第5話 二度目の対面
先程までクリスティナが座っていた椅子にアレクシスが座ると、それきり沈黙が落ちる。
応接室には二人しかおらず、会話も無いため痛いほどの静寂だけがそこにはあった。
壁に掛けられた古い時計の音が、今だけはやけに大きく感じた。
(ひ、引き止めてしまって良かったのかしら……お仕事は終わった、ようだけれど)
あの日から一ヶ月が経ち、今日で顔を合わせるのは二度目なのだ。
レイチェルの気が動転していたのは否めず、アレクシスはただ『暇ができたから覗いてやろう』と思った可能性もある。
(それとも私とは話したくなどない……? なら、わざわざここに居る必要もないのに)
アレクシスはじっと磨き上げたカトラリーに視線を向けている。
一向にレイチェルと目を合わせることなく、先程見下ろされて言葉を投げ掛けてくれたのが嘘のような態度だ。
何かを呟いているのか唇が微かに動いているが、そう広くないテーブルを挟んでいようとその声は聞こえない。
(ああ、もし『使用人に任せればいい事をするな』と言われていたらどうしよう)
食器に触っていると落ち着くため、レイチェルの中の密かな楽しみを奪われてしまうのは困る。
ただ、少しでもアレクシスと会話らしい会話をしたくて何かを言おうとするが、視界に入れるだけで目が泳いでしまう始末だ。
何より、こちらから話し掛けること自体勇気がいるのだ。
ほとんど初対面同然で結婚したため、上手い会話の
そもそもレイチェルはあまり男性に対する耐性がないため、異性が好む話などにはとんと見当がつかない。
ライオネルは事ある
だから数日と経たず打ち解けられ、本当の異性の友人のように思う。
しかしアレクシスはどうしてか椅子に座って以降俯いたままで、その表情は見えない。
「──だ」
「え」
脳内で一人考え込んでいると不意に上げられた顔に驚き、反応が遅れたレイチェルは尋ね返す。
眉間に深い皺が刻まれているが、こちらをじっと見つめる端正な顔立ちは美しい。
「……ここでの生活はどうだ」
小さく、けれど低く通る声だ。
短いながらも緩やかに発される言葉が、レイチェルの耳にじんわりと馴染んでいく。
「あ、えっと。皆とてもよくしてくださいます」
無意識でアレクシスの声に聞き惚れていたレイチェルは、同時に自分の感情に驚く。
(どうしよう、アレクシス様をしっかり見られない)
恥ずかしさを悟られたくなくて、レイチェルはアレクシスからそっと視線を外して唇を開いた。
ただし、目線はギリギリ顔が見えないくらい──アレクシスの胸元辺りを見つめる。
「毎日充実していて少し……怖いくらいです。平和すぎて、まるで夢を見ているみたいで」
半分は嘘、半分は本当だ。
あまりにも時間を持て余した時は庭に出るか、広い公爵邸の中を探検したりしている。おかげで少し間取りに詳しくなったこと。
それでも退屈な時は邸内の書庫へ行き、好きな本を読んでいること。
途切れ途切れながらここ一ヶ月の過ごし方を言葉にすると、少しずつ心が凪いでいく。
それもこれも、アレクシスが何を言うでもなく瞳を閉じ、レイチェルの言葉に静かに耳を傾けてくれているからだろうか。
「……そうか。それは良かった」
あらかた話し終えた返答がたった一言なのは切ないが、それでも嬉しい。
ゆっくりとレイチェルは視線を上げ、アレクシスを見る。
(あら、お顔が少し……柔らかくなった?)
気のせいなのかもしれないが、一瞬だけ眉間の皺が緩んだ気がした。
しかし、すぐさま皺が寄ってそれきり会話が終わる。
応接室の中が静寂で満ちる。
アレクシスから何かを言われる事はなく、ただ時間だけが過ぎていく。
(黙ってしまわれたわ。でも、私もお聞きしたい事があるのに……なんと言えば)
実際、レイチェルがアレクシスに聞きたいことはこの一ヶ月で山積していた。
こちらが起こした詫びの手紙の返答をくれなかったのか、どうして自分を妻に迎えてくれたのか、一ヶ月経って仕事は落ち着いたのか、と話題は尽きない。
なのに、思考とは裏腹に唇は動いてくれないのだ。
何かを話そうとしているのに、緊張から震えてしまう。
テーブルの下で組んでいる手も、低いヒールのパンプスに包まれた足も。
(でも言わなければ何も変わらない。だから一度勇気を出すのよ、レイチェル……!)
その時、はたと
少し恥ずかしいが、これを見せた時のアレクシスの反応が見てみたい気もした。
(……よし)
きゅっと一度強く瞳を閉じて喝を入れ、レイチェルは意を決して唇を開く。
「あ、あの……!」
「レイ……」
「どうも、紅茶を持ってきました〜!」
レイチェルが、アレクシスが、そしてライオネルがキャスターワゴンを転がして扉を開けて入って来たのは、ほとんど同時だった。
「おっと、もしかしてお楽しみでした? あ、俺のことはどうぞお気になさらず続け──いてててて!」
「……ライオネル」
アレクシスが音もなく椅子から立ち上がったかと思うと、大股で近付きライオネルの耳をぐいと引っ張る。
「ちょ、
ぎゃあぎゃあとライオネルが喚きながら、半ばアレクシスに引き摺られるようにして応接室を出ていく。
ぱたん、と静かな音を立てて扉が閉まった。
「……どうしたのかしら」
ライオネルが扉を開けたと同時に、僅かに通れるほどの隙間から部屋に入って来ていたクリスティナに問い掛ける。
「さぁ。クリスティナには分かり兼ねます」
にっこりと柔らかな笑みを浮かべるメイドに違和感を覚えつつ、そう、とレイチェルは小さく相槌を打った。
「旦那様とお話は出来ましたか?」
「ええ、本当に少しだけれど。でも、もう少し私の方から話そうとしたらライオネルが」
「──やはり入るのは待っておくべきだったかしら」
神妙な顔つきでクリスティナが顎に手を当てて小さく呟く。
しかし、安堵と落胆がない混ぜになっているレイチェルには聞こえていなかった。
「え、なぁに? 何か言った?」
「いいえ、何も。ライオネル様には、私がそれとなぁくお灸を据えておきますので」
こてりと首を傾げてクリスティナに問うも、どこか物騒な言葉を言ったであろうメイドに困惑しつつ頷いた。
「え、ええ……?」
(最近クリスの様子がおかしい気がするけれど……気のせいよね、きっと)
頼れるメイドが何か悪いものを食べたとは考えにくいし、どうしたのか聞くべきなのだろうか。
ややあって、ふわりと紅茶のいい匂いが漂う。
甘くほんのりと芳醇な香りは、
レイチェルがどこか悶々としながら、改めてカトラリーの残りを磨いていると、アレクシスがドアを開けて再度応接室に入ってきた。
しかし、その後ろから続いて入ってくる者はいない。
「あら、ライオネル様はどこへ?」
じっと集中しているレイチェルの代わりに、クリスティナが問うてくれる。
「用ができたからと言って屋敷に戻った」
「そうですか。あ、丁度淹れたばかりなのでどうぞお飲みくださいませ。お茶請けのクッキーもございますので」
言いながらクリスティナは手際よく紅茶を、続いてクッキーをテーブルに置く。
レイチェルの邪魔にならない場所にも、紅茶を置いてくれた。
「あ、ありがとう」
カトラリーを磨きながらレイチェルは礼を言う。
「レイチェル様、少しお休みしましょう。あまり長くしていてはお手が疲れてしまいますわ」
「……そうね」
やんわりとクリスティナに窘められ、仕方なくレイチェルは手を止める。
集中すると周りが見えなくなる節があるから、こうして言ってくれるのはありがたかった。
「──これはアッサムだな」
アレクシスが改めて真正面に座っており、レイチェルが顔を向けた瞬間小さく呟く。
先程のように不機嫌な表情ではないが、上機嫌でもない。
緊張した面持ちでレイチェルはそっと口を開いた。
「は、はい。先程買ってきたのです。よくお飲みになられるのですか?」
今度はしっかりと会話を続けたくて、しかしどこか落ち着かず、ぎこちなく言う。
「いや」
ゆっくりとアッサムティーを口に含み、アレクシスはゆるりと首を振った。
「あまりこういったものは飲まない。……コーヒーの方が好きだ」
そっと伏せられた瞳はこちらを見ておらず、紅茶に向けられている。
「そう、ですか。私は紅茶以外あまり飲まなくて。次はコーヒー豆を探して参りますね」
「ああ」
それきりアレクシスは黙り込んでしまった。
(か、会話ってここまで続かないものだったかしら……?)
冷たい汗が背筋を伝う。
こちらが何かを投げ掛けても、アレクシスの方で止まってしまっては元も子もないのだ。
しかし、ここでモタモタとしていてはいけないとわかっている。
「──先程」
レイチェルが切り出そうとする前に、アレクシスが小さな声で言う。
「先程、何かを言いかけていたな」
「あ……、あの」
眉間の皺さえ除けば、アレクシスはこの世の誰よりも美しいと思う。
まっすぐに見据えられる瞳は、混じり気のない深海の色。結婚式の時とは違い、前髪は柔らかく額にかかっている。
小さく聞こえる声は、きっと酒か何かで掠れているのだろう。
今更ながら、とても美しい人が夫なのだという事実にレイチェルは頬が熱くなった。
「い、いえ! 私などよりアレクシス様の方から……!」
「貴方から聞きたい」
両手を振って固辞しようとするも、なぜかアレクシスは引いてくれない。
このまま黙っている訳にも、こちらが言い募る訳にもいかずレイチェルは震えそうになる手で、懐に隠し持っていた
大事そうにハンカチで包まれたものを、ゆっくりと開く。
「これは……ブローチか?」
触っても? と問われ、レイチェルは迷いつつも頷く。
アレクシスの手に収まったブローチは、あまりにも小さ過ぎて子供のおもちゃのように見えた。
手の角度を変える度、青い石が鈍く輝きを放っている。
「今日、いつも寄っている店で見つけたのです。あの……アレクシス様の瞳に、似ていたので」
(どうしてこんなものをお出ししようと思ったの……!)
言葉にする度、レイチェルは顔から火が出そうなほどの羞恥に襲われる。
勢いで買ってしまったものだが会話を続けたくて必死で、ブローチを出したあと何を言われるか予想していなかった。
(ああ、呆れられたり気持ち悪いと思われたりしたら……!)
やや泣き出しそうになりながら、レイチェルは膝の上に置いた両手を見つめる。
何を言われてもいいよう、少し覚悟しておくべきだろう。
「これ、が──」
しかし、レイチェルの後ろ向きな予想に反してアレクシスから怒声はおろか、否定的な呟き一つ返ってこない。
先程よりもぐっと眉間の皺が寄り、僅かに拾った言葉もどちらの意味とも取れなかった。
「美しいな」
「っ」
小さな音を立ててハンカチの上にブローチが置かれると、続けざまに放たれた言葉にレイチェルは瞠目する。
「貴方はセンスが良いみたいだ。……私には無いものだ」
続けてアレクシスが立つ気配に、今度こそレイチェルは身構えた。
「……少し着いてきてくれ」
言いながらレイチェルの手に、ハンカチに包まれたブローチをのせる。
(何も……ないの? こんなものを見せられて気持ち悪いだとか、気味が悪いだとか)
普通であれば、醜い女が自分の瞳や何かに似たものを持っていると知れば困るはずだ。
『ありがとう』という言葉も分からないが、それと同時にアレクシスの心の内も分からない。
まったく釈然としないが、レイチェルは応接室を出ていこうとするアレクシスの後を追った。
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