ガラスの愛をこめて
おんぷりん
ガラスの愛をこめて
「ガラスの靴を一足、お願いしたいの」
三日前のことを、思い返す。
静かな夜の、さざめく黒い空の波を縫い合わせた、眩しいほどの暗闇のローブ。
やって来たお客様がそれをはらりと払うと、しんと輝く紫の瞳が覗く。
「ええ、いいですよ」
ちょうど紅茶を淹れて、一息ついていた私は、あっさりと答えた。
来るものは拒まず、依頼は受ける。
ここはそういう店だった。
「どんな靴がいいですか?」
「とても綺麗で、キラキラしていて、眩しいガラスがいいわ。ハイヒールにしてくれるかしら。あの子がせっかく、少し背伸びをして、一歩踏み出すんだもの」
「かしこまりました。どなたへの贈り物ですか?」
さあ、ここからが一番大事だ。
この店にやってくるのはみんな、誰かのためにほんの小さなきっかけを、あるいはぬくもりを、手渡したい人ばかり。
お客様が注文するのは決して自分が使うものではなく、どれも大切な誰かへの贈り物。
サプライズにするんだと目を輝かせたり、慈しみに満ちた瞳で丁寧な言葉を紡いだり、反応は様々。
さて、このお客様はどんな言葉、どんな想いをくれるのだろうと目を離さずに見つめていると、お客様はふうっと小さく微笑んだ。
それはとても切なくて、ただひたすらに淡く、濃い、今にも崩れてしまいそうな笑顔。
誰よりもその人の幸せを願っているのが、とほうもない愛しさを灯す瞳から伝わった。けれどあまりにまっすぐすぎて、どこか
「……私の、大切な、家族に」
まるで
「あの子はもう忘れてしまっているんだけど、本当はね、あの子がずっと小さかった頃、私はあの子と一緒にいたの。あの子の優しさと笑顔で、救われたのよ」
今にも泣き出しそうなのに、小さな花がいくつも重ねてほころぶような言葉が尊くて、ずっと独りで生きてきた自分からは、手が届かないほど遠く思えた。
けれど、そんなこと、そんな
ただにっこりといつものように微笑んで、「かしこまりました」と頭を下げる。
「三日後の夜までに、お願いできるかしら。舞踏会にどうしても間に合わせたいの」
「かまいませんよ。では三日後の朝早く、夜のほどろはいかがでしょう」
夜のほどろというのは、夜明け頃のことだ。
お客様は安心したようにほっと力を抜いて、少し首を傾けて微笑んだ。
「ええ、ありがとう。お願いするわ。じゃあ、とびっきりの、とっておきの、ガラスの靴をよろしくね」
「ええ、お任せください」
深く下げた頭に、ぎいっと扉を開く音、そしてちりんと星が瞬くような、ドアのベルの挨拶が落ちた。
もうそろそろ、夜のほどろになる。
私は完成した靴を手に取って、雑多な店を照らす照明にかざした。
いくつもの泡のような光がちらちらと透けて煌いては、透明な水面に隠れて消えて、また別のところからちろりと現れる。
光の線がガラスを縁どって、反射するやわらかな灯かりが目に眩しい。
手元に引き寄せ、くるりとひっくり返したり、横から見たり、あらゆる角度で出来を確認した。
それは咲き誇る、銀色に透けた氷の華のような。
静かな湖の水面に道を落とす、冬の冴えた月光のような。
曇りのない空が欠けたときに生み落ちた、晴れた白い羽のような。
一点の濁りもなく、磨き抜かれたそれは、あのお客様の心をそのままこめて作ったものだ。
もう一度照明にかざす。
このガラスの靴の持ち主は、今夜どんな一歩を踏み出すんだろう。
その一歩の為にそっと背を押そうとしているあのお客様は、どんな気持ちなんだろう。
靴を見ているだけで、私の気持ちまでガラスに透かしたように澄み切ってくる。
と、からりとドアのベルが私を呼んだ。
振り向けば、ひらりとはためく夜の黒。
初めて来た時と同じように、ぱさりとローブをとって、肩に落とす。
「いらっしゃいませ。贈り物は完成していますよ」
くるりと体を回して椅子から立ち上がり、ガラスの靴をそっと手渡した。
「あら」
お客様は驚いたように目を見張って、それから今度は目を細めて、眩しそうにその靴を受け取る。
まず私と同じように光にかざし、それからくるくるとすべての角度からまじまじと靴を見つめて、ぱっとその顔を輝かせた。
「素敵ね、本当に素敵! これだわ、これがほしかったの」
「喜んでいただけて何よりです」
「これを履いたらきっとあの子も、幸せになれるわね。きっとそうだわ。これにはあなたの、あの子の幸せを願ってくれてる、キラキラがたくさんつまってるもの」
大切そうに靴を抱えたお客様のその言葉に、私は思わず目を見開いた。
「そうですか……?」
「ええ。私が魔法で作る靴よりも、この靴のほうがずっと幸せを呼んでくれる。あなたにお願いしてよかったわ」
その言葉に、ぱっと私の胸に星が咲いた。
煌めく宇宙がぶわっと広がって、どうしようもない嬉しさが湧き上がる。
あなたにお願いしてよかった、あなたがいい。
そう言われることが私にとってどんなに嬉しいか、知らずにこの言葉をくれるのだから、
「いえ、お客様の魔法だって、とってもとっても素敵です」
私は胸の中のどうしようもない幸せを抱くように、胸の前で両手を重ねた。
じわりと、そのてのひらに温かさが伝わってくる気がして、頬が緩む。
「きっとお客様の大切な人は、誰より笑顔で、幸せになれますよ。私が保証します」
「ふふ、ありがとう」
「どうか、お客様にも幸せが訪れますように」
「あら」
心の底からのねがいごとを口にすると、またお客様は目を丸くする。
「私はいいのよ。あの子が幸せになれたなら、それが私の幸せだもの」
「ええ、でも、私はあなたにも____あなたに幸せになってほしいです。魔法使いさん」
私はそっとお客様に近寄って、ガラスの靴を抱きしめているそのてのひらを、自分の手でそっと包み込んだ。
小さな小さな、私のてのひらで。
なんにもできないけど、ただひたすらに幸せを願う、このてのひらで。
「どうか、お幸せに。お元気で」
「……」
お客様の、息を呑む音がする。それからしばらくして、お客様はくすりと小さく笑い声をもらした。
「ありがとう。ありがとう、素敵な贈り物屋さん。あなたにも幸せがありますように。____幸せの靴を、どうもありがとう」
また来るわ。
そう、もう一つの嬉しい言葉をのこして、お客様はお店を出ていく。
私は長く息をついてぐうっと伸びをすると、お店の中を見回した。
ガラスの靴を作った時の、とけたガラス。
長靴を作った時の、ゴムの残りと針と糸。
鉛の心臓を作った時の、金づちや炉。
花を咲かせる灰を作るのは大変だったな。部屋のすみっこに、うっすらと灰がのこったままになって、その中に一輪、小さな花びらが顔を出しているのが見えた。
ひとりぼっちの部屋の中。
だけど私はこの部屋で、いろんな人の幸せと、幸せを願う想いと、確かに繋がっていた。
「ガラスの靴の持ち主さん」
きっとあなたはあんなにもまっすぐな愛をもらうくらいだから、素直で優しい人なんだろうな。
自分では気づいていないだけで、たくさんの人を笑顔にしたんだろう。
だから、そんなあなたが、どうか。
「幸せに、なりますように」
あなたからは見えないかもしれないけれど。
あなたを愛した人が確かにいて、幸せを願う人がいる。
目には見えない、だけど触れればあたたかい、
ガラスの愛をこめて。
ガラスの愛をこめて おんぷりん @onpurin
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