第2話
七右衛門は自分の荷が着く時期を考慮して江戸に入った。
江戸湊は活気に溢れている。品川沖の大型船から小型船に瀬取りされて運ばれた多くの荷物が所狭しとばかりに積み上げられ、荷を運ぶ人足や仲買人などが声を出しながら動き回っていた。
七右衛門は商人としての血が騒ぐように胸の鼓動が早くなった。この賑わいを肌で感じるたびに生きているという実感を呼び起こされた。今年も無事にこの場所に立てたという満足感も加わり、はやる気持ちを抑えきれずにその中に入り込んで行った。
「こりゃ七右衛門さんじゃございやせんか」
振り返ると法被姿の色の黒いガッシリとした体型の男が立っていた。
「おう浅さん」
男は廻船問屋「島津屋」の湊番をしている浅吉である。七右衛門は船便の手配と輸送を島津屋に頼んでいる。浅吉とは二十年近く懇意にしていた。真っ直ぐで愚直なところがあり、頼んだことはしっかり完了させていたため信頼を寄せていた。裏がなくからっとした性格も気に入っている。浅吉が頭に巻いていた手拭いを取って丁寧に頭を下げ、七右衛門も頷きながら微笑んだ。
「一年は早いものですねぇ、もう紅花の時期ですか」
「浅さんも達者でいたかい」
「ガキが五人に増えましてね」
「盛んな様だね」
「それぐらいしか能がねぇんですよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
運ばれてきた荷は紅花を専門に扱う問屋へ売り込むことになるが、その口利きも廻船問屋が行うことが常であった。島津屋を通じて問屋を束ねる組合の株仲間に話が行き、各問屋が小売の意向を聞き湊に品物を買い付けに来る。
浅吉が何かを思い出したように急に顔を曇らせた。
「それで、悪い知らせも入っていましてねぇ。先日の嵐で海が荒れた時、積荷が大分流されたそうで、どこの荷がどれくらい無くなったかははっきりしませんが心配しています」
七右衛門の顔に緊張が走った。気持ちが高揚していたところにいきなり冷や水を浴びせられた。不安がじわりと心を覆っていったが、冷静さを装いながらゆっくりと腕を組んだ。
「様子はいつ分かる」
「へい、船は沖に着いていますから、積荷が運ばれ出したら分かるでしょう」
「嵐じゃ仕方ないな。船での輸送にはつきものだ。全部でないことを祈るしかない」
「後ろに積んだ荷のいくつか、と言っていましたから全部ではないでしょう」
七右衛門は少し安堵して腕組みを解いた。こうした場合を考えて、一人の荷主の積荷は船の中では一ヶ所ではなく分散して積まれていた。少なくとも自分の荷が全部流されたことはないだろうと思えたのだ。
「ああ、それから・・」
浅吉がゆっくりと後ろを振り向いた。
「ちょうど組合の頭領が見えていますよ」
浅吉の顔が向いた方向に七右衛門は視線を移した。紺色の羽織姿のスラリとした背の高い男がこちらに顔を向けている。七右衛門と目が合うと軽く会釈をした。七右衛門も頭を下げた。組合の頭領であるなら柿川屋のはずだが記憶に無い顔だ。男がゆっくりと近付いて来た。
「柿川屋さんは頭領を辞めたのか」
浅吉が振り返った。
「ああ、いえ、柿川屋の若旦那です。そうか、会うのは初めてですね。半年前に先代が亡くなって若旦那が店を継いだのですよ。組合のほうも、そのまま頭領になっています」
柿川屋の先代とは付き合いも長く何度も会っている。温厚で誠実な昔気質の商人だった。度々世話にもなった。知っていたら何がしかの弔意を示せたのに礼を欠いてしまった。七右衛門は悔んだ。
「あっしは流された荷の様子を聞いてきあす」
浅吉と入れ違いに男が目の前に立った。八尺はある上背で目の前に立たれると威圧感があった。やや色白の細面で、切れ長の目から鋭い視線を七右衛門に向け不敵な笑みを浮かべている。
「お初にお目にかかります。柿川屋の繁太郎です」
体と態度には到底似つかわしくない甲高くかすれた細い声だ。その予想を裏切る組み合わせの異様さに、七右衛門は思わずゾクッとした。
「島田屋の七右衛門です。先代には大変お世話になりました。亡くなられた事を知らずに大変失礼いたしました」
繁太郎がフンと鼻で笑いながら首を振った。
「いやぁ、カッカッカ・・」
乾いた感情の無い笑い声が耳に障り七右衛門を不快にさせた。
「しかしですなぁ、いくら江戸で花を高く売って羽振りを利かせる島田屋さんとはいえ、まさか、出羽のような地の果てまで知らせる訳にはいかないでしょう。それに、親父は天下の江戸商人ですから。もっとも、親父があなたとどの程度付き合いがあったかは、私は知りませんがね」
七右衛門はムッとして思わず繁太郎を睨んだ。挨拶への返答がいきなりの売り言葉で、その内容も耐えがたい侮辱に聞こえた。ここは黙っている訳にはいかないと思った。
「知らせをよこせなどとは言っていません。早めに知ったらそれなりに弔意を示せたと思っただけです。それに、出羽の紅花が高くても売れるのは、土地や気候が花に合っているのと栽培する百姓の技術が高く品質が天下一だからです。ついでに言わせていただければ、出羽は地の果てなどではありません」
繁太郎は七右衛門の気勢を削ぐように眼を逸らして横を向いた。
「江戸で商売をするのなら、江戸商人の気に触るような真似はやめた方が身の為だ」
七右衛門はいつか親しい商人が話したことを思い出した。江戸の問屋や小売の中には、七右衛門が江戸で儲けた金で吉原に通い、遊女まで身請けしたことを快く思わない者もいる、という忠告だった。確かに、よそ者のこれみよがしの派手な散財は反発を招くものだろうとは思ったが、同時に、これが同じ江戸商人の行為であったならば話題にさせ上らないだろうという思いもあった。他国の商人を見下す江戸商人の思い上りを強く感じた。
しかし、そうはいっても商売相手と喧嘩するのは得策ではない。相手は問屋、しかも組合を束ねる頭領。これから始まる今季の商いを考えると、ここは機嫌を取ることに徹すべき場面だ。むかつく心を必死に堪えて、無理に笑顔を作った。
「田舎の商人故に、この歳になってもなかなか思いが至らないところもあります。まさに郷に入れば郷に従えですな。いや、御もっともでございます」
見本のような歯の浮く台詞に尻がむずむずしたが、これが高値で売れることに繋がればどうということは無い、商人とはそういうものだ、と七右衛門は自分に言い聞かせた。
繁太郎が向き直って口元を緩めた。見下すような目つきはそのままだ。
「出羽での商いでは出羽のやり方があるように、江戸で商売するからには江戸流でお願いしたいということさ。江戸の民のために、商人皆が助け合いながら商売を成り立たせている訳だ。一人だけ儲けていい思いをするなぁ、いただけませんな」
この時期の紅花の生産高を見ると七右衛門らが扱う出羽最上産が全国の四割強を占めており、しかも最高品質のものと重宝がられて高値で取引された。従って、紅花の売り上げの殆どは七右衛門をはじめとする出羽の商人が独占していると思っている繁太郎の認識も、あながち間違いとまでは言えない。
「確かに、出羽産の花は評判が良いため、多少高値でもそれなりに売れております。私どももそれに甘え、つい強気の値をつけていたのはその通りでございます」
繁太郎がウンウンと数回頷きながら周囲に目を配り、七右衛門にスッと顔を近づけた。
「明日が初競だろう。それで今季の相場が決まる。自分たちだけいい思いをしようなどと強気にならずに、どうだ、穏当な値を付けてもらうということで」
なるほどと七右衛門は思った。これが目的だった訳だ。競が始まる時期は、商人同士の駆け引きや牽制が行われるのは常だ。しかし、あまり利口なやり方とは思えなかった。
「はい。それは吝かではありません。しかしながら」
繁太郎が上体を起こして七右衛門を睨んだ。
「断るというのか」
「いえいえ、それが江戸流とならば、勿論そのようにさせていただきます。しかしながら、柿川屋さんもご案内の通り、品物の値というものは、売り手の都合だけでなく買い手との関係で決まるものでございます。つまり、最初に高値で売り出しても買手が少なければ値は下がり、逆に安値を希望しても買手が多ければ値は上ります。最終的な値がどうなるかは、双方の商人の手を離れたところで決まるものです」
繁太郎の眼が何かを思案するような不穏な動きをし、ゆっくりと頷いた。
「それはそうだ。それが、商いでの値が決まる道理というもの」
七右衛門も頷きながら、スッと湊の方向に顔を向けた。浅吉の声が聞こえたのだ。
「七右衛門さん、わかりましたよー」
繁太郎も声の方向に顔を向けた。
「何があったのだ」
「船が嵐にあって積荷が流されましてね、それに私の荷も含まれています。その私の流された荷がどれくらいの分量かが、どうやら分かったようです」
繁太郎が口元を緩め面白い物を見るように浅吉を注視した。浅吉が大きな体を揺すりながら到着して、大きく息を吐いた。
「流されたのが船の後ろに積んでいたもので、全部で二十ほどです。残念ですが、その内五つは七右衛門さんの荷でした」
五つということは五駄である。一駄は馬一頭に積める分量で三十貫ほどだ。五駄を失ったのならかなりの量になる。大きな損失だ。
「五つか・・」
七右衛門がそう呟くと、繁太郎がゆっくりと視線を向けて来た。
「五つというとかなり多いなぁ。半数近くか」
紅花の場合、一回で運ぶ荷は藁で梱包されたものでおおよそ十駄前後が通常である。多めと言っても十四、五である。
繁太郎の頬や唇の動きから、笑みを必死に堪えているのが見て取れた。他人の不幸を喜んでいるのだろう。一気に心が冷めて行った。いくら商売の為とはいえ、この程度の男に気を遣うことが滑稽に思えたのだ。どう考えても、自分を抑えてまで無理に商品を買ってもらうに値しない客の部類だ。これ以上相手にする気が無くなった。
「ご心配いただき恐縮です。そうですなぁ、幸いに半数までは行きません。まあ、さほど影響は無いくらいでしょうか」
繁太郎の顔色が変わった。眼は驚きと困惑に満ちている。
「影響が無いとは・・、では、いったいいくら運んできたのだ」
七右衛門は繁太郎の顔を覗き込むように見据え、ゆっくりと口を開いた。
「五十です」
繁太郎の目が固まったのを確認し、七右衛門は浅吉に顔を向けた。
「浅さん、明日の段取りをしたいのだが良いかな」
「へい。あっしは構いませんが、頭領との話は終わったのですか」
七右衛門が繁太郎に視線を戻した。
「そういう訳です、勝手ながら今日はこの辺にさせていただきます。明日は良い商いになればと思います。どうぞ、御手柔らかにお願い致します」
繁太郎が七右衛門を睨んで、無言のままクルリと背を向けて去っていった。
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