一章

公爵様と婚約したのですが

第1話 結婚式

「はぁ……」


 レイチェルは控え室として使っている教会の椅子に座り、溜め息を吐いた。

 今日は待ちに待った結婚式の日だ。


 パニエをたっぷりと使い、ふんわりと華やかに広がるウェディングドレスはレイチェル自らが選んだもの。


 同年代に比べて身長はやや低いが、すらりと伸びた手足に憂いを帯びた睫毛が、どこか儚い雰囲気を醸し出している。


(ついにこの日が来てしまったわ……)


 前日まではなんともなかったが、当日になるとこんなにも不安にさいなまれるものなのだろうか。

 いつ教会の人間が呼びに来るのかと思うと憂鬱で、更にその先では父であるサヴァング伯爵が待っているのだから、気が重くなるのも無理はない。


(ああ、胃が痛い。こんなことなら、クリスにギリギリまで勇気付けてもらえば良かったかも)


 気休めでしかない事はわかっているが、それでもこの広い部屋で一人きりで居るのは心細い。


 誰かがいてくれたらお喋りをして気を紛らわせられるのかもしれないが、先程『もう大丈夫だから持ち場に戻って』と部屋に留まる使用人に言ってしまったため、しばらくはレイチェル一人で胃痛と戦うことになりそうだ。


 もっとも、メイドから始まるその他の使用人達は、式のあれこれで廊下を行ったり来たりしている。

 レイチェル一人にかかり切りになってほしくなくて、しかし今になってクリスティナに居て欲しかったと後悔しつつあった。


(アレクシス様は……一体どんな方なんだろう)


 仕立て屋が屋敷に来て結婚式の諸々を決めたその日の夜、レイチェルはアレクシスに手紙をしたためた。


 ──せっかくご足労頂いたのに、あの日はお出迎えできなくてごめんなさい。


 その時のレイチェルは、非礼を詫びる文章を書くだけで動悸がしたのは記憶に新しい。


(やっぱり手紙でお詫びするより、直接出向いた方が良かったかしら……)


 式まで猶予があったとはいえ、アレクシスは公爵としての責務に加え、騎士として王宮に呼ばれる事もしばしばだという。


 事前に訪れを告げてから向かえば良かったが、レイチェルはどうしてもその気にはなれなかった。

 きっと怖いのだ、アレクシスと面と向かって話をする事が。


 肝心の手紙の返答は今日この日まで来ていないが、レイチェルはそれでも良かった。

 きっと、これから自分達は形だけの仮面夫婦を演じる事になる。


 手紙が返ってこないのも、レイチェルの行動が遅かっただけ。今の今まで、アレクシスからなんの返答も無く結婚式の日を迎えたのが、その理由だ。


 式が無事に終わったあかつきには、レイチェルは晴れてレオメイト公爵邸で暮らすことになる。

 そして、今日のどこかでアレクシスから手紙の回答と、これからの事について話すことになるのは必至だ。


「レイチェル様、そろそろ」


 どこか上の空で式が終わったあとの事を考えていると、控え室の扉が遠慮がちに開けられた。

 その隙間から、ひょこりとクリスティナが顔を出す。


 使用人も出席するように、という父の計らいで今日のクリスティナは白いワンピースドレスを見にまとっていた。


「……わかったわ」


 段々と胃の痛みが酷くなっていくが、気遣ってくれるクリスティナに支えられ、レイチェルは気力で立ち上がる。

 チャペルの扉の前では、父であるサヴァング伯爵の後ろ姿が見えた。


(お父様……)


 父の姿を見る度、レイチェルの心はズキリと痛む。

 忘れたくても忘れられない記憶は、時として雁字搦めにする鎖でしかないと痛感した。


 幼い頃から会話らしい会話をしていなかったが、これで父の顔を見るのも最後になるのかと思うと、わずかな寂しさが残る。


 つくづく良い父親とは言えなかったが、それでも娘のためにと手配してくれた縁談、ここまで育ててくれた恩を思うととても責める気にはなれなかった。


 レイチェルの母は男爵家の出だったが、父との間に愛は無かったと聞く。

 しかし、両親は二人の娘を授かったのだから、表面上であってもそこに愛はあったのだろう。


 母はレイチェルの妹──レイラを産み、病で二年後に亡くなった。

 そのため五つだったレイチェルはまだしも、レイラに母の記憶は無いに等しい。


 加えて母の忘れ形見のようなレイラを、父は殊更溺愛しているのだった。

 常に『お前は賢い』『美しくなる』と言って、レイラからの大きな我儘であろうと父は叶え続けた。


 本来であれば父の愛を一身に受けて我儘に育っているであろうレイラは、過去に囚われ続けている姉よりも遥かに高尚で聡明になった。


 今年で十三歳になるが、レイチェルの目から見ても可愛らしい妹は今から縁談の話で持ち切りだという。

 遠方の貴族からも縁談があるのだから、果てには王族になるのも夢ではないと噂もあった。


 社交界デビューをしていなくとも、幼い頃から婚約者が居るのはこの国では普通のことだ。レイチェルとてそうだった。

 しかし、レイラは未だ婚約者はおろか縁談一つ受けていない。


 選り好みしているとは言い難いが、レイチェルが結婚後に決められる事も十分有り得た。


(アレクシス様と結婚するのは、本当なら私じゃなかったはずなのに……)


 国王の覚えもめでたい騎士の称号を賜り、公爵としての人望も少なからずある。

 戦場での行動に尾ひれが付いているだけだとしても、自分のような醜い女を妻に迎えて嬉しいなどと思う方が不思議なのだ。


 ゆっくりとレイチェルが扉の前まで来ると、父がまっすぐに前を見据えたまま言う。


「──レオメイト殿は大層お前を気に入っておいでだった。サヴァング家として、ここまで言われては後には引けない。いいな、これからは公爵夫人としてよくよくお仕えしなさい」

「……はい、お父様」


 淡々とした父の声音は、普段となんら変わらない。

 しかし、嫁に行く娘に送る最後の言葉としてはどこか冷たくもあった。


 これがレイチェルの知る父なのだ。それに今更何を言おうと、ここで今生の別れとなる訳ではないのだ。

 生きていれば必ず会えるのだから。


(落ち着いたら、お父様に手紙を書こう)


 式を挙げてしばらくの間、レイチェルは公爵夫人として忙しくなるだろう。

 そうなってしまっては、伯爵家を訪ねるのは難しくなる。


 どこかで暇を見つけて近況を手紙で伝えるくらいならば、父は受け取ってくれるはずだ。

 元々筆まめな人だと知っているから、それを何度も重ねていけばレイチェルに少しは目を向けてくれるかもしれない。


(だからどうか、お母様が生きていた頃のように笑顔を見せてほしい)


 母が亡くなる前まで自分たちに向けてくれた、父の笑みが恋しい。

 よくやったと褒めてくれた言葉と、温かな手の温もりが恋しい。


 何気ない時にそう思ってしまうのだから、きっとレイチェルは今も寂しいのだ。

 しかし、今日から新しい人生を歩むのだからそうも言ってられない。


(それ以上に……私は私に出来る事を頑張らないと)


 自分に言い聞かせるように、レイチェルは何度も胸の内でそう唱える。

 これからの事を考えると気が重くなる。だが、気をしっかり持っていなければ、このままくずおれてしまいそうなのだ。


 レイチェルが決意を新たにしたと同時に、左右にいた男たちによってチャペルの大扉がゆっくりとおごそかな音を立てて開いた。


 瞬間、弦楽器とパイプオルガンの合奏が流れ出る。

 左右の長椅子には両家の親類や使用人から始まり、公爵側の知人であろう見目麗しい男女らが、花嫁の到着を待っていた。


 数多の視線と拍手の渦に包まれ、父の腕を借りながらレイチェルは一歩一歩ゆっくりと歩く。

 足を踏み出す度、心臓が段々速く脈打っていくのがわかった。


 まっすぐに伸びた道の先で待っているのは、長身痩躯の男──今この瞬間から夫となる、アレクシスだ。

 白いタキシードをきっちりと着こなし、胸元にはレイチェルの手に持っている花束と同じ白い薔薇が一輪挿してある。


 緩やかに撫で付けられた髪は輝くブロンドで、すっと通った鼻筋と薄い唇、海を閉じ込めた瞳が遠目からでも印象に残った。

 やがて父の腕からアレクシスの腕に取って代わり、祭壇までの短い距離をエスコートされる。


 傍に来てみると分かる。

 この男は、生まれから両親に愛情深く、けれど摑めるものは努力して摑んだのだと。

 加えてどんなに冷酷無慈悲と噂され、好き勝手言われていようと縁談が耐えなかった事は確かだと言えた。


 なのに、レイチェルを妻に迎えるなど物好きがいるものだと思う。


「アレクシス・フォン・レオメイト。なんじは病める時も健やかなる時も……」


 祭壇の前まで来てしばらくすると、ゆったりとした神父の声がこだまする。

 今この時、レイチェルとアレクシスは神に誓うのだ。


 ──生涯、この人を愛することを。


 レイチェルはそっと隣りに立つアレクシスを盗み見た。

 アレクシスの面立ちは、ヴェール越しでも分かるほど美しい。


 レイチェルはこれほど整った顔立ちの男性を、今まで生きてきた中で知らなかった。

 やや伏せられた睫毛が柔らかく頬に影を落としているのも相まって、どこか妖艶な色香を漂わせていた。


 そう思ってしまうほど、改めてアレクシスと自分は釣り合わないのだと自覚する。


(本当に私はアレクシス様の妻になるのね……)


 未だに信じられないが、この日が来てしまったのだから受け入れるしかないのだろう。

 その後、どこかでアレクシスと話し合う時間は必ず来る。


 その時はこのまま『仮面夫婦』となるのか、それとも『ただの夫婦』として愛を育んでいくのかが決まるのだ。

 それに、手紙の返答もアレクシスの口からもらわなければ、レイチェルの溜飲も下がらない。


「──グ、……レイチェル・サヴァング!」

「っ」


 びくりと小さく肩が跳ねる。

 自分は余程上の空だったようで、神父がやや困った表情を見せたものの、すぐさまもう一度言葉を紡いでくれる。


「汝は生涯、アレクシス・フォン・レオメイトを心から愛することを誓うか?」

「……はい」


 それは短いものなのに、喉に何かが張り付いたように声が出ない。

 本当は今すぐにでもチャペルから出ていき、一人になりたい。

 けれど、言わなければこの場所から離れる事は出来ないのだ。


「誓い、ます」


 レイチェルは花束を持った手に力を込め、声の震えをなんとか抑える。

 厳かな空気の中で指輪の交換を済ませると、次はレイチェルにとってもっとも胃が痛くなる場面だ。


「──それでは誓いのキスを」


 神父が言うと、ゆっくりとアレクシスの手でヴェールが上げられる。

 それまでは薄い布越しだったが、開けた視界いっぱいに夫となる人の顔が広がった。

 レイチェルが思っていた以上に髪色は明るく、そしてまっすぐに向けられた瞳は深い海を思わせる。


(ああ……)


 やはり美しい人、とぼんやりと思う。

 酒に酔ったように頭がくらくらするのは、この場の熱気とアレクシスの色香にあてられたからだろうか。

 同時に『この人と結婚する』という事実に、空恐ろしいものを感じる。


(どうか、少しでも好まれるようにしなければ)


 自分の顔は醜く、アレクシスと釣り合いが取れないのは百も承知だ。その代わり、行動や言葉で愛を伝えていけばいい。

 段々高鳴っていく心臓の音を聞かれたくなくて、けれど顔は上げたままレイチェルは瞳を伏せた。


 アレクシスが近付いてくる気配に、無意識のうちに肩が強張こわばる。

 けれど唇にされるであろう温もりはなく、顔よりもずっと下──手の平をそっと包まれる。

 図らずもレイチェルが驚愕で瞳を開くと、アレクシスは膝をついてこちらを見上げていた。


「……っ」


 どくん、と一際大きく心臓が跳ねる。


「──騎士として、夫として……貴方を生涯、愛し守ると誓おう」


 ほんのりと頬を桃色に染めた少女がそこにいた。それが紛うことなき自身だと気付くのに、脳の処理が追い付かない。

 深海を思わせる瞳にはレイチェルだけが映っており、反対に自分の目にもアレクシスが映っていることだろう。


 当たり前だが、周りには大勢の人々がいる。

 大事そうに手の甲へ押し付けられたアレクシスの唇が熱い。


(こ、これは)


 頬を触らなくても、熱を持っているのが分かる。

 むしろ唇以上に恥ずかしいキスを受けている事実に、自分が醜いということも、失礼のないように努める事も忘れそうになってしまう。


 手の甲にキスをするアレクシスの金色の睫毛が、頬に柔らかな影を落としていた。

 それはすぐに離れていったが、チャペルの扉の前でずっと早鐘を打っていた心臓が、今は痛みの中に苦しさが紛れていた。


 それに先程までのキリキリとした胃痛はなく、反対に胸が針で刺されたような、名状しがたい鈍痛があった。


(なんなの……)


 レイチェルは己の感情に理解が追い付かない。

 これが双方にとって望まない結婚である事も、この先の結婚生活が仮面夫婦となる場合もあるのに。


「──若き二人のこれからに、幸多からんことを」


 式が終盤に差し掛かっても尚、アレクシスの温もりが触れられた手の平や手の甲に、じんわりとした熱がくすぶっていた。


 自身のその胸の内に芽生えたものがなんなのか、この感情を知っている人間に聞けば分かるのだろうか。


(……時間が出来たらクリスに聞こう)


 レイチェル以上に博識なメイドは、きっとこの答えを知っているだろう。


 ──数多の温かな言葉と拍手に包まれ、レイチェルはこの日をさかいにレオメイト公爵夫人となった。

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