第6話 贈り物

「ここは……」


 アレクシスに連れて行かれた場所は、空き部屋だった。

 丁寧に掃除されたのか、部屋の中に埃や蜘蛛の巣もなく清潔に保たれている。


 間取りは大体レイチェルの寝起きする部屋か、それ以上ありそうな一室だ。


「貴方の好きに使うといい」

「え……?」


 ぽそりと短く呟かれた言葉に、レイチェルは素っ頓狂な声を上げつつも慌てて両手を振って抗議する。


「わ、私などのために……? そんな、勿体ない!」


 アレクシスの妻にはなったが、レイチェルは部屋を与えられるほど気に入られていたとは思っていない。

 それに実家から持ってきた家具や洋服の量は必要最低限で、もう一つ欲しいなどと思ってはいないのだ。


「勿体なくはないだろう。なぜそう思う」


 アレクシスがさも困惑したふうで問い掛ける。


「そ、れは」


(言うべき、なのかしら……?)


 自分は醜いということをレイチェルの口から告げてしまえば、もう二度と話せなくなるのではないか。

 アレクシスとて内心では醜い女を迎えることに、乗り気ではなかったのではないか。


 伯爵家の皆は何も言わなかったが、心の内ではレイチェルの陰口を言っているに違いないのだ。

 はぁ、とレイチェルより一歩下がったところに居るアレクシスが、溜め息を吐く気配がした。


 それも当然だ。黙ったままということは『要らない』と言っていることと同じ。

 加えて厚意を無碍にしたため、きっと呆れられている。


「──貴方に何かを贈ろうと思ったんだ」


 不意にアレクシスが、ゆっくりとレイチェルの正面に回り込んだ。

 何をするのかという恐怖と驚愕も相俟あいまって、自然と目の前の男を見つめる形になる。


 相変わらずアレクシスの眉間には皺が寄っているが、今はどこか苦しげだ。

 ともすれば何かを迷っているような、泣き出しそうな表情だった。


「しかし、私は貴方のことなど知らない。だから部屋を与え、好きに使えと言っているんだ」

「え、あ、はい……?」


 言葉は少しずつ足りない気もするが、アレクシスはレイチェルのために贈り物をしようと考えてくれたのだろう。

 ただ、何をあげたら喜ぶのか分からず、こうして部屋を一つ与えると言う。


 色々と飛び抜けているが、仮にも妻となった人に贈り物をしたい気持ちは分かる。

 分かるが、レイチェルとてそれを受け取る気はさらさら無い。


(普通、好みじゃないものでも『嬉しい』と言えばいいの……? でも私はお部屋は要らないし。ああ、こういう時どうすれば……!)


 馬鹿正直に言ってしまえば、その後何が待っているのか分からない。

 レイチェルは気まずさを悟られないよう、アレクシスを視界に入れないように顔を俯かせた。


「でも」


 ぽつりとレイチェルは囁くように言う。

 至近距離でアレクシスと顔を合わせるのはこれで二度目なのに、ゆっくりとレイチェルの胸に温かなものが溢れるのはなぜなのか。


 それはじわりと侵食し、次第に満たされてしまいそうな心地になった。


「でも──ここまでして頂くなんて」


 尚も言い募ろうとしたが、アレクシスの大きな手の平が近付いて遠慮がちに頬に触れる。

 自然と顔を上げさせられ、アレクシスの持つ深く青い瞳と改めて視線が交わった。


「何故泣くんだ」

「あ……」


 ゆっくりと指先で目の下を拭われ、レイチェルはそこで初めて自分が泣いているのだと気付いた。


(なんで、私……。こんな時に泣く事なんて、ないはずなのに)


「すみません、大丈夫なので。あの、気にしないで、くださ……っ」


 止めようとしても涙は後から後から溢れ、言葉を紡ぐうちに段々と鼻の奥が痛くなる。


「泣くな」

「う、うう……っ」


 レイチェルが涙を零す度、指先で拭われる。

 号泣するレイチェル以上にアレクシスの方が苦しそうで、同時に胸が締め付けられた。


 ──どうしてここまでしてくれるのか、分からなかった。


 こんな醜い女など、そのまま放っておいてくれても良かったというのに。

 仕事の都合だと言うのならば分かるが、結婚式から一ヶ月が経った今になって、罪滅ぼしのようにアレクシスから歩み寄られるなど想像していなかった。


「──これは私の憶測でしかないが」


 幼子をあやすかのごとく優しい声音で、レイチェルの頭に手が乗せられる。


「そうまで泣いてくれるとは、貴方は嬉しいのか……?」

「え」


 はたりとレイチェルは文字通り硬直する。

 アレクシスの口から『嬉しい』などというものが出たこともだが、自分ですら分からなかった感情にやっと合点がいった。


(私が、嬉しい……?)


 レイチェルは今の今まで父から贈り物をされた事はなく、ある程度我慢してきた。

 レイラはまだ小さいから、甘えたいから、と自分に言葉の枷を付けて我儘一つ言ったことなどなかった。


 父から初めて貰ったものは覚えておらず、そもそも贈られたのかすら記憶していない。

 だからこれは今まで溜めに溜めていたから出た嬉し涙なのだ、とレイチェルは思った。


(お父様は本当によくしてくれた。けれど私は……どこかで寂しかったのかもしれない)


 あまり父からかえりみられない幼少期を過ごし、結婚した後は息災かという手紙一つ無い。

 こちらから送ればいいのだが、レイチェルは心のどこかで父に『娘』と思われたかったのかもしれなかった。


(だから、アレクシス様の優しさに触れて……今まで気を張り詰め過ぎていたのね、きっと)


 ゆっくりとレイチェルが自分の感情を咀嚼していると、そろりとアレクシスに両肩を摑まれた。


「教えてくれ。貴方は部屋を与えられてどう思った? ……情けないが私は女性の、まして年頃の異性が好むものなど分からない。もしも嫌なら、貴方の欲しいものを改めて贈る。だから──」


 レイチェルが何も言わなくなったのをいなと思ったのか、やや焦った口調でアレクシスが問い掛けてくる。


「それで泣き止んではくれないか」


 アレクシスはぎこちないながら、唇を綻ばせる。

 せめて笑顔になって欲しいという想いが、表情に浮かび上がっていた。


「……すみません。もう、大丈夫です」


 アレクシスからの不器用な優しさが、今だけは愛おしい。

 こちらを気遣ってくれる人間はあまりいなかったため、泣き止んだと思ってもすぐに涙腺が決壊しそうだ。


 しかし、レイチェルは安心させるように微笑む。

 これ以上この男を困らせたくはなかった。


「っ」


 ぴくりとアレクシスの肩が小さく跳ね、強くないながらも肩を摑まれているレイチェルまで少し驚く。


「……これは、嬉し涙なので」


 ふふ、と小さく声に出して笑う。


「そうか。ならいいのだが」


 レイチェルが笑ったことで、アレクシスもいくらか表情が和む。

 ゆっくりと肩から手を下ろされ、なぜかレイチェルはその温もりが名残惜しくなった。


 もっと触れられたい、もっと貴方のことを知りたい、という思いがじんわりと高まっていく。


「お部屋、ありがとうございます。今はその、日当たりが良さそうなので……読書をする時に使わせてもらいますね」


 せめて感謝を伝えたくて、レイチェルは小さく呟くように言った。

 窓枠は外の庭に面しており、この分だと太陽の光をいっぱい浴びられそうだ。

 読書だけでなく、ただ日向ぼっこをするだけでもいいかもしれない。


(アレクシス様は私のためにしてくださったのよ。そのためにも何か……少しでもいいから、これから貴方のことを知っていきたい。醜いなりに出来ることはあるもの)


 そして、烏滸がましいがもう一度あのぎこちない微笑みを見たいという、ささやかな望みが頭をもたげる。


「ああ。好きにしろ」


 レイチェルの思惑が顔に出ていたのか、ふいとアレクシスはきびすを返しす。


「用を思い出したから出掛ける」


 しかし空き部屋から出ようとしたあと一歩の所でアレクシスは立ち止まり、まだその場に佇んでいるレイチェルを振り向いた。


「すぐに帰る」

「あ……。い、いってらっしゃいませ!」

「ああ」


 ふっと鼻で笑われ、レイチェルは顔から火が出そうなほどだった。

 当たり前だが、不意打ちをされる時や予想外のことを言われると、少し声が裏返ってしまうのは治さなければいけない。


 ただ、レイチェルの気のせいでなければ、これは結婚して初めての挨拶だ。


(でも私、やっぱりアレクシス様とお話するとおかしいのだわ……)


 ライオネルなどの異性と話す時は何もないのに、アレクシスとは少し会話をするだけで感情があちらこちらに揺れてしまう。


(……頑張って慣れるしかないわよね。それに、まだお顔を合わせるのは二回目なのだし。まだまだこれからよ、レイチェル)


 どくりどくりと早鐘を打つ心臓に困惑しながらも、レイチェルはゆっくりと新たな決意をした。


 女性に不器用な兆しのあるアレクシスのためにも、こちらも少しずつ歩み寄らなければいけない。


 そのためならば、レイチェルは何をしても仲良くならなければ。

 胸の前で拳を作り、小さく呟く。


「私は醜いけれど……きっと、大丈夫。大丈夫」

 大丈夫、と自分に言い聞かせるように何度も声に出すと少し落ち着く気がした。


 アレクシスの足音が聞こえなくなるまで、レイチェルはずっと空き部屋から微動だにしなかった。

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