想い

「…もしもし?あの、誰ですか?」


彼の言葉で、やっと我に返った。


「あ、大西…さやか…です」


舌がうまく回らない。


「おっ、どうした?こんな遅くに」


「い、今、何時ですか…?」


「えっと…そろそろ十時くらい」


この声。喋り方。

間違いない、池山君だ。私はそう確信していた。

二千二十一年二月十五日を生きている自分は今、二千二十年二月十四日、午後十時の彼と話している。


──こんな夢みたいなことが現実に起きるなんて。


「…それで?何か用があるんだろ?」


「あ、えっと…ちょっと待ってください」


無意識に口調が丁寧になってしまう。 

話すのは一年ぶりだし、電話したことなんてもちろんなかったから。


「なんで敬語?」と突っ込む池山君は、それでもじっと、次の言葉を待ってくれている。


──でも、電話がつながったときから私の頭の中は真っ白になってしまった。

何のためにこの相手と話しているのか、一瞬だけ見失ってしまったほどに。


そのせいで、一番強く思っていたことが口をついてしまった。


「池山君、明日、がっ…」


学校に来ないで──。

寸前のところで言葉を飲み込む。

途端、悪寒が背筋を駆け上った。身体は冷え切っているにも関わらず、一気に冷や汗が噴き出す。


「死」──それを、初めて肌で感じたような気がした。


受話器を握る手が震える。私は強く強く、唇を噛み締めた。


「死」は私の背中にぴったりと張り付いて、いつ殺そうかと息を潜めている。


──池山君。

あなたも車にはねられる直前、こんな恐怖に襲われたの?


「…うん?なに?」


彼が不思議そうに尋ねてくる。

そうだ、まだ安心できない。


「いや、明日の学校の給食、おいしそうだと思って…」


下手すぎる言い訳だ。わざわざ夜中に電話しておいて、給食の話なんて…。

どんな反応をされるか肝が冷える思いだったが、受話器の奥からは笑い声が聞こえてきた。


「あはは!もしかしてそれだけ?言いたかったことって」


池山君が笑う声は、明るくて、爽やかで、弾むようで。


だから、私の胸は余計に苦しくなっていく。


「…なぁ、大西」


「えっ」


思わず間の抜けた返事をしてしまった。

──池山君に「大西」と呼ばれるのは、本当に久しぶりだったから。

席が離れてからずっと、「ねぇ」とか「あのさ」で始まる必要最低限のやり取りしかしていない。


席替えがきっかけで彼に話しかける機会がなくなった、だけなのかな。


──違う。


チャンスはたくさんあった。そもそも、自分から話しかければ良いだけのことなのだ。


でも、それができなかった。 

ずっと彼から目を逸らしていた。話しかける勇気も、目を合わせる勇気さえも、自分にはなかった。


目の前にあったチャンスに手を伸ばさなかったのは、私自身だった。


「どうかした?今日のお前、なんか変だよ。…言いたいこと、あるんだろ?ちゃんと聞いてるからさ。ゆっくりでいいよ」


「…うん」


──池山君。

あなたが「大西」って呼んでくれて、やっと気づいたよ。


「あのね」


私はずっと、自分から逃げていた。

自分の気持ちと、しっかり向き合えていなかったんだ。


「私、池山君のことが」


でも、今ならはっきり言える。


「好きです」


こぼれるように出てきた四文字は、単純で、不恰好だったかもしれない。

それでも、私の想いを表すには一番ぴったりな言葉だと思った。


池山君は、何も言わない。


受話器を通した沈黙。


──覚悟はできている。

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