衛門はきくを見て頷き、又草履を履いた。

「そうか、じゃあ遠慮なく指名させてもらおうか。で、どの揚屋でも良いのかい」

「良いけど、そうだねぇ、出来れば磯屋さんか粟屋さんだと有り難いね。ちょいと借りがあるもので」


 夜が更けていく。


 眩い明かりの中で派手な衣装姿を見たときには、たかがすっかり変わってしまったと思ったが、抑えた蝋燭の灯に照らされた差し向かいで見る姿からは、七右衛門が思い続けた知的な女の輝きを感じた。


 彼女が差し出した銚子から注がれる酒が、七右衛門が持つ猪口にゆらゆらと蝋燭の光を受けながら満ちていく。七右衛門はそれを口にした。


「気が乗らないらしいな。六十二万石の大名だぜ。誰でも願ってもない話だと思うが」


 たかが銚子を膳の上に置いた。


「聖さんは、大名の娘を嫁にもらえと言われたら、喜んで迎えるの」

「なるほど、それは無いな」


 たかは、右手で後ろ髪をそっと触って、視線を下げながら長いため息を付いた。


「御殿様に恥をかかせてはいけないと思って、こちらから断るのではなく、諦めてもらおうと思ったのよ。だから、その時着ていた重い着物ぐらいの小判の身請け金でなら受けても良いと言ってしまったの。それを、あたいが申し出を受けたと思ったようねぇ」


 さすがにそう言った以上は今更断れないと七右衛門にも思えた。一方で、仮にはっきりと断ったならば、それはそれで大騒動になっただろう。たかの苦しい胸のうちが伝わってきた。


「女の気持ちを察するような男じゃ無かったということか」


 たかが顔を上げて七右衛門を見つめた。その眼には何かを欲する色があった。


「あたい、聖さんが良かったなぁ」


「おい、何を言うかと思えば・・」


 七右衛門は言葉に詰まった。そう言われて嬉しくないはずは無い。しかし、自分に何かを期待されても困るという気持ちが先立った。


 七右衛門も、たかの身請けを全く考えていなかった訳ではない。出来ればそうしたいと思ったほどだ。しかし、最初の妻を吉原から身請けして、又も吉原からということには抵抗があった。更に、今の七右衛門には太夫の膨大な身請け金など払う余裕は無かった。せいぜい、年に数回通うぐらいが望みになっていた。自分のそういう消極的な気持ちはたかも当然感じていると思っていた。だから、この言葉は意外だった。


 たかは塩原塩釜に生まれた。家は貧しく、幼い頃から家計を助けるため元湯の名湯として有名な茗荷屋に奉公に出た。利発で働きぶりも良かったことから、湯治に来ていた三浦屋の主人に気に入られて引き取られる。実家には相応の金が支払われた。

 実家では父の命に従いながら家事に従事し、茗荷屋では主人や女将が言うままに昼夜を問わず動き回り、三浦屋では店と花街のために主人の意向で稽古ごとに励みながら客を取り、そして今、好きでもない異国の藩主に身請けされようとしている。


 自分の容姿や才能への褒め言葉が嬉しくない者はいないだろう。しかも、周囲の誰もがたかちゃんは幸せだと言ってくれている。しかし、その幸せといわれる全ての事柄が彼女の意思とは関係なく周囲の男たちの想いで決められていくことには、満足とは程遠い葛藤を感じているに違いないと七右衛門は思った。


 七右衛門は無言で一杯、二杯と手酌で酒を飲んだ。


「ふふ、聖さん、そんなに真に受けないでよ。でも、真に受けてくれて、うれしい」


 七右衛門は少し気が楽になった。そして、たかの気遣いが嬉しかった。


「人生って、思う通りには行かないものね」

「考えてみれば、それが普通なのだ。思い通りの人生などあるはずがないだろう」


 たかがしばらく考えていたが、ゆっくり頷いた。

「それはそうね。そして、思い通りが幸せなのかもわからないわね。でも、少し憧れるわ」

「仮にそうなると、俺は妻に先立たれることもなく、其方は此処に売られることもなかったことになる。つまり、今こうして俺が其方と居ることもかなわぬ」

「それも、少し寂しくなる話ねぇ」


 たかがフフっと笑った。七右衛門が目を瞑った。


「望まぬと言いつつ楽し夏の夜、か・・」

「あら、よく気持ちが伝わるわ。じゃあ、あたいが詠むわね」


 たかが少し上を向いた。


「叶わぬと思っても待つ夕涼み」

「ほう、良いな」

「夜濯ぎをしながら思う望む人」

「・・うん、なかなかだ」

「風鈴の音色に胸をときめかせ」

「・・・」

「まあ、あたいの今の気持ちは、ままならぬこの身を癒す夏の風、かな」


 七右衛門はたかを見詰めた。勤めて明るく振る舞っているのだろう。これまでも、望まない人生とはいえしたたかに生き抜いてきた強さは感じていた。これからも、心の内はどうであれ間違っても涙など流さないだろうと思った。


 夜が更けていった。

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