紅花の煙
戸沢 一平
第1話
玄関を一歩外に出た途端に夏の朝の光が顔を差し、鈴木七右衛門は思わず目を細めた。庭の方角からは微かではあるが既に蝉の声が聞こえる。目を向けると木々の上に広がる青い空に雲は無く、枝葉は全く動かず風も無い。ここ出羽尾花沢は北国で冬は寒く有数の豪雪地帯でもあるが、一方で夏は盆地のためか殊の外暑い。
「今日も暑くなりますなぁ」
番頭の惣兵衛が玄関から出て来て、既に噴き出ている額の汗を左手に持った手拭いでふきながら、右手に持った日傘を七右衛門に差し出した。
この尾花沢で紅花を扱う商いをし「島田屋」として店を構える七右衛門にとっては、番頭の惣兵衛は信頼のおける頼もしい存在である。この地で採れる紅花を江戸や京に運び売り捌くことが商いの中心であり、それを主人である七右衛門自身が行っていることから留守が多いが、その間は惣兵衛が店を切り盛りしている。他方、細かいところまで神経が行き届き、何かと押し付けがましいところもあり、口うるさい世話女房のように鬱陶しく感じることもあった。
「やはり夏は暑くなくてはのぅ」
七右衛門は日傘を受け取ると早速頭に乗せて止め紐を結んだ。惣兵衛がその様子を見ながらまた汗をふいた。
「今回は江戸ですね。お帰りは一月ほど先ですか」
「そのつもりだ。何かあれば便りを出す」
漠然と遠くを見ている七右衛門の眼は旅に出る高揚感を醸し出しており、心は既に江戸にあった。惣兵衛が頷きながらゴホンと咳払いをした。
「それで、例の件は、やはりお断りになるということでよろしいでしょうか」
例の件とは七右衛門の縁談である。数日前に地元の商店を束ねる顔役の伊佐吉親分が持って来た話だ。大きな庄屋の三十路の女で、一度嫁に行ったものの旦那が亡くなり実家に戻っているが、見た目も気立ても申し分なく評判も良い、と親分は太鼓判を押した。しかし、七右衛門は気が乗らなかった。
「ああ、まあ、一応、そうしてくれるか・・」
相手に不満がある訳ではなかった。七右衛門はこれまで三度妻を娶っていたが全て死別していた。最初の妻は吉原の遊女を身請けしたが二年ほどで、二人目は同じ尾花沢の大きな旅籠屋の娘で三年ほど、そして三人目は湊町酒田の豪商の娘であったが二年で、いずれも病没していた。幸いにそれぞれの間に子が出来て全て男子であり、店を継がせることには心配は無かった。自身も五十に手が届く歳になっていたが隠居するにはまだ早いし、何かにつけ相方がいないことの不便を感じることもあったが、この話を進めようとは思わなかった。
「女房は畳じゃないのだから、駄目になったから次をとばかりにほいほいと後添いをもらうことは気が引ける。しかも四人目となれば、流石になぁ・・」
それは正直な気持ちだった。いずれも死別で自ら離縁したわけでは無いが、世間の目は気になった。だが、それ以上に七右衛門がこの縁談に気が乗らない理由があった。この時、七右衛門には気になる女が居た。
江戸は吉原の三浦屋で高尾太夫を襲名した「たか」である。
七右衛門は若い頃から商いで江戸に滞在した時は必ず吉原に通った。最初の妻も此処で見初めた女だった。数年前、三浦屋に俳句を嗜む遊女がいると聞いて興味を持った。七右衛門も京や江戸で句会に顔を出すほど俳句に入れ込んでいたからだ。たかは、この時まだ太夫ではなくその下の格付けとなる格子であった。
ひと目見て、たかに他の女達とは違う雰囲気を感じた。会話を重ねていくと、それは彼女が身に付けた教養によるものだと分かった。俳句だけでなく、茶道や花道、更には和歌や囲碁、将棋までの造詣があったのだ。女に学問はいらないと思っていただけに衝撃は大きかった。七右衛門はすっかりたかに魅せられた。やがて、彼女は吉原遊女の最上位の称号となる高尾太夫を名乗る。
七右衛門にとって、今回の江戸に行く目的は、当然ながら紅花の初出荷で利益を得ることであり、更に、出羽最上の紅花に相応の値を付けることだと思っていた。その値が今季の紅花相場を左右することになるからだ。だが、そういう頭の中とは裏腹に、七右衛門の心は高野太夫となったたかへの想いで満ちていた。つまり、吉原で彼女に会うことも目的の一つとなっていたのだ。
惣兵衛がフウと力なく息を吐いた。
「それでは、伊佐吉親分のほうには私から断りを入れておきます」
七右衛門は胸を撫で下ろした。本来ならば自ら断りを入れるべき筋のものだとは思っていたが、どこかで惣兵衛に期待する気持ちがあったからだ。右手で日傘を下げながらチラリと惣兵衛を見た。
「くれぐれも、よろしく伝えてくれ」
尾花沢は最上川の中流域に位置している。この出羽村山地方は肥沃な土壌に加えて盆地の特性で朝露、朝霧が起きやすく紅花の栽培に適していた。この地から出荷される出羽最上産紅花は質が高く毎年高値で取引されていた。紅花は収穫後よく洗って発酵させ、それを団子状に丸めて乾燥させる。これを紅餅というが、この状態で紅花商人が百姓から買い集め、江戸や京に運んで売っていた。
七右衛門は、まず、尾花沢とは目と鼻の先にあり最上川海運の集積所として栄える大石田河岸に到着すると、周辺の地域で買い付けて此処に集積された紅花の荷を確認し、それを船に積み込んで最上川を下り酒田湊に運んだ。更に、そこから北前船に積み替え江戸に向け送り出した。船が出るのを見届けると、自身は羽州街道を上り江戸に向かった。
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