第8話 和解した日

 午前中は心ゆくまで書庫で本を探し、数冊借りて一冊を読みきった。

 余程集中していたのか、昼食が出来たとアナが呼びに来るまで気付かないほどだった。


 内容に引き込まれた部分もあるため、仕方ないというところもあるが、一度好きなことに集中するとつくづく目の前の事が見えていないと思う。


(直さないとと思う事が多過ぎるわ)


 ふぅ、とレイチェルは小さく息を漏らす。

 傍から見れば贅沢な悩みとも取れるが、それが出来たら最初から苦労していない。


「さぁさぁ、お早く。旦那様が首を長ぁくしてお待ちですよぉ」

「分かっているから押さなくても大丈夫よ、アナ。お庭までは一人で行けるもの」


 背中をそっとアナに押されながら、レイチェルは廊下をやや足早に歩いていた。


(まさか本当に了承してくれるなんて……)


 てっきり断られると思っていたのだが思いの外、二言ほど伝えただけで『行く』と言っていたという。

 もう少し粘るか拒否すると思っていたレイチェルにとって、拍子抜けしてしまった。


(あ、いらっしゃったわ)


 屋敷の裏手、レイチェルの部屋がある真下には花々に囲まれた小さな東屋あずまやがあった。

 屋根がついていて雨風も凌げるそこには、椅子が二脚置かれている。


 そのうちの一脚、レイチェルから背を向けてアレクシスが待っていた。

 さすが騎士というべきか、姿勢よく正した後ろ姿だけでも絵になり、しばらく声を掛けられない。


「……来たか」


 不意に振り向かれ、レイチェルは一瞬目を瞠った。

 一言も声を出していないのに、わかってしまうとは思わなかったのだ。

 顔を合わせたアレクシスは、身なりこそ簡素なものの少しやつれて見えた。


 仕事の邪魔になるからなのか、前髪は後ろに撫で付けられている。

 相も変わらず眉間に皺が寄っているのはいつも通りだが、それでも心配になった。


(そういえばライオネルが言っていたような……)


 街へ出る時、レイチェルの護衛をしてくれるライオネルは呆れた声とともに時々アレクシスの愚痴を、もとい『どうにかして休ませてくれ』と言いにくる。


 というのも、アレクシスが睡眠を取ってくれないと仕事がやりにくいのだという。


『そりゃあもう酷いもんなんですよ、あの朴念仁。俺が書類整理とかしてる間、ブツブツ独り言を言って……』


『俺の予想ですけど、お身体をやってしまわれたのかもしれないです。先日帰ってきた時なんか、歩き方がぎこちなかったですし』


『アレクに倒れられたら、皺寄せが全部俺に来るんで。なんとしても休んでもらわないと困りますよ、本当』


 レイチェルには分からないが、アレクシスとは幼馴染みだというライオネルからして見れば、普段との違和感があったという。


(確かに少し疲れているようだし、差し出がましいけれどお休みいただくように言わないと)


「──座らないのか」


 棒立ちのままずっと動かないレイチェルに苛立ったのか、アレクシスが切れ長の瞳を鋭くする。


「お、お待たせしてしまってすみません!」


 レイチェルは謝罪の言葉とともに頭を下げた。


(やっぱり怒らせてしまう……!)


 すぐに座っていればこんなことにはならないのに、と自分を呪ってももう遅い。

 急いで椅子に座ると、すぐさま傍に控えていたメイド達が紅茶や軽食の給仕をしてくれる。


 レイチェルはアナが選んでくれたらしいアールグレイを口に含む。


「あ、熱いのでお気を付けて」

「大丈夫よ」


 メイドの静止を振り切り、レイチェルはカップを傾けた。

 少し熱いが、爽やかな味がゆっくりと口の中に広がり、後に残る少しの渋さが荒れ狂う心を落ち着かせてくれる。


 卵やレタス、ハムを挟んでひと口サイズに切り分けられたサンドイッチはレイチェルには丁度いいが、アレクシスにとっては小さ過ぎるようだ。


 ちらりと見やるとアレクシスは先にサンドイッチを摘んでおり、大きな手でちまちまと食べている。

 その姿は小動物のそれを思わせ、身体は大きいのに不思議ね、とどこか上の空で思った。


「なんだ」

「え」


 どうやら紅茶を飲んでから、じっとアレクシスを見つめていたらしい。


「そんなに見られては落ち着かない」

「す、すみませ」


 さも不機嫌な声音にレイチェルが謝罪をしようとすると、小さくアレクシスが笑った気がした。


「っ……」


 ぶわりと頬が瞬く間に熱を持つ。

 アレクシスが屋敷で仕事をするようになってから朝食は共に摂っているが、横に長いテーブルを使っている。

 そのため、二人分ほどの距離しかないテーブルと普段とでは、仕草や呼吸まで細かに分かるから圧倒的に感じ方が違うのだ。


「貴方は謝ってばかりだな」


 くすくすとあまり大きくないながらも、アレクシスが笑っている。

 深く刻まれた眉間の皺が緩むと、わずかに残った幼さの中に男性的な魅力があった。


 まじまじと見ていなければ見逃すような、小さな仕草まで美しいと思うのはレイチェルがおかしいからではない。

 少し伏し目がちに笑う表情も、口元に手を当てて唇を隠す仕草も、洗練されているのだ。


 公爵という地位の高い家柄というのもあり、礼儀作法をしっかりと叩き込まれたのだろう。

 レイチェルは伯爵家では制限などされていなかったが、少し公の場で粗相をすれば父から叱られるのは目に見えていた。


 だから教養には人一倍気を遣い、昨年の社交界の時は華々しくデビューした。

 ただ、その後になって自分は世渡りが下手だというのに気付いてからは最低限のパーティーにしか出ていない。


 そのため、今では他の令嬢らより気品や教養が無い──とレイチェルは思っている。

 実際はそんなことはないのだが、これも自己肯定感が低いが故のものだろうか。


 ひとしきり笑って満足したのか、ふとアレクシスは真剣な表情でまっすぐに見つめられた。


「レイチェル」

「っ、はい」


 まさか名前を呼ばれるとは思わず、びくりとレイチェルの肩が跳ねる。

 アレクシスは端正な顔をゆっくりと下げると低く、けれどはっきりとした声で言った。


「謝罪が遅くなってしまったが、ひと月の間留守にして悪かった。貴方に寂しい思いをさせた」

「そ、そんな。謝らないでください! 私も、その……悪い、ので」

「は……? 何を言っている」


 とんと話が見えてこないといったふうに、アレクシスは顔を上げたかと思えば首を傾げる。


「わざわざお見えになってくれたのに、私が追い返してと言ってしまったので……。お詫びのお手紙も遅れてしまって、その……」


 頭に浮かんだ言葉を、途切れ途切れに唇に乗せる。

 ここまで言って自分が何を謝っているのか、そしてどれほど混乱しているのかレイチェルは理解した。


(でも、これではお互いに収拾が付かなくなるかもしれない)


 一度出てしまった言葉は取り消せないし、レイチェルとてこのまま怖がってはいられない。

 流れではあるが、結婚してからの疑問をこの場で言ってしまったため、話し合うのは今しかないといえた。


「すまない、あまりその時期の事は覚えていないんだ。……順序立てて話してくれると嬉しい」


 困惑しつつも聞く姿勢に入ったアレクシスに、レイチェルは面食らう。


「あ、そう……ですよね」


(先の戦争のこともあるけれど、アレクシス様は本来とてもお忙しいもの。覚えていないのも無理はないわ)


 公爵として日々の雑務や視察だけならばいざ知らず、騎士としての顔も併せ持つとなれば多忙なのも頷ける。

 そこのところを、レイチェルは今の今まで失念していた自分を恥じる。


「えっと、じゃあ」


 喉の乾きを紅茶で潤してから、レイチェルはゆっくりと唇を開いた。


 わざわざサヴァング伯爵家に来てくれたのに、レイチェルは訪れに応じなかったこと。

 詫びの手紙を送ったが返事が来ず、結婚式当日になってしまったこと。

 それ以降、この一ヶ月の間怒らせてしまったのではないか不安だったこと。


 途中で言葉が途切れつつも自分なりの言葉で話し、やっと伝え終わるとアレクシスはそれきり黙ってしまった。


「あ、あの……?」


 俯きがちにぶつぶつと何かを呟いているが、口元に指先を添えているためその言葉は聞こえない。

 それも相俟あいまって。レイチェルは心許こころもとなくなった。


 もしかして何か失態をしてしまったのではないか、そんな思いが頭に浮かぶ。


「──成程」


 不意に聞こえた呟きに、レイチェルは数度瞬く。


「それならば私も同じだ」


 短く言うとアレクシスは椅子から立ち上がり、椅子に座っているレイチェルの右側に回ってくる。


(あ……)


 結婚式の時のようにその場で膝をつくと、アレクシスはこちらを見上げた。

 こうされるのは二度目だが、まるで騎士が忠誠を誓う姫になったような心地になる。


「貴方を娶るのが遅くなったから、嫌われたのかと思った。しかし、ここ数日の貴方を見てそうではないと気付いたのだ」


 アレクシスが言うには、レイチェルの傍にはそれとなく護衛が付いていたのだという。

 護衛はライオネルだけだと思っていたが、あくまであの青年はアレクシスの『右腕』であり、レイチェルの前では主人と護衛という主従関係の真似事をしているに過ぎないのだと。


 本当の護衛は今もどこかに隠れており、このやり取りを見守っているらしい。

 アレクシスは公爵以前に騎士であるため自分がいない間、若妻に悪い虫が付かないよう見張らせていたのだと。


「傍から見れば知らぬ者に見張られてるなど、怖いと思うだろう。だが──俺は貴方を本気で好いたから、妻に迎えたということはわかってほしいんだ」


 ぴくりとレイチェルの頬が引き攣る。

 アレクシスは今の今まで『私』と言っていた。しかし、少しずつ口調が砕けたものに、一人称も『俺』になっている。


 それは本当の意味で夫婦になりたい、という意味にも聞こえた。

 加えてレイチェルを怖がらせないよう、言葉を選んでくれているのが分かる。


 それもこれも、自身が影でなんと呼ばれているかわかっていてのものだろう。


 いつの間にか周囲に居たメイドは二人を遠巻きに眺めており、時折「頑張れ、旦那様」「そこ、そこです旦那様。もう一息」などといった野次が飛ばされていた。


「これは言い訳になってしまうんだが。手紙の返答をしなかったのは、その……」


 メイドらの言葉が聞こえていたのか、そこで一度言葉を切るとアレクシスはがしがしと頭を搔いた。

 緩く撫でつけられた前髪が額にかかり、ほんのりと妖しさが増す。


「あー……、なんと書けばいいのか分からなかったんだ」

「え」


 レイチェルはぱちくりと瞳を何度となく瞬かせる。

 今、この男がなんと言ったのか理解できない。


(まさかアレクシス様にも苦手なことがあるなんて)


 いかにも完璧主義で、失敗を知らないと思っていたレイチェルにとって新たな発見だった。

 そして、同時に少し可愛いと思ってしまう。


「笑ってくれて構わない。どうやら俺は貴方に対して口下手で、過保護なところがあるらしいからな」


 ライオネルに言われたんだ、とアレクシスがもう一度小さく笑う。


 柔らかな髪が風に揺れ、ふわふわと不規則に動いている。

 軽く揺れる肩は服の上からでもがっしりとしており、当たり前だが男女の違いが否が応でも分かる。


 くすくすと忍び笑うアレクシスはこの世の何よりも美しく、艶やかだ。


(話してみれば違う、とクリスは言っていた。もしかして、こういうことだった……?)


 噂よりも冷淡ではなく、むしろ優しい。

 けれど、どこか不器用なアレクシスが次第に可愛らしく思えてくる。


「あ、あの」


 意を決してレイチェルは口を開いた。


「ん? なんだ」

「えっ、と」


 優しく促され、それまでなんともなかった羞恥心がぶり返す。

 きっと今の自分は頬を赤く染め、あられもない顔をしているに違いない。


「……大丈夫だ。貴方が話せるまで、ずっと待っている」


 じっと見つめられながら甘く言われると、くらりと目眩がするから止めてほしい。

 恥ずかしさでアレクシスから目線を逸らそうとしても、なぜかそれまでなかった圧力が掛かるからそれもできなかった。


「……ですか」


 ぽそりとレイチェルは呟くように言う。


「すまない、聞こえなかった。もう一度──」


 そっとアレクシスがレイチェルの唇に耳元を近付ける。

 これで断られれば仕方がない、と諦めもつくというものだった。


「あ、頭を撫でてもよろしいです、か……!」


 ありったけの勇気をかき集め、けれどあまり大きくならないよう声を落とす。最後はあまりにも小さすぎて、語尾が消え入り掛けた。


「あ、ああ……?」


 困惑しながらもアレクシスは膝をついたまま、撫でやすいよう少し頭を下げてくれた。


「しつ、れい……します」


 か細い声とともに、レイチェルはそろりとアレクシスの髪に触れる。


(了承してくださるなんて……でも、どうして私はこんな事を)


 アレクシスと可愛いと思ったはいいが、なぜ頭を撫でたいと思ったのかは分からない。


(あ、ふわふわ)


 しかし、その疑問はすぐさま霧散した。

 見た目はさらりとしているが、思っていた以上にふんわりとした感触で、なにより手に馴染む。


 まるで欲しかったおもちゃを与えられた時のように、レイチェルは夢中で撫で回した。


「……楽しいか」


 不意に低い声が聞こえ、そこでレイチェルは我に返った。


「実はずっと触ってみたかったのです。ごめんなさい、こんな事を頼んでしまって」


 改めて指摘されると、恥ずかしいことを頼んだなと思う。

 本来であれば夫婦なので、微笑ましいじゃれあいに入るのだが、それ以上にレイチェルはおぼこかった。


「いや、貴方が嬉しいなら俺も嬉しい」


 ふ、と目を細めてアレクシスが微笑む。

 その笑みに導かれ、ぎこちないながらレイチェルも笑った。


 穏やかな時が二人の間に流れ、どこかで小鳥の鳴き声が聞こえる。

 東屋から距離を取った場所では、メイドらの感極まった声がひっそりとこだましていた。

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