第10話 吐露するということ

 騒がしい雑踏に紛れ、客引きをする陽気な声がそこかしこから聞こえてくる。


「わぁ……」


 レオメイト家から乗ってきた馬車を降り立つと同時に、クロエは感嘆の溜め息を吐く。


 屋敷に勤めるようになってから一度も街へ出た事がなく、休みの日は部屋で一日を過ごす事が多い、と街へ着くまでクロエの育った環境とともに掻い摘んで聞いていた。


 自分の家は貧しく、幼い弟妹が居るため少しでも家計を助けようとレオメイト家へ奉公に来たこと。

 レイチェルと同様に最初こそアレクシスが怖かったが、心優しい主で良かったということ。


 メイドは屋敷の細々とした仕事を中心にするため、未だに慣れないこともあるが、時折レイチェルの傍で編み物を教えるのは楽しい事も、照れながら教えてくれた。


(クロエは素直な性格なのね)


 ふふ、と小さくレイチェルは口元を綻ばせる。

 思い返す事は馬車の道中、仮にも同い年なのだから「奥様」は止めて欲しいと言えば、クロエが一瞬考え込む素振りを見せた時の事。


『奥様……いえ、レイチェル様にお会い出来て嬉しいです』


 柔らかくはにかむクロエの表情は天使のように可愛らしく、知らずのうちにこちらまで温かい気持ちにさせられた。


(喜んでくれて良かった)


 まだ馬車を降りただけだが、きらきらと瞳を輝かせるクロエにレイチェルは安堵の溜め息を吐く。


 レイチェルが三つ編みにした髪はそのままで薄紫のスカートに白地のブラウスに身を包んだクロエは、いかにも年頃の少女らしい出で立ちだ。


 対して自分は人妻になったため、露出こそあまりないものの膝丈のワンピースドレスに着替えた。

 街へ出掛ける時は常にライオネルが着いて来るが、これは普段よりほんの少し着丈が短い。


 はしたないとも危惧したが、皆が皆レイチェルには注目していないからそれだけが救いだった。


 緩やかな風がレイチェルのスカートを揺らし、ふんわりとはためく。

 今日は気候が穏やかで、街を出歩くには最適だといえた。


「あ、見てくださいレイチェル様! 珍しいお店があります……!」


 きらきらと瞳を輝かせ、クロエが弾んだ声で言う。

 どうやら本当に街へ出たのはこれが初めてのようで、年頃の少女らしく浮き足立っているのが分かる。


「レイチェル様、少し見てきても構いませんか?」

「ええ、私も見たいから行きましょう」


 クロエの声に釣られるように、レイチェルも明るい声を出してゆっくりと足を向けた。


 クロエが見つけた店は雑貨屋だった。

 こぢんまりとした建物の中には、手作りであろうタペストリーやアクセサリーなどが壁や机に所狭しとあり、ただ見ているだけでも楽しい気持ちにさせられる。


「美味しそう……」

「え」


 不意に聞こえた場違いな呟きに、レイチェルは素っ頓狂な声を上げる。


「あ、すみません。私ったら」


 慌ててクロエは頭を下げて謝罪する。

 クロエの視線の先を見ると、手の平サイズのクッキーが机に置いている籠に盛り付けられていた。


「ちょっと待って、朝食を摂っていないの?」

「今日は寝坊してしまって食べられなくて。でも大丈夫です、お夕食は沢山食べ──」

「何か買って食べましょう。クッキーとあと……これをくださる?」


 クロエの言葉を遮り、レイチェルは手早く少女の見ていたクッキーを二つと、すぐ傍にあった砂糖菓子の一つを店主に渡す。


「で、でも本当に……」


 みるみる恐縮していくクロエに、レイチェルはやんわりと微笑んだ。


「お腹が空いているのに、連れ回すほど私は悪くはないわ。ここだと……そうねぇ、あそこがいいかしら」


 半ば強制的にクロエを連れて行った先は、普段からレイチェルが茶葉を買う店だった。

 そこは小さなカフェが併設されており、茶葉を使った軽食を食べられる。


 連日人が列を作っているためレイチェルはそこを使った事は無いが、今日は人がまばらだった。


 すぐに座ることができたが、未だにクロエは落ち着かない様子でキョロキョロと辺りを見回している。


「あら、レオメイトの……レイチェル様じゃないか」


 すぐさま馴染みである女店主がやってきて、レイチェルの顔を見るとにっこりと微笑んだ。


「今日はどうしたんだい? つい先日来てくれたばかりじゃ……ああ、お忍びか」

「そんなところです」


 クロエに視線を走らせ、何か合点がいったようだ。何度か頷き、店主は笑みを深めたまま『ご注文は?』と問うた。


「クロエ、紅茶は飲める? 嫌いなものや食べられないものはない?」


 小さなメニュー表をクロエに向けて見せ、レイチェルは紅茶と軽食の欄を交互に指し示した。


「あ、はい。……なんでも食べられます!」


 俯きがちにクロエが声を出す。心做しか緊張しているようだった。


「じゃあアッサムを二つとスコーンをお願い。ジャムはお勧めをくださる?」

「はいよ、腕によりをかけて作らせていただきます」


 お待ちくださいね、と鼻歌を歌いながら女主人はパタパタと厨房に引っ込んだ。

 どうやらレイチェルが日を空けず来てくれたのが嬉しいようで、こちらまで面映おもはゆい気持ちになる。


(なんだか……お母様と話してるみたいで恥ずかしい)


 記憶の中の母は、レイチェルを愛情深く育て慈しんでくれた。

 ころころとよく笑ってレイチェルの話を聞いてくれ、時にはシェフの目を盗んで自ら料理を振る舞ってくれもした。


 表向きは控えめだが、その実芯の強い人だった。

 父は母が亡くなる直前まで終ぞ顔を見せてはくれなかったが、レイチェルが知らないだけで母を愛していたのだと思っている。


 そうでなければ二人の間に子宝は恵まれず、すぐさま離縁していたはずなのだ。


(って、いけない。今はクロエも居るのにこんなこと……)


 じんわりと瞼が熱くなり、レイチェルはぎゅっと瞳を閉じて耐える。

 あまり家族の愛情に触れてこなかったからか、時としてレイチェルはこうして泣きそうになる事が多々あった。


 ほとんど一人の時にしか思い出さないはずだが、こうして不意に人の温かさに触れるとどうしても駄目らしい。

 ぼんやりと歪む視界を、レイチェルは瞳を瞬いて誤魔化す。


 レイチェルは向かいに座っているクロエを盗み見た。

 きょろきょろと忙しなく視線を動かし、幼い子供のように瞳を輝かせていた。


(私が無理を言って連れて来たのだけれど。このぶんだと……嫌だと思って、いない?)


 寧ろその逆で、今にも椅子を倒してしまいそうなほど落ち着きがない。


 いさめるべきかとも思ったが、それ以上に目の前の少女が楽しんでくれていたようで、レイチェルの鬱々とした気持ちがゆっくりとほぐれていく。


 半ば無理矢理自身の服を着せて街へ向かい、空腹では可哀想だからと行きつけの店へ連れてきたのだ。


 本来のクロエであればこちらが何を言うでもなく恐縮しきっているところだが、その素振りは一切無い。

 心から感謝し、嬉しいのだということが言葉にせずとも伝わってくる。


「あの!」

「ど、どうしたの? あ、何か追加で頼むものがあれば言って」


 不意に張り上げられた声に小さく肩が震えるも、レイチェルは気付かないふりをしてメニューを渡す。


「ありがとうございます、レイチェル様。……私のためにこんなによくして頂いて」


 クロエは軽く頭を下げ、にこりと微笑んだ。

 年頃の少女らしい可愛らしい笑みに、こちらの胸の内まで温かくなる。


「お礼を言うのはこちらの方だわ。貴方が楽しんでくれて、私も嬉しいもの」

「え」


 やや驚いた声を上げるクロエに、レイチェルは一呼吸置いてゆっくりと唇を動かした。


「実を言うとね、不安だったの。無理矢理連れてきてしまったから、その……嫌だと思われていないかって」


 知らずレイチェルは先程まで思っていた心情を吐露していた。

 本当は言うつもりなどなかったが、どうしてかクロエになら全て言ってもいいと思えた。


(きっと私達は似ているから)


 母が亡くなってから成長するにつれてあまり自信が持てず、常に人の顔色ばかり窺っては勝手に落ち込むことが多々あった。


 何をするにも後ろ向きに物事を考えがちで、レイチェルは自分の性格を変えたかった。

 しかしレオメイト家に嫁いでからは、小さなことから前向きに考えるようになったと思う。


 最初の一ヶ月は落ち込んでばかりだったが、アレクシスと顔を合わせて話すようになってから、毎日が充実して終わっていくのだから不思議だった。


 自分のような人間でも『幸せになっていい』と思えたのだから、クロエにもそうあって欲しい。

 それが今のレイチェルの願いだ。


「そんな! レイチェル様とお出掛け出来て嬉しいです。道中はアナさんに怒られる事ばかり考えてましたけど……でも」


 そこでクロエは俯き、言葉を切る。


「田舎から出てきた私にとって、ここはあまりにも幸せ過ぎて怖くなります。美味しいものや綺麗なものも沢山あって……何より、毎日が楽しいのです」


 きゅっと口を真一文字に引き結び、クロエは何かを堪えるように、けれどしっかりと思いを紡いだ。


「本当にありがとうございます。旦那様に雇って頂いて、レイチェル様に出会えて……私は幸せ者です」


 少女の柔らかな頬に一筋、二筋と雫が伝う。

 ほろほろと静かに涙を流すクロエは、さながら女神のように見えた。


「……泣かないで、クロエ。ほら、これを使って」


 暫し見惚れそうになりつつも、レイチェルは持ってきていたバッグから白いハンカチを取り出す。


 すみません、と一言断ってからクロエはそれを受け取った。


「お見苦しいところをお見せして。すぐに止めますので」


 そっと目元にハンカチを当てながら、クロエは申し訳なさそうに言う。


「全然見苦しくなんかないわ。泣きたい時に泣いて、笑いたい時に笑う方がいいもの」


 レイチェルは小さく微笑みながら、テーブルに置いていたクロエの手に自分のそれを重ねる。


「……そうした方がずっといいわ」


(私はその真逆だったから)


 叶うならば、母を亡くして日の浅かった幼い頃の自分に同じ言葉を手向けたい。

 そうしたら今、こんなに思い悩む事もなかったはずだ。



◆◆◆


 

「お金まで出して頂いて、本っ……当にありがとうございます!」


 帰り道の乗り合い馬車の中で、向かい合って座っていたクロエが小さく頭を下げた。

 内部はあまり広くないため、少し身を乗り出せば至近距離まで顔が近付く。


「そんな、いいのよ。私が好きでしたことなのだし……」


 クロエの左右には沢山の袋が置いてあり、そのどれもがレイチェル自らが買ったものだ。


 全ては初めて街に出てきたクロエのためにと、ささやかなお祝いのつもりであれよあれよと与えた。


 一介の使用人に、と目敏く気付いた一部の者たちからは影で何か言われるのかもしれないが、今の今までよくしてくれる同い年の少女に恩返しがしたかった。


(でもさすがに少し買い過ぎた、かしら……?)


 元々あまり物欲がなく、加えて自分のものなど買っていない。

 何かを買うにしても必要なものだけで、調度品の類はすべてアレクシスが整えてくれたもの。


 嫁いでから、クリスティナが自らの意思を持って買ったものといえば、アレクシスと同じ瞳の色のブローチくらいだろうか。


 最近になってドレスなども少しずつ増えているが、これはクリスティナに半ば無理矢理『未だお若い身、着飾らないでどうなさいます!』と小言を言われるのを避けるためだった。


「それより、今日はクロエとお出掛け出来てずっと楽しかったわ。私の方こそありがとう」


 レイチェルは頭を切り替え、クロエに微笑みかけた。

 軽く食事を済ませた後、色々と店を行ったり来たりして連れ回したという部分は否めないが、終始楽しかったというのは本当だ。


「私もです。またお給料日の時には出掛けようと思います」


 家族にお洋服を贈りたいですし、とクロエは続ける。


 どうやら街を散策する楽しさに気付いてくれたようで、こちらまでほんわかと胸が温かくなった。

 馬車の窓から見える空は、ゆっくりと橙色に染まろうとしていた。


 尚、屋敷へ戻った直後に出迎えてくれたクリスティナから『心配させないでください!』とやんわり諫められたのは言うまでもない。

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