三章

自慢の妹から手紙が送られて来たのですが

第11話 一つの発端

「レイチェル様! レイラ様からお手紙が届きましたわ」


 ある日、クリスティナが庭でゆったりと読書をしていると慌てた様子のクリスティナがやってきた。


「レイラから?」


 レイチェルは読んでいた本を閉じ、顔をわずかに綻ばせる。

 十一歳になったばかりの妹は自分よりも聡明で、何より可愛らしい。


 レイラとは結婚式前日の夜、こっそり部屋に来てくれ『お姉様はきっと幸せになります』と言って、励ましてくれたのだ。


 五つも年下の妹に気を遣わせていることが申し訳なくも思ったが、小さな頭で一生懸命に考えてくれたのだと思うと力がみなぎって来たものだ。


 落ち着いたら手紙を送ろうと思っていたが、言いたいことが沢山あって、すぐにはまとまらなかった。


(ああ、私の決断が遅いから……)


 これなら何枚もかけて手紙を書けば良かった、と後悔する。

 いつもいつも自分はこうだ。

 思い切りが良くなくて、人に迷惑を掛ける事が殆どだった。


 もしもレイラが目の前にいたら、鬱々とした気持ちを吹き飛ばしてくれるかもしれないが、それでもレイチェルの溜飲が下がるかどうかは微妙だろう。


「さぁ」


 そんな女主人の気持ちを悟ったのか、クリスティナが促してくる。

 煌びやかなトレイの上には、そこには確かにサヴァング伯爵家の紋章があった。


 そっとレイチェルは手紙を手に取り、ペーパーナイフでゆっくりと封を切る。


『親愛なるお姉様

 公爵様の元へ嫁がれてから随分と時間が経っていますが、お元気ですか。

 レイラは変わらず過ごしています。


 あれからお父様は縁談にますます躍起になられて、そろそろお相手の方と顔合わせをしようと先日聞かされました。


 お姉様と同じく知らない方の元に嫁ぐのは不安ですが、どんな困難があろうと幸せになると、毎日神に祈る日々です。


 そうそう、最近ミーシャという白い猫を譲り受けました。とってもお利口で可愛らしくて、お姉様に会わせたいのですが……こちらに滞在する予定はありますか?


 お手紙をもらえること、楽しみにしております。

 体調にどうぞ気を付けて』


 レイラ、とサインで締め括られていた。


 とても十一歳が書いたとは思えない流麗な字で、ここまでの気配りを出来るレイラに尊敬の念を覚える。


 同時に顔が綻び、何度も何度も手紙を読み込んだ。

 父があれよあれよと何でも好きなものを買い与えるため、本来であれば我儘になってもおかしくないのに、レイラは性格がとても良い。


 聞き分けもよく、いつでも笑顔な妹が時として羨ましくもあったが、今思えばレイチェルが良い姉としてあれたのか自信がない。


「クリス」


 じっとそのさまを見守っていたクリスティナに、レイチェルは努めて柔らかな声で言った。


「ここでレイラに返事を書くから、準備してくれる?」

「はい、すぐに! お待ちくださいませ」


 そう言うとクリスティナは小走りで部屋に入って行った。


(まずは……お手紙ありがとう。すぐに書けなくて──ううん、駄目ね。お礼を言った後に謝るなんて)


「……あら?」


 頭の中で何を書こうか考えていると、もう一枚便箋が重ねられていた。

 二枚目を見ると中身は白紙だ。


 しかし、何かがうっすらと書かれた形跡があった。


「書き損じとはまた違うし……何かしら」


 レイラがわざわざ二枚、それも何かを書いたであろう便箋を一緒にするとは思えず、レイチェルはじっと目を凝らした。


「もしかして絵を書いていた、とか」


 レイラは時々一人、インクを走らせている時がある。

 何度かその場面に居合わせたが、いつも『見ないでください』と言って、レイチェルに何を書いているのかは終ぞ教えてくれなかった。


 ただ、常にほんのりと頬を染めた慌てようだったから、絵を描いているというのはレイチェルが勝手に思っているだけなのだ。


 もしもこの予想が当たっていたら紙は高価だ。そう何枚も買えるはずはない。

 市場にもあまり出回っていないため、手に入らないだろう。


 しかしレイラならば父に頼んで、様々なツテを使って絵画一式を買ってもらうことなど易い。


 なんと言っても娘が一人嫁いで行ったのだ。

 父はきっと、レイチェルの分までレイラの好きな物を一層買い与えるに違いない。


「……よし」


 レイチェルはクリスティナが来るまで読み掛けの本を読むことにした。

 あれこれ悩んでいても何もいい事はないと、身を持って知っているからだ。


 それに、読書をしているとその時だけは他の事を忘れられる。

 人によっては逃げかもしれないが、レイチェルはずっとそうして生きて来た。


 少しくらい好きにしても、罰は当たらないだろう。

 幸い今日は風もあまり強くなく、暖かい。

 これなら手紙を書いた後ここでお茶を飲むのも良さそうだ、とレイチェルは小さく口角を上げる。


(先日余分に買った茶葉を淹れて貰おうかしら……あ、お菓子も少し余っていたっけ)


 クリスティナが戻って来る間、読書を中断しつつレイチェルはこの後の事に考えを巡らせた。


(そういえば……)


 はたとレイチェルは屋敷の二階に視線を向ける。

 二階部分の一部屋には、ぴっしりと青いカーテンの掛かった窓がある。


 その向こうにアレクシスの執務室があるはずだった。

 入った事は勿論無いが、アレクシス本人は昨日から街の視察に出掛けているという。


 主のいない無人の部屋に、何故かクリスティナは胸騒ぎを感じた。




 ◆◆◆




 深夜を優に回る頃、廊下には小さなランプがぼんやりと柔らかな光をたたえている。


 これは未だどこか幼い節のある新妻のため、アレクシスが自ら思案して購入し、夜のとばりが下りた後に使用人に付けさせているものだ。


 レイチェルが深夜に歩き回ってもいいよう──そんな事必ずしもあって欲しくないが──、用心も兼ねて等間隔にそれは灯されていた。


 ゆらりと小さな影がアレクシスの執務室前に浮かび、控えめな音を立てる。


「……入れ」


 ペンを動かしていた手を止め、一呼吸置いてアレクシスは小さく言った。

 誰の訪問かは言われずとも分かる。


「失礼致します」


 姿を現した人間は、レイチェルが生家から連れて来たというメイド──クリスティナだった。


 今はメイドというより侍女という立場にある彼女が尋ねて来るなど、そう珍しい事ではない。


 というのも、レイチェルが公爵家に嫁いでから一ヶ月後、少し打ち解けられたと思った矢先に、『レイチェル様のために私をお使いください』と突然言ってきたのだ。


 クリスティナが提示して来たのは、レイチェルが公爵家で心健やかに過ごせる事。

 そして、自分の方から少しでもレイチェルに歩み寄って欲しい、という旨だった。


 アレクシスとてレイチェルを悲しませたくはなく、一つ返事で了承した。

 以後、クリスティナは身の回りやレイチェル本人に不審な事があるごとに、こうして執務室に報告しに来るようになった。


(あの子の身に何かあるなど、あまり想像したくはないが)


 レイチェルに穏やかな日々を過ごさせて欲しい、と涙ながらに懇願して来たクリスティナの顔は未だに忘れられない。


 ふぅ、と小さく息を吐くとアレクシスは眉間の皺を揉み込んだ。

 視察から帰ってすぐに諸々の雑務をしているからか、疲れが溜まっているようだ。


「要件はなんだ」


 アレクシスは再度ペンを走らせ、書面に視線を向けながら切り出した。


「……このようなことをご報告するか否か、本当に迷ったのですが」


 クリスティナは言い淀みつつも、『こちらを』と一枚の手紙を机に置いた。


「……?」


 アレクシスは手を止め、そっと手紙をランプの傍にかざした。

 見慣れない紋章を疑問に思っていると、クリスティナが答えてくれる。


「サヴァング伯爵家からのお手紙です。お相手は……我が主人の妹様から」


 ふむ、とアレクシスは小さく唸る。

 ただの手紙であれば、クリスティナがわざわざ報告するはずもない。


 ならばレイチェルの身に危険が迫るような何かが、この手紙にあるということなのだろうか。


「確かレイラ嬢は十一になったばかりだったか」

「はい。幼いながらとても勤勉で、聡明な方です」


 結婚式当日に列席していたはずだが、あまりレイラの顔は覚えていない。

 ただ、レイチェルとはまた違った美しさを持った少女だと記憶している。


 レイチェルから妹の事を聞いた事は無い──そもそも未だに夫婦揃って寝室で寝ていないのだ──が、きっと姉妹仲がいいのだろうと予想している。


「……何もおかしなところは無いな」


 アレクシスはざっと内容を黙読し、便箋を机に置こうとした。


「いえ、その次です」

「ん……?」


 言われた通り次の便箋を捲ると、ぼんやりと何か文字のようなものが書かれている。

 ただ、それはあまりにも分かりにくく、目視することは難しい。


「──これは私の推測でしかありませんが」


 アレクシスが暫く黙っていると、クリスティナがゆっくりと口を開いた。


「きっと、こちらはレイチェル様に関することです」

「なぜそう思う」


 何を思ってそうした言葉が出るのか、アレクシスは理解できなかった。

 騎士として剣の事は勿論、公爵としての事業を懸命にこなして来たためか、アレクシスは目の前の相手の感情があまり読み取れない。


 努力はしているが、どうすればその考えに至るのか、そしてそれを自分の言葉で表すことが苦手なのだ。


「明確な理由があるとは申せません。……けれど、嫌な予感がするのです」


 アレクシスの感情の機微を素早く悟ったクリスティナは、自信なさげな声で言った。


 妻のことはおろか、その家族のことをほとんど何も知らない自分と、少なからずレイラのことを知っているクリスティナの言い分を天秤に掛けるのは無粋だろう。


 これ以上追求してはこちらにとっても分が悪い。


「……女の勘はよく当たる、と言うしな」


 アレクシスはぽつりと呟くと、机の引き出しからマッチを取り出した。


「な、何を……!?」


 クリスティナが止めるよりも早くマッチを擦り、火を付ける。


「お止めください、そんな事をしては……!」

「見ろ」

「え……?」


 目に見えて慌てるクリスティナとは対照的に、アレクシスは静かな声で言った。

 その視線の先をクリスティナが追うと、見る見るうちに瞳に驚愕の色が濃く出る。


 燃えない程度の距離で火を手紙に翳しており、ぼんやりと輪郭を持っていた文字がじわりと浮かび上がった。

 何が書かれているか判別出来るまでになると、クリスティナは小さく悲鳴を上げた。


「こ、れは……」


 ようやくクリスティナが喉から絞り出した声音は、やけに大きく執務室に響く。


「──レイラ嬢は勿論だが、サヴァング伯爵の周囲でおかしな素振りが無いか、こちらで探る必要がありそうだ」


 マッチの火を消し、忌々しげにアレクシスが呟いた。

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