第2話 初夜……のはずが
とっぷりと夜も更けて月が彼方に身を隠した頃、レイチェルはやっと人心地がついた。
レオメイト公爵邸はレイチェルの寝室には、年頃の若妻のために
ほんのりと甘い香りも漂い、知らずのうちにレイチェルの口角が緩やかな弧を描く。
けれど、じっくり部屋を見て回るのは後だ。今ばかりは足も腕も動かしたくない。
はしたないが、レイチェルはぼふりとベッドに横になって息を吐き出した。
「ふぅ……」
社交界のパーティーまでとはいかないものの、見知らぬ人の多い席ではずっと気を張っていなければならず、身も心もくたくただ。
レイチェルはそっと自身の纏う衣服に手を触れる。
さらさらとした手触りのいいそれは、あまり着たことがないものだ。
父は母が亡くなってからというもの質素倹約を心掛けており、レイチェルはおろかレイラですらここまで高価な衣服を知らない。
けれど、その代わりレイラには様々なものを買い与えていたのだから、矛盾していたと思う。
(私は無欲だと自覚はしているけれど……なんだかここは落ち着かない)
明かりは付けられているものの、レオメイト邸の寝室は伯爵邸の自室よりも遥かに広い。
加えて二部屋続きでベッドからその先は暗く、近付かなければ何があるのか分からないといったふうだった。
(今日、アレクシス様はいらっしゃるのかしら)
ぼうっと天井を見上げ、やがてレイチェルは瞼を伏せる。
アレクシスと目が合ったのは式の最中だけだが、その整った面立ちでは街中の女性たちが放っておかないだろう。
未だにレイチェルは何故自分が花嫁に選ばれたのか、理解出来ていなかった。
(素敵な方だったけれど、あまり目を合わせてくださらなかったし……やっぱり私が想像以上に醜いから?)
こちらがちらりと見ても、アレクシスはまっすぐに前を見据えているばかりだった。
時々眉間の皺が寄ったり、不機嫌そうな表情をしていた。
式が終わっても尚、こちらに少しも顔を向けてくれなかったのだ。
レイチェルとアレクシスは、結婚式の時点でほとんど初対面も同然だったから気まずいのは分かる。
最初こそレイチェルは緊張しきっていたが、誓いのキスを終えてからはそれすら見事に霧散したのだ。
(たとえ仮面夫婦になるとしても、少しずつ仲良くなれたらいいけれど)
結婚式までは憂鬱だったが無事に終わったの今となっては、どこか不思議で美しいアレクシスのことを知っていきたいと思う。
どんなに相手から見た自分が醜いからといって、ゆっくりと行動や言葉で愛情を伝えていけば自然と心も開いてくれるはずだ。
一般的には容姿一つですぐに離縁される訳ではなく、むしろアレクシスは普通の人間と比べて寛大なはずだ。
そもそも六歳の年の差があるため、年齢や精神ともにアレクシスの方が大人なのだ。
(私との年の差、というのもあるのかしら……年下が嫌いだとか)
貴族社会において、夫婦間で年齢差があるのはそう珍しいことではない。
半数以上は歳の近い者と伴侶になるが、それ以外の者たちは実家の金不足、男性側のたっての希望、歳若い妻を迎えたいから、といった様々な理由で家との縁を結んでいる。
ただ、アレクシスはそのどれとも違うのだろう。
所詮は嫁の貰い手が無いであろう令嬢に対しての同情で、レイチェルは少し早く貰われただけ。
グランテーレ王国では女性は二十歳、男性は二十五歳までに結婚していなければならず、それを過ぎれば行き遅れとされ家の恥とみなされる。
アレクシスは今年で二十二になるが、それでも今回の結婚はギリギリといったふうだ。
本来であればアレクシスが二十の年に式を挙げるはずだった。
しかし、十九の頃に先の公爵が病で亡くなったため、今の今まで細々とした雑務に追われていたから結婚が遅れたという話だった。
今でこそ公爵としての仕事や、貴族の務めである慈善事業を運営している。
現段階では仕事こそ山積していないが、それでも時間がある時は王宮へ行って騎士らに稽古をつけているという。
「──レイチェル様、クリスティナです。お休みでしょうか」
不意に聞こえた控えめな扉を叩く音に、レイチェルはむくりと起き上がった。
「起きているわ」
短く応答してしばらくすると、小さなランプを持ったクリスティナが部屋に入ってくる。
レイチェルのたっての希望で、伯爵家から何人か信頼出来る使用人を連れて来ていた。クリスティナはその内の一人だ。
姿を現したメイドはとても普段の彼女らしくない、どこか険しい顔色だ。
それに、本来であればその後にアレクシスがやってくるはずだが、一向に後ろから人が入る気配がない。
「どうしたの?」
不審に思って尋ねると、眉間にやや皺を寄せた表情のままクリスティナが言葉を濁す。
「それが、なんと申し上げたらいいか……」
もごもごと口を開いては閉じてを繰り返すクリスティナの様子に、レイチェルは嫌でも察してしまった。
(ああ……やっぱりそうなのね)
悲しいが、それでも現実なのかと疑いたくもなる。
「なぁに、そんなに勿体ぶらないで教えて?」
やや焦った口調が出たことに驚きつつ、けれど予想が当たっていることを信じたくなくてクリスティナに言葉を投げ掛ける。
「アレクシス様は今夜、こちらに参らないとのことです」
「……そう」
聞いたのはこちらだが、はっきりと言葉にされると落胆の方が大きい自分に重ねて驚く。
アレクシスの顔を見るまで何も思わなかったものの、いざ部屋で待っていてやはり『来ない』と言われるとどうしてこんなにも悲しいのだろうか。
自分たちは結婚して今日から夫婦となったが、それはそう遠くない未来、形だけのものになるというのに。
「あ、でも! でも、レイチェル様はきっとお疲れだろうからゆっくり休め、と仰っておいででした」
レイチェルのがっかりした表情に焦ったクリスティナが、慌てて付け加える。
先程まであった苦しげな表情は、綺麗さっぱり消えていた。
「え」
レイチェルは瞬きを繰り返す。
本来であれば、疲れていようと夫婦となった最初の日に共に寝るのではないのだろうか。
確かに疲れていたが、そこまでの温情を掛けられる
「お会いは出来ないの……?」
自分でも悲しげで少し怒った声音だと思う。まるで幼い頃からお気に入りのぬいぐるみを、使用人の手違いで捨てられた時のような。
「はい。えっと、こちらに来られるように取り次ぎましょうか?」
「大丈夫。……そうね、今日は気を張り過ぎて疲れているし、もう休むわ」
レイチェルの願いを聞き入れようとしてくれるメイドが申し訳なく、やんわりと微笑んでもう一度ベッドに横になる。
どうしてアレクシスが気を遣ってくれたのか分からないが、今日はその言葉に甘えた方が良さそうだ。
「さようですか」
改めてベッドに入ると先程まで無かった睡魔がやってきて、レイチェルの瞼がとろりと下がる。
こちらが何かを言う前に、クリスティナは部屋の明かりを消してくれる。
クリスティナの周囲を薄ぼんやりと照らし、小さなランプがゆらゆらと柔らかな光を放っている。
「おやすみなさいませ、レイチェル様」
起こさないよう小音で挨拶を言ってくれる少女に感謝しつつ、眠気の滲む声でレイチェルも言葉を返す。
「ええ、おやすみ。……クリスも早く寝てね」
薄明かりのなか頷いたクリスティナの姿を最後に、レイチェルは夢の中に旅立った。
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