第9話 同い年の少女

 あの日を境に、どこか過保護なきざしのあるアレクシスの態度にレイチェルは戸惑っていた。


 ほんの一ヶ月前までは共に朝食を摂る事もなく、顔を合わせる事もなかったのに、今ではほとんどの時間を共に屋敷の中で過ごしている。


 それ自体はいいのだが、アレクシスはレイチェルの顔を見ると常にあった眉間の皺が薄くなり、表情も心做しか柔らかくなる。


 その変わりように未だ慣れないレイチェルは、どこか落ち着かない気持ちで日々を過ごしていた。


「あ、奥様。これは少し違うんです、ここをこうして……」


 真正面に座ってメイドから編み物を教わっていたレイチェルは、ふと声を掛けられて顔を上げる。

 こちらに編み針を向けて指南してくれるメイドは、レイチェルと同い年だという。


 クロエという名のメイドは、幼さの残る柔らかい顔立ちも相俟って愛嬌もあり可愛らしい。

 普段はキャップに引っ詰めている髪をひとつに結んで背に流しているが、今日はレイチェルの教師役のためメイドの服装ではなく普段着だ。


 クロエの纏うドレスは質素ながらも動きやすさが重視されており、編み物を教わるレイチェルの視界の端でクロエが手を動かす度、ゆらゆらと袖が揺蕩たゆたってた。


 クロエが編み物がと得意だという事を聞いて、教わりたいと思った。

 最初こそ公爵夫人に末端の自分が編み物を教えるなど恐れ多い、と固辞されたがレイチェルたっての希望というのもあり、今では良き教師兼数少ない心を許せるうちの一人だ。


 クロエがレオメイト家に配属されたのはレイチェルが嫁いでから少し後だったため、同い年の友人が出来たようで嬉しかったのを覚えている。


 編み物を教わるのはクロエが休みの日と決まっており、その日以外は教わった事を復習しつつ、レイチェルは時間があれば針を動かしていた。

 今では簡単なものであれば、そう時を掛けず編めるようになっている。


「……奥様?」

「あ、ごめんなさい。ぼうっとしてたみたい。──こう?」


 心配そうにするクロエに声を掛けられ、レイチェルは小さく謝ると手本の編み方と同じ動きをする。


「今日はこれくらいにしましょうか。あんまり長くしていては身体が疲れてしまいますし、何より……アナさんに怒られてしまいます」


 部屋の壁に掛けている時計をちらりと見ると、クロエはやんわりと微笑む。


(もうそんなに経ったのね……)


 集中していると時間が経つのは早く、既に昼近くになっていた。

 レイチェル付きのメイドであり、直属の教育係であるアナが怖いらしいクロエを長く留めてはおけない。


 せっかくの休日といえど、半ば女主人の希望で職場に留まらせて編み物を教えてくれているため、レイチェルとて少なからず罪悪感はあった。


「そうね、せっかくだし貴方も午後はゆっくりして」

「あの。大変失礼ですが、奥様は午後から何をするご予定でしょうか」

「え」


 はたりとレイチェルは首を傾げる。

 今の今まで誰にもこの後の予定を聞かれた事がなかったため、理解するのが遅れた。


 幼い頃からクリスティナと共に過ごしていたが成長するにつれ、レイチェルの心情を察したというように求めるものを揃えてくれた。


 だが、今日はクリスティナは屋敷の仕事にかかりきりだ。

 そのため、この日は一日編み物をしつつゆっくりしようと思っている。


「す、すみません! 困りますよね、こんなこと」


 こちらが何かを言うよりも早く、慌てて頭を下げようとするクロエを手で制し、レイチェルは訊ねる。


「聞いても大丈夫だけれど、貴方は出掛けないの? ほら、街へ出てお買い物をするとか、お部屋でゆっくり過ごすとか……」


 レオメイト家の使用人たちは基本的に住み込みで働いており、それぞれに部屋を割り振られている。


 休日もしっかりと二日あって、その日はどこへ行くにも自由で、申請すれば二日以上の休みも取得出来るという高待遇だ。

 そのため、レオメイト家に勤める者たちはみんな穏やかで心優しい者が多い。

 働く環境が良いと人は変わるのだな、と思ったことを覚えている。


「い、いえ。私は実家に仕送りをしているので……手元にはあまり」


 声を落とし、クロエはそこで言葉を切る。

 給金をどれほど貰っているのか分からないが、きっと並の爵位を持つ家以上というのは想像に難くない。


 実家であるサヴァング伯爵家はあまり財政がかんばしくなく、それに父は妹のレイラのために時々散財していた。


 レイチェルも本来であれば金子を送るべきなのだろうが、そこのところは気にしなくていいとアレクシスに言われているため、何もできずにいる。


(私と同じ年で、こんなにも苦労をして……)


 生まれが違っただけで、自分はまだましな部類なのだと思わせられる。

 少なからずレイチェルは母が健在だった頃まで、確かに幸せだったのだ。


 本来ならばクロエとて街へ出掛けたいだろうに、家族のためにと自身の娯楽を切り詰めて頑張っている。

 せっかくここに勤めたからには、日々を楽しいものにして欲しかった。


「ねぇ、じゃあこうするのはどう?」


 レイチェルはクロエの手を取り、まるで内緒話をするように耳元に唇を寄せる。


「……本当にいいのですか?」


 不安げな表情でクロエが訊ねる。


「大丈夫よ。ほら、そうと決まれば着替えましょう」


 一転、レイチェルは半ば鼻歌を歌ってグイグイと少女の腕を引いた。




「あ、あの、奥様。やはり私には似合わないと思うのですが……」


 クロエはもじもじと胸の前で手を組み、レイチェルの部屋からひょこりと顔だけを覗かせた。


 半ば無理矢理自室にクロエを押し込め、自身の持っている普段着の中から選んだ淡い水色のドレスは、クロエの白い肌によく似合っていた。


 レースやリボンなどのあしらいを最低限に、けれど年頃の少女の可愛らしさもある動きやすいものだ。


 これはサヴァング家から持ってきた数少ないドレスで、レイチェルのお気に入りのものでもある。


 背中で一つに纏めていた髪は、クリスティナの手先を見様見真似で三つ編みにした。

 人の髪を触ったのは初めてだが、我ながら上手く出来たと思う。


「大丈夫、とってもよく似合っているわ!」


 私よりも、という言葉は心の中で付け加える。

 あまり不用意に言っては、クロエを恐縮させるだけだと知っているからだ。


「そう、でしょうか」

「ええ。クロエ、こちらに来て。あとはこれとこれを……」


 言いながら、レイチェルはテーブルに準備していたイヤリングやネックレス、指輪などの装飾品をクロエに付ける。


 ドレッサーの前に座らせ──これもクリスティナの施してくれる化粧を真似たものだが──白粉おしろいを軽くはたき、うっすらと頬と唇に色を載せる。


「──うん、とっても素敵だわ」


 小さく拍手し、レイチェルはにっこりと微笑んだ。


「これが、わたし……ですか」


 ぱちくりと瞳を瞬かせ、クロエが呟く。

 どうやら今の今まで化粧などした事がなかったらしく、何度も口を開いては閉じてを繰り返している。


「どう? クロエ、良かったらこのまま一緒に街へ行かない?」

「いえ、そんな! 一介のメイドが奥様のお召し物を着ているだけでも恐れ多いのに……。このまま街へ出てしまえば、それこそ旦那様に怒られてしまいます!」


 みるみる顔を蒼白させて慌てるクロエに、レイチェルは申し訳なくなる。


(お友達になりたいのだけれど。やっぱり使用人と話すのは駄目なのかしら……)


 ほとんど同じ身分の令嬢らと話すのも楽しいが、屋敷にはあまり同年代の同性はおらず、嫁いですぐだったレイチェルは息が詰まっていた。


 今となっては少し落ち着いたが、それから一ヶ月経ってクロエが勤めるようになってから、レイチェルはずっと友人になりたいと思っていた。


 ただ、それは幼い頃から気心を許しているクリスティナが特異だっただけで、本来は使用人とは必要以上に話すものではないと理解している。


 それでも、未だ椅子に座ったままオドオドとしているクロエのさまは、鏡合わせの自分を見ているようだった。


(ううん、それ以上にクロエと私は似ているから、遠慮してしまうんだ)


 使用人としての教育をしっかり叩き込まれたクロエは、常から劣等感を抱いている自身とよく似ている。


 勿論、本来のクロエの性格は違うのだろうが、レイチェルの勘が『この子は自分とそっくり』だと言っているのだ。


 だからレイチェルは友人になりたいと思う。

 それを伝えても恐縮されてしまうため、これは堂々巡りが予感された。


 元々自分の我儘で編み物を教えてくれ、貴重な休みを奪っているのだ。

 街へ出掛けたいというのもレイチェル個人の我儘で、それをクロエは嫌だと思っている。


(ああ、考えれば考えるほど悪い方にいってしまう)


 ぐるぐると負の方向へ思考が向かうのはいつものこと。

 それでも、やはり諦めきれなかった。


「あの、奥様」


 不意にレイチェルの袖をクロエが引く。

 その行動がどこか妹を彷彿とさせ、図らずも目を瞠った。


「心苦しいのですが、今から普段着に着替えてくるので。その後、奥様のお供をさせてくださいますか……?」

「え」


 やや上目遣いで見上げられ、加えて何を言われたのか理解できず反応が遅れる。


「本当なら──ですけど」


 ぽそりとクロエが何かを続けて呟いたが、レイチェルはそこまで考えが巡らない。


(まさか了承してくれるなんて……)


 我儘が過ぎるからと断られ、心底呆れられたと思っていたからだ。


 恐縮しきっていたのは、身の丈に合わない服を着たからだと今になって考えが及ぶ。

 同時に強制するものではないな、と反省した。


「あ、でも外出届けに理由を書き留めないと駄目なのですよね。どうしましょう」


 レオメイト家は指定の外出及び外泊届けを書き、それぞれの上司に届け出れば比較的自由に出歩ける。

 あとはアレクシスがまとめて目を通し、サインをすれば完了だ。


 これらはアレクシスが『日々仕えてくれる使用人に息抜きをさせたい』という、余りある心遣いが形を成して作られたものだった。


「っ、それなら私の付き添いだと書けばいいわ。時々クリスが街へ着いてきてくれるし、丁度買いたいものがあったの」


 本来、街へ出る時はライオネルを護衛として連れており、クリスティナほとんど街へ出掛けなどしない。


 それをクロエが知っている確証も少なからずあるが、それ以外に上手い理由など今のレイチェルにはなかった。


(ごめんね、クリス……!)


 レイチェルは心の中で謝罪する。もっとも、クリスティナはにこやかに『大丈夫ですよ』と言ってくれるのかもしれないが。

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