第4話 ひと月ぶり
帰宅後、レイチェルはクリスティナの出迎えを受けつつ、ライオネルを伴って応接室に入った。
次回のお茶会の準備のため手ずからカトラリーなどの食器を磨き、買ってきた茶葉を瓶に詰めていく。
これは令嬢時代から続けている、レイチェルなりの小さな心遣いだ。
使用人に頼むよりも自らがした方が、その分お茶の時間も楽しくなる。
伯爵家から持ってきたカップやソーサーは数多あり、その時々によって使い分けているが、どれもが鈍く輝いている。
小さな汚れであろうと落ちていくのは気持ちがいいし、こうした細かい作業は黙々と出来るため、レイチェルの性に合っていた。
「──それでね、ライオネルが今日も美味しい茶葉を選んでくれたの。……私だけだとあれこれ悩んでしまうから恥ずかしいわ」
少しはにかみながら、クリスティナに店での出来事を話す。
こうして誰かと話す事がレイチェルの気分転換にもなっており、幼い頃から知っている人間と話すのは楽しい。
「ですが、私はレイチェル様の選ぶ茶葉も好きですよ? そうそう、先日頂いたものを寝る前に飲んでいるんですが、ぐっすり眠れるんです。お陰で毎日頑張れます」
向かいの椅子に座って食器を磨くのを手伝ってくれていたクリスティナが、にっこりと微笑む。
「それは良かったわ。もしも残り少なくなったら言ってね、買ってくるから」
「はい。すぐに言いますね」
数人の使用人たちを伴って嫁いでから数日、クリスティナはレイチェルの心情を察して眠れぬ夜を過ごしていた。
それもこれも自身以上に主を大切に思ってくれているからだが、それまでとは環境がぐるりと変わったためだとレイチェルは思っている。
(クリスは気分転換できているのかしら……)
その微笑みはいつもと変わらないが、あまり休めていないというのは知っていた。
だからせめてもの救いになればと、安眠効果のある茶葉を贈ったのだ。
「はいはーい、その時は俺もお供します!」
「っ」
突然割って入った明るい返事に、びくりとレイチェルの肩が跳ねた。
「ライオネル様! レイチェル様の前では大声を出さないでくださいとあれほど……!」
レイチェルの素振りに
ほとんど異性と会話をしたことがなく、気を許していない限り話す相手が多くなかったレイチェルにとって大きな、特に異性の声は心臓に悪い。
父から叱られる事はなかったものの、どこかに恐怖があるのかこうして時々驚いてしまう。
「すみません。気を付けてるんですけど、なかなか直らなくて」
ライオネルはレイチェルと顔を合わせてから、何度か窘められている。
先程とは一転して申し訳なさそうに謝るライオネルを笑顔にさせたくて、レイチェルはやんわりと微笑んだ。
「大丈夫よ。私の方こそごめんなさい、慣れないとなのに」
「いやいや、俺が気を付けてないのが悪いんで! レイチェル様こそ謝らないでください!」
ぶんぶんと両手を振り、ライオネルがますます慌てる。
アレクシスと同じく公爵という立場で、年もライオネルの方が上だというのに、この青年はどこまでもへりくだるのだ。
本来であればこちら側が敬称を付け、敬語で話す方がいいとレイチェルも分かっている。
しかし、それをライオネルはレイチェルが何か言う前に丁重に固辞した。
『俺なんかに敬語はいりませんし、どうぞ気楽にライオネルとお呼びください。──良ければ異性の友人として、これから仲良くしてくださると幸いです』
にっこりと太陽のような温かい微笑みを向けられ、それでも断るのはレイチェルに難しかった。
ずるずると引き摺って今に至るが、一ヶ月も経ってしまうとこれがライオネルにとっての『普通』なのかと思う。
「──あ、ライオネル様。茶葉が少し余りそうなので、厨房から瓶を一つ持ってきてくださいません? 小さめのもので大丈夫なので」
不意に響いたクリスティナのやや間延びした声に、レイチェルとライオネルの小さな攻防が止まる。
「分かりました。……持ってくるんでその顔止めてくれます? 一応公爵ですよ、俺」
はぁ、と溜め息を吐きつつ、ライオネルがクリスティナに言う。
レイチェルにとっては微笑んでいるだけのように見えるが、普段の笑みと何が違うのだろうか。
「すみません、貴方があんまりにも気安いので忘れておりました」
「はぁ、では……レイチェル様。一旦俺はこれで」
ライオネルは一言断りを入れ、お辞儀をしてから出ていく。
パタン、と扉が閉まってしばらく。
レイチェルはカトラリーを磨いていた手の動きを再開しつつ、クリスティナに問い掛けた。
「随分仲良くなったのね。クリスが異性と軽口を叩き合うなんて」
「……叩いてなどおりません」
数秒の間を置いてクリスティナがごく小さく呟く。
こちらが問えばほとんど間髪入れず返ってくるのに、少しの違和感を覚えた。
「え、でも楽しそうだと思ったけれど」
「レイチェル様にはそう見えるのですね」
心からの本音を言ったのだが、クリスティナはどこか居心地が悪そうだ。
「……なんだか、ライオネル様を傍に置く気持ちが分かるのかもしれません。あの性格ではきっと交友関係は広いでしょうし」
遠い目をしながら語るクリスティナの空色の瞳は、慈愛に満ちている。
この中ではライオネルが年長者のはずなのだが、いつも明るくこちらを楽しませてくれる人間は、異性であってもそういない。
きっと元来の性格がそうさせているのだろう。
「こう言ってしまえば悪いけれど、二人の会話には癒されているわ」
楽しそうで、というのは胸に秘めておく。
あまり思った事をすぐに言ってしまうのは喜ばしくないし、困らせるのはレイチェルの本意ではない。
しかし、口から出た言葉がすべて本音だというのは、クリスティナもわかっている。
だから黙って聞いてくれ、時々相槌を打ってくれる彼女と話すことがレイチェルは好きだった。
「本来であれば公爵様が護衛の任を請け負っている事は、おかしな話だけれど……」
苦笑しながら次の言葉を続けようとした時、ガチャリとドアノブが開く音がした。
「──何を話しているんだ」
「っ」
低くどこか艶を含んだ声に、レイチェルはカトラリーを取り落としそうになるのをなんとか堪える。
「旦那様……! お帰りなさいませ」
その人物の来訪に気付いたクリスティナは、間を入れず椅子から立ち上がり、いち使用人としての礼を取る。
旦那様と呼ばれる人間は一人しかおらず、加えて断りもなく扉を開けていいのは限られている。
「ああ」
ゆっくりとカトラリーに落としていた視線を上に向けると、こちらを見下ろしているアレクシスその人と視線が交わった。
じっと見つめられ、頬に熱を持つのが分かる。
一ヶ月ぶりに顔を合わせた夫は、結婚式の時よりもずっと凛々しく感じた。
「あ、えっと」
遅れてレイチェルも立とうとしたが、それよりも早く手で制され、どこか不自然な体勢のまま固まる。
「……いい香りだな」
小さな声で紡がれた短い言葉が、ゆっくりとレイチェルの耳に入って溶けていく。
それと同時にアレクシスにされた事、言われた事がまざまざと脳裏に浮かんだ。
『──騎士として、夫として……貴方を生涯、愛し守ると誓おう』
そうして手の甲にキスをされたのだ。
あの時のレイチェルは今のように、いやそれ以上顔が赤いことだろう。
(何か言わないと。何か……!)
頭が目まぐるしく混乱する。
けれど一ヶ月ぶりに顔を合わせ、アレクシスが声を掛けてくれたのだから、ここで黙っていては駄目なのだ。
妻であっても醜い自分と話してくれるなど
こうして考えている間にも、アレクシスは返答を待ってくれているのだ。
(差し障りのないことを言わなければ、時間を使わせてしまう)
アレクシスが気分を害さない、それでいて仕事終わりであろう彼が落ち着けるもの。
「あ、あの。良かったら飲まれますか!」
レイチェルはひらめいたと同時に瞳を閉じ、頬を染めながら苦し紛れに言葉を放った。
考え抜いた末の精一杯の誘いは、しっかりとアレクシスに届いたようだ。
「ああ、頂こう」
「──では、紅茶を淹れて参りますわ」
黙ってその様子を見守っていたクリスティナが、アレクシスの言葉を聞くやいなや応接室を出ていった。
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